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桜と絵本と豆乳と

「面倒なこと」は、かなり教育的である。

2006年09月21日 | 雑記帳
 研究会のシーズンになって、国語科に限らず「話し方」が話題になることが多い。
 頻繁に出されることとして、「話型の掲示」の問題がある。
 教室の前面によく貼ってあることも見かける。

 「あれは、どうなんだろう?」
という、きわめてぼんやりした疑問が話になったことがある。
 きわめて、原則的にこう言った。
 「どんなふうに使うか、という問題じゃないの。」
返答したものの、自分自身も少し物足りないし、頭の中で整理してみることにした。

 「常時掲示」のねらいは、それは目標や指導事項を意識させたいということにつきるだろう。
 それが効果的かどうかを、どのようにしてはかるか。
 なかなか難しい問題だ。
 それでは「常時掲示」の活用のメリットはどうだろう。
 貼っておけば、いつでも使えるし、すぐ指して意識させられるだろう。
しかし、同時にそれが危険性でもある、ということだ。

 つまり、いつでも見られるということは、見ないということに通ずる。
あれども見えずというと状態に陥りやすい。
 もっと言えば、指導者はそれで安心してしまい
「私は、指導しているのですよ」といった錯覚を起しがちではないか。
 指導しているけれど、身につかないのは子どものせいですよ…
というアピールも込められたりしていて…(これは言いすぎですね)

 では「常時掲示」の正反対、「その都度書く」という手法はどうだろう。

 面倒である。
 その度に、話型のことを取り上げて、肝心のねらいから逸れる場合もあろう。

 しかしそれは、その面倒なこと、少し心配なことを機会を見て行うという行為を子どもに見せることでもある。
 今日もまた書きながら、指導者自身が意識していくことでもある。

 どちらが教育的かは、はっきりしている。

 私たちは効率性を求めて教育研究をしているが、同時に自らの行為の意味づけをしっかりしておかないと足元をすくわれてしまう。

 「常時掲示」するならば、かなり意図的な利用を仕組むことである。
 

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