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悪循環を直視して語れ

2013年06月18日 | 雑記帳
 良くも悪くもここ数年は、彼の言動から目を離せないだろう。
 いや離してはいけない。
 某大阪市長である。

 例の従軍慰安婦問題をめぐる発言は大きな批判を浴びた。
 個人的にマスコミが取り上げた程度のことしか見聞きしていないが、どうも今一つつかみきれない気分が残っていて、ちょっとモヤモヤしていた。

 ところが、昨日の朝刊に掲載された「論考2013」を読み、なるほどと納得がいった。
 萱野稔人(津田塾大准教授)という方の文章である。

 つまり「日本だけが非難され続けるのはおかしい」という主張のもっともらしさは「愛国」であり、それは日本社会の中で必ず一定の支持を得る。
 しかし同時に、その「愛国的」主張は、国益を損ねてしまう。
 主張のなかみが、従軍慰安婦のようなデリケートな問題においてはなおさらである。

 萱野氏はこう書く。

 まずは慰安婦問題において、某氏の発言を理解し共感するような「日本の味方」は、国外には誰もいないということを肝に銘ずるべきだ。


 愛国者として真っ当(に見える)な主張をいくらしたところで、他からは認められるばかりか、なんとか免れたいという姿しか伝わらないのである。

 喩えた文章がわかりやすい。

 スピード違反で捕まったドライバーが、警察官に「ほかにもスピード違反をしている人がいるのに、なぜ自分だけが捕まるのか」と抗議すれば、当然ながら「反省していない」と見なされるだろう。

 交通違反後の一言の影響でさえ想像すれば結構シビアなのに、外交や国家間の利害が絡む問題における不用意な発言は、あまりにも重く圧し掛かってくるのではないか。
 萱野氏は「逆説の構図」と括り、その悪循環を直視するべきだという。

 問題なのは、某市長の支持、不支持に関わらず、そういう自己弁護の感情は少なからず誰にもあるということだろう。
 それは国際情勢の中で明らかに抑圧されていて、そのやり処を無意識のうちに多くの人が求めている。

 しかし、酒場における駄弁であっても感情のまま語ってはいけない弁えるべき事柄だと思うし、まして民を代表する者が、それを幼稚に代弁するのか、コントロールしながら対話を重ねようとするのか、その姿の見極めは本当に大事だと言わなくてはいけない。

 もうこの言い回しも古いが、「劇場型」に身を委ねてはならない。