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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

弐月は、逃げたか

2025年03月01日 | 雑記帳
 一月はずいぶん長かったと振り返りをしている。その反動?なのか、二月はずいぶん早く過ぎてしまった感がする。立春後に降った雪はさほどではなかったが、車庫の屋根は締まった結構積もっていて、重い腰を上げ少し排雪した。一昨年までなら一気にやっていた。しかし、今冬は短時間で二日続けるやり方にした。


 体力に合わせつつという心がけは肝要だろうが、若干寂しくもある。中旬、車のバッテリ劣化が目立ち、仕方なく交換した。通勤等もなくなり使用頻度が落ち、放電が進んだのだろう。機器だから交換可能だが、人間の身体はそうはいかない。まあ、孫の雪遊びに付き合うことは多少できるし、億劫がらずに維持を図ろう。





 読み聞かせは、こども園が4つ、小学校2つ。5年生相手に「おまけ」として谷川俊太郎の「ひとりひとり」という詩を読んだことが印象深い。高学年ならこれもありだと幅が広がった気がする。昨日の中学年の読み聞かせはどちらも新作で力が入った。声の衰えは感じ始めているので、だからこそ技能を駆使したい。


 昨日、運転免許更新を終えた。ゴールドに戻ったのが嬉しい。説明を受ける前からわかっていたが、次は高齢者講習が必要。その次になると認知機能検査となる。しかしそこまで維持できれば上等かもしれない。免許が安全を保障するわけではないし、不測の事態は誰にもある。準備と覚悟だけが自分を保持できる。


 コロナ感染が始まった頃、対策が強化された頃、ロシアのウクライナ侵攻が始まったとき…いずれも2月や3月の印象が強い。忘れがちになるが、その時感じ考えたことは頭や身体のどこかに残っているはずだ。先月も中途半端に終わった「手入れ」を一歩進めて、今年の春がよく回るようにしたい。あっ花粉対策も!!

如月雨水の頃、日録

2025年02月21日 | 雑記帳
2月16日(日)
 全国ニュースは盛んに「最強寒波」の様子を伝えているが、我が町周辺は比較的平穏である。明日の読み聞かせに向けてのチェック後、E先生の火葬へ向かう。若く生意気だった頃に同僚としてお世話になった。常に笑みを絶やさない方の遺影は当時のままのように感じた。久方ぶりに恩師に出会い、言葉を交わす。


2月17日(月)
 先月都合で行けなかったので、今年初の小学校読み聞かせとなる。5年生相手に、初物『せっかちなハチドリ』を語る。締め括りに谷川俊太郎の詩を一編読んだが、感想がそこに集中したのは複雑な気分だ。元同僚から頂き物、気を遣わせてしまった。自宅のHDDレコーダーが不調。使用頻度が高いので心配になる。




2月18日(火)雨水
 読みきれなかった本も含めて「読書録」をアップする。その後、山間部のこども園へ。天気は良かったが峠のてっぺんで強風、その後吹雪と一変した。楽しく語りを終えて、別ルートで帰宅。午後から、宿題を終えた孫と一緒に昔のディズニー版アニメ『ライオンキング』を視聴した。それなりの良さが感じられる。


2月19日(水)
 BS「新日本風土記」を観る。「冬を食べる」がテーマで国の豊かさは土地に根ざすものだと改めて考えさせられる。Etaxを使って確定申告。年々使いやすくなっている。1時間ほどで終えた。来年以降は必要なくなるかな。夕食にリクエストした酒粕汁を頂く。久々に食べるこの味は、寒い時期ならの味わいがある。


2月20日(木)庚申
 今読んでいる新書で気になった「寺田寅彦随筆集」を注文をする。レコーダーの新品購入も検索しているが、まだ踏ん切りがつかない。壊れないうちに決めねば…。午後から馴染みの理髪店へ。偶然、高校の同級生と出逢う。半世紀を過ぎても「なかみ」は変わらず外側だけが著しく変化するだけなどという話をする。


油断してたら大敵、怖い

2025年02月07日 | 雑記帳
 TVニュースの画面を見て、こんなに安堵したことは最近なかったなあ。データが一番でよく目立つ本県、(それは人口やら何やらの悲観的なものが圧倒的だが)これなら大歓迎だよお…。何しろ自分にとっての大敵が、例年に比べて唯一「非常に少ない」と出たのだから。でも理由は何か。いや、ともかくメデタイ。



 と気分良くいたら、何だかくしゃみが出る。鼻水も…。それに目の端が若干痒いような。えーーっ、まだ立春になったばかり。TVでは「最強寒波」がどうのこうの言っているし、酷い降雪はないけど十分に寒いよ…いや、振り返れば30年以上のベテラン花粉症患者。そう言えば風雪のある日は要注意なのだった。


 かつて同病相憐れむ同僚と、一月中に「来てますかね」「来てるね」という会話を交わしたこともある。気象庁発表は平均値に過ぎないだろうし、様々な条件によって違うのは当然だ。とにかくこの重大案件はマイブログのネタとして非常に多い「祝20周年…祝じゃないだろっ」と十年以上前にも書き散らしている。


 今週は既にこども園を二つ訪問した。まだ二つ残しているし、小学校も二校ある。読み聞かせ時に症状が出ないことを祈る。いや十分に警戒して備えるしかない。逆療法(笑)で花粉症の絵本とかないものかと検索してみたら…こんな一冊が…。残念ながら紙版ではなくデジタルだ。それにしても、怖そうな本である。


冷静に「負けてたまるか」と

2025年02月04日 | 雑記帳
 米国野球殿堂入りに関わるイチローへのインタビューは興味深かった。大リーグ活躍以前から、様々なコトバで注目されたのは周知の通り。心に残るフレーズは多いが、今回「これから野球を始める選手やプロになったばかりの選手にアドバイスをするとしたら」の返答こそ、イチローのイチローたる所以ではないか。

「才能ある人たちもたくさんいます。僕なんかもうとても比較にならないぐらい才能にあふれた人がいっぱいいます。でもそれを生かすも殺すも自分自身だということです。自分の能力を生かす能力はまた別にあるということは知っておいてほしい。才能があるのになかなかそれを生かせない人はいっぱいいます。」

一日早い今年の立春。無事に口に出来るこの幸せよ。

 「自分の能力を生かす能力」に傑出していた存在がイチローと言えるだろう。それを単に「努力」と言い換えてもいいか。明らかに物足りない。「緻密な努力」…うーん、まだ届かない。緻密の内容が問題だ。「自己の資源を分析し、最大限に活用させた計画を達成するための、持続的で緻密な努力」、まあこれならいいか。


 そう考えてみると、「能力開花能力」育成のためのポイントは明らかだ。まずは自分を知ること。好き嫌い、強み弱みなどの客観視が求められる。計画化や持続的な努力はごく普通にも思われるが、前段階における意志の持ち方によって大きく差が出てくるはず。結局、精神の基盤として何を持ち続けていられるのか。


 「負けてたまるか」の塊だろう。勝敗の対象は他者に向けられるのではなく自身の中で決着する。自己との対峙をどこまでも止めない精神…イチローは現役後半時に、ある記者から「健在なり」と声をかけられ不快感を示した。その語が一面で持つ、衰えが前提のニュアンスにどこまでも抗う強い主観があったからだ。

長い一月の「七(質)」は…

2025年02月01日 | 雑記帳
 長いひと月だった。いささか気負って「元日の弁」を書きつけたことが遠く感じる。最初の週はいつも通りだったが、二週目以降それぞれに、公私含めてやや非日常的な出来事があったからだろう。いくつかはこのブログやFBに書きつけている。そんな中で、今年の一字と決めた「七(質)」はどうだったか、振り返る。


 キーナンバーを決めて暮らしてみるというのは、なかなかいい手だと思った。考え付いたときに「制限としての七」「負荷としての七」という言葉をメモしている。この年齢で心がけることは、だいたい決まっているわけだし、毎日にめりはりを持つ意味で有効になるのでは…恥ずかしくて(笑)記せない項目もあるが…。



 ポイント交換で注文したラーメン。なかなか美味だった。


 身体管理としての細やかな体操習慣の回数基準など、数値設定したことは、万全とは言えないがほぼ意識できた。ボケ予防のblog等発信行動は、達成率8割程度か。ただ「あまりしてはいけない、抑えたい」と感じている、いわゆる悪習慣に歯止めをかけることは、残念ながらずるずるで、途中寝込んだ時期もあった。


 葬祭が続き昼酒の機会が多かった。もはや酒量は増えないが、つい口に運んでしまうことを健康ととらえるか、自制が効かないだけなのか。ともあれ、先日書いたようにやりたいことをやる」ための自己管理は必要不可欠で、2月はネジを巻き直したい。雪の適度に降る天候を願いながら、除雪作業も転ばぬように…。


 最近スマホでログインができなかったり、PCとアンプの接続が切れたりと小さいトラブルでイライラさせられた。何かと「手入れ」が足りないのか。雑然としているデスク周りに慣れている感覚が、家中に拡がり、さらに外出時もとなれば怖い。明日は節分。ここは小学生並に「なまけ鬼」を追い払う豆を撒こうか。

生き様を多くの人に見せつけて

2025年01月29日 | 雑記帳
 森永卓郎氏が亡くなった。素人にもわかりやすい経済情報や独特の信念を伝え続けてくれた人だ。結構多く読んでいると思ったが、実際は単著ではなく雑誌記事などが多かったようだ。ブログ検索してみたら、20年前『児童心理』という教育雑誌に載った文章に触発されていたことが記されていた。本質は変わらない。

 教育者が一番やらなくてはいけないこと(2005.6.22)

 最後に、その考えに触れたのも雑誌だった。昨年12月のPRESIDENT誌の冒頭で医師との対談が掲載されている。末期がん患者であることはずいぶん前から公表していたが、改めて強固な考え方に感服した。殺到した仕事に応えて猛烈に原稿を書き、30日間徹夜を続けた精神力は、正直ちょっと想像がつかない。





 記事には「森永卓郎の『後悔しない生き方』」として次の三カ条が載っている。「①『たまたま』を受け入れる」「②限られた時間を全力で過ごす」「③やりたいことをやる」…実にシンプル。考えれば、死者は後悔できない訳だから、後悔する暇なく突き進めということだ。具体的には「切り替え」こそがキーワードだ。


 対談の最後に森永氏はこう語る。「私とその人たちとの違いは、残された人生のスパン(期間)です」。その人たちとは同齢程度の病気を患っていない者を指す。私も該当するだろう。しかし確たる人生のスパンなど誰にもわからない。物理的な違いなどどれほどのものか。生き様を多くの人に見せつけて氏は旅立った。

大寒の頃、時間を想う

2025年01月21日 | 雑記帳
 降雪は少なかったが、大寒の朝はずいぶんと冷えた。買い物に出かけようと車庫で車のエンジンをかけようとしたら、なんとバッテリーがあがっている。何年ぶりだろうか。まだ4年も経たない愛車だが、確かに昨年点検時ディーラーから劣化は指摘されていたのだ。乗車頻度もあるだろうし、少し甘くみていた。


 人間の心身も同様、動かしていなければ錆びつく。さて、学校での読み聞かせを始めて6年ほど経つが、自己都合で出向けなかった時は一度もなかった。昨日は複数の事情が重なり、断りの連絡をした。たった一度の機会に過ぎないが、ふと声を子どもたちに届けただろう時間は戻すことはできないのだと改めて気づく。



 自分にとって「親」と呼べる最後の人であった、妻の母が一昨日逝去した。若い頃から苦労を重ねた人生だ。しかしそれは、一家を守り歩み続けて、成し遂げたことの多き一生と呼んでいい。個人の時間はそこで終わったが、それは残された者たちへ様々な足跡をくっきり残し、実る樹を与えてくれた。感謝している。


 何十年ぶりかに岩波書店のハードカバーを読み出す。『日本文化における時間と空間』(加藤周一)。理解が追いつかないが、ゆっくりとページを開く。第一章では、日本文化における三つの異なる時間が示され、それらが共存していると下記のように結ばれる。今、一つの時間の終末を目にしながら、時は流れている。

 (略)始めなく終りない直線=歴史的時間、始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、始めがあり終りがある人生の普遍的時間。そしてその三つの時間のどれもが、「今」に生きることの強調へ向うのである。

子どもの悪さに意味がある

2025年01月16日 | 雑記帳
 久しぶりにバスに乗り、傍にいた小学生の他愛のないおしゃべりに耳を傾けると、子どもというのは本質的に昔も今も変わっていないのでは…という気がした。「しりしりをしよっ」と二人の男の子が始めたのは、無限?しりとりだった。「リンゴ⇒ゴリラ⇒ラッパ」と定番があって次が「パセリ」。それが「リンゴ」と続く…


 これを何度も繰り返し、通常ルールに逆らいながらリズムよく言い合う面白さを楽しんでいるのだと思う。また2時間近い乗車は、窓から見える景色や通過する道筋に変化を求めないと、どうにも退屈だ。そこで多くの子が目をつけるのはトンネル。それはどの時代でも同じかもしれない。ある男の子はこう言った。


トンネルに入ったら出るまで、息を止めるんだよ」。隣や後ろの子と一緒に「せいーの」…「ふうっ」とやっている。国道107号には短いトンネルが続く区間があり、最後にやや長いものもあり、変化が楽しめる。さしずめ「闇が来たら息をひそめろ」という訓練のようだ。大袈裟に言えば、それは人間の本能だ。



 以前だったら騒々しくなれば、引率者は注意しただろうが、今はそこまでボリュームは上がらない。これも世相というものか。昔、子どもの頃はよく「ワシラするなよ」と言われたことを、先日のあるイベントで思い出した。ワシラは沢山経験した方がいい。成長して待ち受けているのは「ホントッコ」の世界だから…。


タクミとシクミを引き寄せる

2025年01月04日 | 雑記帳
 元日に放送された政治経済の番組を観ていて印象深い一言があった。「タクミからシクミへ」…日本の会社の経営者となった外国人が「成長」に関わって述べたフレーズである。なるほどと思いつつあれっという気がした。一人や少数に頼らず組織全体を機能させ…個別対応ではなくシステムを作って…昔からそんなことを自分は…


 子どもたちを教える時、構成や法則を重視しながら自らの技術が「科学」的に通用する姿を求めたし、に憧れも抱いた。しかし、それが大きな問題を孕むと気づいたのはいつ頃だろうか。もちろん「仕組み」は重要なことだし、組織を整えていく役職を長く務めたし努めもした。ただ、ともすればその過程で見失うことは多い





 仕組みを整えることに目がいくと、力を注ぐ方向が肝心な点からずれていく。細かい仕組みを作れば作るほど、人はそこに縛られていく。「巧み」と括れはしないが、個の願いに沿った対応や工夫などを表出することで、場が生き生きとするのではないか。…だから、そういう仕組みづくりを!!と考えても、実現は意外と困難だ。


 粗く「個と全体」を想えば、どうしても矛盾が生ずるだろう。現実に個の尊重、多様性が今を表わすキーワードでも、時代の潮流はその裏で固定的な仕組みの世の中に向かっていると言ってもよくないか。…ずいぶん大きな話になってしまったなあ。自分のような齢、境遇の者が今後どう暮らすかに引き寄せたかったのに…。



 タクミ(そう呼べる力も技もないが)に生きるか、シクミ(取り巻く環境や状況の力)に委ねるか。かっこよくタクミだ!!と言いたい。世の中のきまりには従うが、目の前の人、物事に対するとき、交わしたいのは相互のタクミなのだ。シクミに縛られるのではなく、利用して上手に使うという心構えを持たねばならない。

元日の弁、「何」をつくる

2025年01月01日 | 雑記帳
 録画していた年末番組を観ていたら、秋田に県外から移住してきた方が「秋田は何もない、と言わないこと。言霊になる」と真っ当なことを語っていた。それは本県だけでなく過疎の地方であれば言いがちなことだ。つい口にしがちなその文章は、「何」とは何かと問われた時に、価値観があぶり出されることになる。


 「何もないけど、何でもある」という逆手をとる言い方もよくされるが、通ずるものがある。しかしどんな国の奥地の映像を見てもスマホを使う人の姿が映し出される世界を、どう把握すればいいのか。AIが解決してくれる問題の範囲は拡大していくかもしれないが、結局行くのも引くのも、一人一人に委ねられる。





 教職最後の年、次年度から統合する学校の教育目標の案を作成してきた。「つくる」というシンプルな語に込めた意味はいくつかあった。しかし芯の部分には「つくりだす人になってほしい」という願いを置いた。第一次産業から始まる人間の営みは、第何次になろうがそこに集約される。自分は「何」をつくるのか


 アウトドアと縁遠い生活者が口幅ったい物言いをするが、自然とどれだけ接点を持てるかは、かなり本質的なことだと思う。農作業や除雪も含めて、努めて肌に刻むことは必ず何かをつくり出す。そして「子どもは自然」という論を頼れば、絵本読みを続ける自分も「つくる」一員だと考えられる。今年も頑張ろう。