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Woman・谷川くん・藤・宇多田

2013年08月25日 | 雑記帳
 最近,母子ってことがなんだか妙に頭の中に入ってくる。おっと思ったのは「Woman」というテレビドラマ。主役母子(田中裕子・満島ひかり)ではなくて,夫役の小栗旬の生い立ちに絡んだところだった。単純に言えば育児放棄があっても情愛を絶てない姿が描かれるのだが,創作と知りつつその深さに驚いた。


 ネット上で知り興味を持った岩瀬成子の『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(PHP)を読んだ。主人公の教室にやってきた谷川くんも同じ境遇を持っている。普通に構造的な解釈はできるが,他者が固く握っている綱に対してどんな想像ができるか,その質が一つの生きる証しだ。それには子供も大人もない。


 藤圭子の自殺。同世代はどう受け止めているのだろうか。ここには二代にわたっての母子の確執がある。盲目の母と一緒に門づけをして歩いた藤はその過去を売り物にし,一瞬のそして最大限の輝きを放った歌手である。そして娘の宇多田ヒカルもまた眩しい輝きを見せた。しかしその生い立ちも陰が濃いものだった。


 宇多田には,母に宛てたような曲がいくつかあるという。その思いは届かないゆえに歌となったような気がする。ラストアルバムに収録された「嵐の女神」の詞はあまりに悲しい。「与えられるものじゃなく,与えるもの どうして私は待ってばかりいたんだろう お母さんに会いたい」身体から発する叫びのようだ。


 ごく平凡な親子の関係にもどって考えれば,TVドラマで満島が語った言葉に集約される。「私はこの子らにごはんを食べさせて,抱きしめることしかできない…」このシンプルな二つを何があっても欠かさないことが大事なのに,中途半端になったり,それ以外のことに目を奪われたり…,浮ついて見えるのはなぜ。