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卒後教育で自戒する

2019年08月22日 | 教育ノート
 月曜の夜に初任で受け持った子たちと楽しい宴を持った。今までも何度か同期会に招かれ時間を共にしてきたが、「あの頃と変わってないなあ」と自分が感じることの意味について、少し頭をよぎった。それはおそらく、内田樹キョウジュが言うところの「卒後教育」という言葉が頭に残っていたからではないかと思う。


 「卒後教育」とは辞書にはない。氏の書かれている文章を読むと「卒業後に進められる自己教育」と解釈してもいい。つまり、学校教育とはそれを意識して行われるべきだし、その基礎作りを担っているということだ。その意味では、自己教育が適切に為されていると感じられれば、教育の成果があったことになる。


 もちろん、一口に学校教育と言っても自分が受け持ったのはわずかな年数だし、そもそも目の前の姿をどんなふうに判断するか難しい。従って思い込みたっぷりと言っていい考えだと承知している。そのうえであえて口にすれば、適切さの評価は「好奇心が消えていない」「表情に柔らかさがある」あたりが観点となるか。


 集った一人一人の顔と声を思い出し、その観点に照らし合わせれば、うんそうかと納得する。何に気づくかと言えば、「変わっていない」と感じようとするのは、やはり自分が懐古に浸りたいからという現実だ。皆それぞれに変容は明らかであり、その中になにを読みとろうとするか、結局はこちらの意識にたどり着く。


 それは結局、自分の「好奇心」であり、「見つめる表情」なのだ。この関係は出会いから40年経った今も変わらないのだなあ。教員という仕事はそれを持ち続けることが最も大事ではないか。内田キョージュは、こうも語っていた。「軽々に自己評価を下さない」…もう一度あの夜を振り返って思う、皆まだ大丈夫だな。


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