すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ゆれる映画を見ました

2009年10月05日 | 雑記帳
 振替で休みの月曜日。特に予定もなかったので、自宅であれこれ。

 録っておいた映画も見た。その中の一本、西川美和監督の『ゆれる』

 これは面白かったなあ。
 さすがに評判の作品という気がした。

 オダギリジョーと香川照之の組み合わせというのが、絶妙だ。
 最近の香川照之の活躍ぶりは誰しも認めると思うが、改めて「巧いなあ」と思わせる。
 顔全体のパーツを使った表情の作り方が完璧である。
 一方あまり表情を作らないというか、目やそぶりで演技するオダギリとの対比が秀逸である。

 兄と弟、地方と都会、堅実さと奔放さ…それらを重ね合わせた台詞にもぎくりとさせられる。

 「俺なんか、逃げてばかりの人生だ」と心情を吐露する弟に対して
 兄は、「つまらない人生から逃げ出しているだけ」と応えた。

 その隙間をどう認識していたか、どれほどの重さで抱えていたか
 裁判の証言をめぐって、何が正しいのか誤りなのか、まさに「ゆれる」二人だ。

 節目となる最後の面会場面を、画面をかすかにゆらして撮るなんて、ちょっと小憎いほどだった。

文学オンチの読書の秋

2009年10月04日 | 読書
 今年の読書の秋、少し無謀と思いながら、平野啓一郎に挑戦している。
 
 単行本は本屋の立ち読みでもう駄目だなあとわかっているが、文庫本、それも短編ならと思って買ったのが

 『あなたが、いなかった、あなた』(新潮文庫)

 やはり、無謀だった。
 話の筋がわからぬわけではないが、難解な言葉や言い回しにただ活字を追っているという状態になってしまうことがしばしばある。

 それでも、何かその泥沼のような文体がちょっと魅力的であったりして、こういう楽しみ方もあるんだなと思ったりもする。

 さて、この短編集は「死」が一つのテーマなのだろう。
 「フェカンにて」という話の主人公大野(作者自身が当然投影されているのだろうが)に語らせている死生観は、初めて触れた考え方であった。こんな表現にぐうっと引き込まれるような気がする。

 彼が恐れるのは、その後に死に続けていなければならない時間の無限である。
 
 「死に続ける」…これはパラドックスと呼んでいいものだろうか。
 そこまで自分の存在の無限さを信じていいものだろうか。
 存在を否定する存在のありかを信じている自分…ここまでくると何が何やらであり、言葉の操作のみではないか、と打ち切ってしまいたい。

 しかし、それを打ち切らずに進めていくのが文学なのでしょうねえ…やはり私は文学オンチだ。

希求めいたエネルギーがほしい

2009年10月01日 | 雑記帳
 隣校で行われた中学生の弁論(少年の主張)を聞く機会があった。

 9名の子どもたちはそれぞれの熱心さで語りかけていた。なかに二人ほど見知った顔もいて、成長を感じさせてくれる嬉しい時間となった。
 ただ、肝心の主張の中味は、正直物足りないというか、ガツンとくるものは残念ながらなかった。

 9編の内容を自分なりに分類してみると、「いじめ・人権」が2、「家族」が2、「地域・ふるさと」が2、「福祉」が2、そして「平和」が1というテーマになる。何かに偏ったわけでもないが、何かが足りないような気がする。

 そういえば自分が中学生の頃、弁論を逃げ回っていた?記憶がある。人前で話すのが苦手というより、弁論に書くような「美しい」ことが嫌いだった、恥かしかったような気持ちを思い出すことができる。結局、自分がそうした場に立つことがなかった。
 しかしある時、あれは確か校内の弁論大会だったと思うが、1人の上級生のある弁論を聞いて、衝撃を受けたことは今も覚えている。

 そのタイトルは、「自由と規律」。

 著名な新書のタイトルであるが、その内容に触れられていたかどうかはわからない。ただ、当時中学生であった私たちを縛っていた校則や、大人からの小言のようなものに対して熱く問いかけていた姿に惹きつけられたことは間違いない。

 それは一つ上のお姉さんで、今でもたまに近所で見かける度に、私にとっては「自由と規律」のお姉さんなのである…これは全然関係ないか。

 今回の弁論に足りないと思ったのは、おそらくそうした希求めいたエネルギーである。
 むろん弁論の中では「差別をよそう」「故郷が大好き」「平和を守ろう」などと強く語られるが、それらはもう一つくぐり抜けた叫びとして伝わってこない。

 縛られていることを感じていないか。
 縛るものが見えていないのか。