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『誰が』に値するもの

2013年02月22日 | 雑記帳
 久しぶりに小朝の落語を聴いた。
 上手いなあと思う。流暢とはこの人のためにあるような言葉だ。言いよどみなどほとんどない。
 だがそれゆえにどこか引っかかるところもなくかえって物足りなく感じ、演目も少し地味だったので、満足度は7割ぐらいだろうか。

 さて「越路吹雪物語」のなかで、小朝がこんなことを言った。

 結局、何を言うかでなくて、誰が言うかなんですよ。

 確か江利チエミへの高倉健のプロポーズの言葉について語ったところだったと思う。初めて耳にした言葉ではないし、まあありがちな台詞でもある。 
 しかしまた、一方で深い知見のようにも感じる。

 先週、ある新聞に不惑を迎えるイチローへの、一面を丸々使ったロングインタビューが載ったが、まさしく同じことを語っていた。

 結局,言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。

 言葉そのものではなく、言葉を語る主体こそ問題なのだ。
 同じ言葉であっても誰の口からそれが出たものであるかによって、人の受けとめる印象が違うことは、日常よく私達が体験している。

 そう考えると、言葉の重みとは発する人の重みである、という仮説ができる。
 もちろんその仮説が不備な点を抱えていることは十分わかる。

 そして、その例に当てはまらない多くの言葉や文章にも出会ってきた気がする。
 そうだ、そうした出会いを大事にしたくて「キニナルキ」という最初のネット書き込みを始めてから、もう十年は越しているのだ。
 結局、そうした言葉を通して「人」に逢いたかったのだと思う。


 イチローは先の言葉にこう続けた。

 その『誰が』に値する生き方をしたい

 あのイチローでさえ、いやあのイチローだからこその言葉なのだろうと思う。

 しかし、誰でも『誰が』に値するものを持っているのではないか。そう信じたい。

 心に宿るほのかなものに気づき、信じ、行動し続ければ、「言葉」は生まれてくると思う。

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