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一つの扉に向かう問題

2012年07月16日 | 雑記帳
 青森市での研究会,参加した分科会でちょっと興味深い話題が出た。
 敬称つまり,「さん」「くん」づけのことである。

 人権教育を推進するなかで,相手の尊重という意味合いだろうが「敬称」について徹底させたいという発表内容があった。
 「敬称で呼び合える学校づくり」を掲げ,「敬称で呼び合うことを厳守させる」というものである。

 それに質問をした方がいらした。
 なんと数年前に一般企業から校長に登用された方だった。
 小学校長への登用は珍しいと思うが,なかなか隣県もやるわい。事情はいろいろあったようだが…。
 
 それはともかく,その方は「『さん』づけは,子どもも職員もですか」と尋ねられる。
 そんなことは予想もしなかったのだろうか,単に聞き違えたのだろうか,発表者は最初「そうです」といったが,繰り返されてあわてて訂正。もちろん子ども同士の場合を指してのことであった。

 このあたりのやりとりは,やはり職場としての学校が特殊な環境にあるのだなということを考えさせる。
 職員同士が「さん」づけしている職場もあるにはあるだろうが,やはりごく限られるのではないだろうか。
 私個人としても,時々「さん」づけをやることもあるのだが(そんなに意識しないでできている時もあったりする,それはある時期の現場からの影響だということは自覚しているが)やはり○○先生という,子ども目線の呼称が圧倒的に多いことを認めざるを得ない。


 さてそれはそれとして,件の質問した方は,子どもとと手紙?ノート?のやりとりをしていて,「子どもは,呼び捨てを好んでいるが…」とおっしゃっり,そんな感じで呼んでいるようなニュアンスがあった。
 それに対して,多くの方々から反論や留意事項が出された。
 曰く「統一されているかが問題」「呼び捨てと『さん』づけでは,その後の言葉遣いに違いがでる」「公的な場として」「人間関係の問題」…。

 一般的な線は確かにあるのだろう。
 しかし,これが正しいあり方と断言できるほど強いものではない気がする。
 私にしても「近づく言葉,遠ざかる言葉」という観点で,やや技術的な問題に押し込めてしまっている。

 しかし,おそらくこの問題を突き詰めていけば,結局一つの扉の前に立つであろうことは予想できる。
 それはやはり「人権」と無関係ではない。