昨日書いた,ある総会のことでもう一つ。
会が始まる前に,それぞれの団体の代表者によって打ち合わせがあり,そこで「次年度のこの総会をどうしたらいいか」という提起がなされたようだ。
つまり,多くの人が集まって開催する従来の形でいいのか。あつまる必要があるのか,ということを,全体に訊いてみて,来年度以降のことを考えようということらしい。
4月当初の忙しい時期に,子供たちを早めに放課して,一か所に一斉に集まることの意味を問うのは当然といえば当然だろう。
団体の中心になって事務をしている方々にすれば,その準備の大変さもあるし,また逆に集合の機会がなければ集金をどうするかという問題なども絡むし,考えは分かれるように思う。
しかし,普通の(再び,普通って何か!)会員にしてみれば,会議は精選してほしい,必要なしという意見のような気がする。
それだけ各校現場での仕事は詰まっているし,ここに来て,形式的な!話を聞いて拍手をして終わるよりは,もっと生産的なことができるだろう,と考えるのは当然なのかもしれない。
私にしたって半分はそう考える。
しかし,そのもう半分で,こんなことも考える。
遠藤周作の文章に,「無駄があるから,情緒がある」というような言葉があるらしい。(これだと会そのものを無駄と考えているのかと言われそうだが),こういった決まりきっていて無駄な時間を過ごしているように見える,その時間はやや「ゆとり」っぽくないか,という考えだ。
あれをしてこれをしてと,びっちりする事の詰まっている現場においては,校外の研究会組織で感じ取れる自由さもあるように思うのである。かつて「その姿を,ゆとりと呼ぼう」と題した一文も書いたことがあった。
先の提案が総会廃止の方に向かうと,おそらくは教員同士が直接会う機会が一つ減ることに少し危惧を覚えてしまうのだ。
今日読んでいた,昔のキャッチコピーを集めた本に,こんな一節があった。
会う,贅沢。
今,この贅沢さを感じ取れなくなっている自分たち。
そんな身体で,子どもたちに向き合うことができるのか。
会が始まる前に,それぞれの団体の代表者によって打ち合わせがあり,そこで「次年度のこの総会をどうしたらいいか」という提起がなされたようだ。
つまり,多くの人が集まって開催する従来の形でいいのか。あつまる必要があるのか,ということを,全体に訊いてみて,来年度以降のことを考えようということらしい。
4月当初の忙しい時期に,子供たちを早めに放課して,一か所に一斉に集まることの意味を問うのは当然といえば当然だろう。
団体の中心になって事務をしている方々にすれば,その準備の大変さもあるし,また逆に集合の機会がなければ集金をどうするかという問題なども絡むし,考えは分かれるように思う。
しかし,普通の(再び,普通って何か!)会員にしてみれば,会議は精選してほしい,必要なしという意見のような気がする。
それだけ各校現場での仕事は詰まっているし,ここに来て,形式的な!話を聞いて拍手をして終わるよりは,もっと生産的なことができるだろう,と考えるのは当然なのかもしれない。
私にしたって半分はそう考える。
しかし,そのもう半分で,こんなことも考える。
遠藤周作の文章に,「無駄があるから,情緒がある」というような言葉があるらしい。(これだと会そのものを無駄と考えているのかと言われそうだが),こういった決まりきっていて無駄な時間を過ごしているように見える,その時間はやや「ゆとり」っぽくないか,という考えだ。
あれをしてこれをしてと,びっちりする事の詰まっている現場においては,校外の研究会組織で感じ取れる自由さもあるように思うのである。かつて「その姿を,ゆとりと呼ぼう」と題した一文も書いたことがあった。
先の提案が総会廃止の方に向かうと,おそらくは教員同士が直接会う機会が一つ減ることに少し危惧を覚えてしまうのだ。
今日読んでいた,昔のキャッチコピーを集めた本に,こんな一節があった。
会う,贅沢。
今,この贅沢さを感じ取れなくなっている自分たち。
そんな身体で,子どもたちに向き合うことができるのか。