すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

とにもかくにも1000号

2016年03月26日 | 教育ノート
 広報活動という言い方が当てはまるかどうかはわからないが、担任をしていた時から、いわゆる「学級通信」は経営の一つの核であった。ただ、そのことを振り返るには時間が経ち過ぎている。なんせ、「学校報」に携わってからの年数を数えてみたら、丸20年だということに気づいた。ずいぶんと続けてきたものだ。


 最初に担当となったのは、現任校で教務主任をしていた時だ。それまで担当していた教頭先生がご栄転され、新しく着任する人より三年目に入った教務がいいだろうと(自分も書きたい気持ちがあった)「馬音」と名づけてスタートさせてもらった。このタイトルがそれ以来今までずっと続けられているのも縁である。


 まだPCが一般的でなく、個人所有の何台目かのワープロ(文豪)で作成した。効果的だと思ったのは、やはり写真。最初はプリント版を貼り付けて印刷したが、途中からデジカメが登場して紙面に組み入れた。自分が大きく載っている号を、家の中に貼り付けているという児童の声があり、嬉しさと責任を感じた頃だ。


 新任教頭として赴任した小規模校では、「煌」と題して発行した。ここでは週1回の保護者版と月1回の地域全戸配布版という2種類に取り組んだ。5年も勤務したので、このあたりがずいぶん手慣れた頃だ。校長の理解を得ながら、雑感なども時折記したりして、楽しく広報できたように思う。ワープロからPCへ。


 次の赴任校は統合のためにたった1年だった。校長先生が月1ペースで出していた。お願いして「ウィークリー」と形で発行させてもらった。管外交流で他郡市に出た2年間も、週1ペースを守ることができた。たいした内容ではなかったが「教頭先生の書く文章のファンです」と誉めてくれた父母の声が嬉しかった。


 ここまでが10年。そして校長職となっても週1ペースを続け、年度によって「漢字」「俳句」等コーナー設定もした。ただ最終的に肝心なのは子どもの姿である。「学校の姿を見せる」を常に念頭に置き、レイアウトは上達したように思う。慣れすぎた反省はあるけれど、とにもかくにもほぼ1000号書いた勘定になる。