すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

貴方の計画や仕事は、10を超えていますか

2007年01月06日 | 読書
 昨年末から少しずつ読み続けていた
『日本人が忘れてはいけない 美しい日本の言葉』(倉島長正 青春出版社)をようやく読了した。

 ほとんどの言葉を「知ってはいるが、使っていない」という現実を実感する。
例えば「たまゆら」「居住まい」「首ったけ」…
例えば「益荒男」「手弱女」「とうへんぼく」…
 方言と同じように、よほど意識しないと忘れ去られていくんだろうなあと思う。
 意識しようにも、もはやその存在や感覚が珍しいのだから仕方がないのだろうか。

 それはともかく、巻末に付章として「物の数え方」という項目があった。
 自分自身知識がないものだけに、結構興味があり以前別ブログに書いた ことがあった。

 今回も、実にポピュラーな?「つ」と「個」の問題。

 「あの人は、私より○個下だよ」なんていう年齢の使い方に
ええっと思っても、はずみで自分も使ってしまったりするときがあるので
どうも自己嫌悪に陥りがちな話題だ。

 筆者は、その使い分けをこのように書いている。

 簡単に言ってしまえば、一般に十程度しか数えないものは「つ」で、十以上になるものは「個」ないしはそれぞれに固有の助数詞を使うことになる。

 個々の事例を取り上げてみれば、全ての場合にぴったり当てはまるとはいかないかもしれないが、なかなか妥当性があるのではないか。

 具体物を「個」、抽象物を「つ」という分類もあるようだが、抽象物も10を超えて数えることはあまりないだろうから、整合性も感じられる。
 従って、こんな文章もある。

 計画や仕事、あるいは、疑問、質問なども「つ」の方がよい。

 もちろん、10を超えて存在するそれらのものであるが、日常私たちが抱えていることは、そんなに多くないはずだ。
 たかだか、いくつかの計画、仕事のために振り回されてはいけない、と年頭らしいまとめをしてみたいのだが…。
 
 仕事は始まっているのに、今年の目標などを一つも決められないのはどういうわけだと考えてみたら
 目標などと大きくするからいけないわけで、10を超えて仕事や計画をリストアップするといいかもしれない、と思いついた。

 「18個の計画」とか「55個の仕事」というように。
 そうすれば、具体物となってより明確な対象となるかもしれない。
(後は実行あるのみ、ですね)

持続力と集中力は相対するもの

2007年01月04日 | 雑記帳
 去年の秋頃の雑誌(ダ・カーポ)をなんとなく読み返していたら
自分にとってはちょっと新鮮な論を見つけてしまった。
 脳科学の研究者として名の売れている池谷裕二氏が、こんなことを言っていた。

意識が分散するというか、一つに固定されないことが、いろいろな可能性を生む。
だから、持続力と集中力とは、相対するものなのです。


 子どもを評価する言葉として、よく「集中力がない」とか「集中が持続しない」「飽きっぽい」などと使ったりするが、
それは脳の活動として果たしてどういう状態なんだろうと思わざるを得ない。

 心の新鮮さを持続していくことが持続力であるならば
「一点に視線を固定」できるような集中力は、
持続力という面では邪魔になるという存在のようなのだ。

 私たちが「集中して頑張ることのできる子」と称するのは
けして持続力があるのではなくて、我慢する力があるだけと言うことだろう。

 本当の持続力は、多角的に物事をとらえるという新鮮さを持ち続けるために
「脳を揺らがせて」いる、つまり表面上は落ち着きなく動いている?そんな子が身につけている。

 そう言われれば、今活躍している著名な学者の中には
おそらくそんな子ども時代を過ごしたような(そんな文章を書いている)人が
何人もいるのではないか、とふとそんなことが頭をよぎった。


つぎはぎだらけの姿にしてはいけない

2007年01月03日 | 読書
 今年、最初に手にした本は
『井深大の 心の教育』(ゴマブックス)である。
 年の終わりが土井(天外)氏の本であったし、何故かソニーづいてしまった。

 1985年に初版本が出されたというこの本を読んで、改めて感じるのは
「この20年、教育を巡る話題や背景はほとんど姿を変えていない」ということだ。
 いじめ、不登校という学校現場の問題もそのままだし、経済至上主義の話題には事欠かない。
 今現在現実に起こっていることで、この本で触れていない言葉は「少子化」と「安全管理」ぐらいのものではないか。

 かつて首相の私的諮問機関の座長も務めたことのある井深氏の、当時の文部行政に対する指摘は厳しい。
 特に、提示される答申や方針などを見事に言い表していると思うのは、次の一言だ。

 つぎはぎだらけの人間像

 個性を伸ばすといい、客観的な国際感覚といい、平等の理念の尊重といい、知性と感性の調和といい…
 そうした美しい言葉の羅列は、結局「対処療法の態度」にすぎないと言いきる。
 そして教育内容の過去を一時忘れ、具体的に「知識重点から人間の心へと重点を移す」「学校教育を従、家庭教育を主に」「教育のスタートを0歳児から、母親中心に」という提言までしている。
 20年後の今もそっくり当てはまる考え方ではないか。
 科学的思考や創造性の塊のような人物といっても差し支えないだろう井深氏が、「心の教育」にここまでこだわることを、私たちは重く受け止めるべきだと思うし、自分の立場で何か可能か考えねばならないだろう。

 国政の場でも教育論議は盛んだが、85年当時に井深氏が書いた「現象面での多様性に引きずられながら右往左往している臨教審委員の姿」と似ていると感じるのは私だけだろうか。

 子どもたちをつぎはぎだらけの姿にしてはいけない。