明日、1月14日で神戸・三宮センター街の後藤書店が店を畳む。老舗の古書店である。
寂しい限りだ。多くの人がそう感じている。勤め先でも話題になった。一人はそう歳のちがわない、学生のときに宗教学の勉強をしていたという同僚で、後藤書店で鈴木大拙の全集を買ったそうだ。もう一人は60を越した元教師で、また一ついい古書店がなくなると嘆いていた。
僕自身、店の前を通ればほぼ必ずのぞいていた。入ってレジの横を抜けると、店の奥に向かって巨大な書棚がフロアの真ん中に据えられている。その書棚の向かって右の側面には哲学関係の書籍、左の側面には西洋文学の書籍が並んでいる。まずそこをぐるっと一周し、それから右の壁面の日本文学の棚や左の壁面の美術書や、さらに店の奥に踏み込んで歴史書や文庫などを探索する。また2階に上がれば豊富な洋書や、映画・演劇関係の文献などがある。久しぶりに行って品揃えが大きく変わっていると妙に気分が昂揚し、あるときは、今日はあるな、という不思議な確信を感じ、その通り、みつかったのは、あれは長く探していたヴァルター・ベンヤミンの『来たるべき哲学のプログラム』(晶文社)だった。
95年の震災のすぐあと、センター街の地下に仮店舗を出して営業しているのをみて驚き、そして、とても嬉しかった。そのとき床の段ボールに並んでいた河出書房の「世界の大思想」シリーズから一冊を買ったのをおぼえている。しかしそれ以前にも後藤書店は1938年の阪神大水害で被災し、45年の空襲で焼けているのだという。これは僕などには想像ができない。再建を繰り返し、いままで営業をつづけてきたというのは並大抵のことではないだろう。
創業は明治43年(1910年)、いまの経営者である後藤兄弟のお父さんがはじめたそうである。もう100年になろうという店。古書店の減少はたぶん全国的な傾向だろうが、後藤書店のように後継者がいないのがそのいちばんの原因だろうか。すでに何年か前から後藤書店が店を閉めるといううわさは街に流れていた。それで「シュプリッターエコー・プレス版」にインタビューを掲載させていただけないかと取材を申し込んだことがある。そのときは断られた。後藤昭夫専務は「私たちは商売人だから」とおっしゃっていた。だが他のどの商売より知の継承に貢献する商売である。老舗の古書店というのは単なる商店とはちがう。都市の知性を養う重要な拠点だ。
上に「探索」という言葉を使ったが、いまは言わずと知れた「検索」の時代である。古書だろうが新書だろうが検索語として打ち込めば、全国どころか世界中の出品者の中からいちばん安いのを選んで買える。後藤書店などは、価格設定は高めというか、標準的というべきだろうが、僕などはそう頻繁に購入できたわけではない。しかし古書店というのは、必ずしも本を買いにいくための場所ではなく、まず第一に本についての勉強の場である。これは図書館ともちがう。図書館は新刊本が加わる以外は蔵書が一定で、また、金が介在していないという点が決定的だろう。古書店の緊張感はない。古書店を通じて学んだのは、何より、二度と出会えぬかもしれないという出会いの緊張感である。また、検索とはプロセスなきゴールであるが、探索とはプロセスに他ならない。何かを学ぶことができるのは、プロセスからのみである。そうした場所が減ることは、都市の知的水準という点からすれば、まちがいなく大きな損失である。いつか再び「来たるべき」知の時代のため、一種の文化財として、地域や行政が営業の存続をはかる試みがあっていい。
先日、年明けに立ち寄ると、閉店セールとしてすべて半額になっていた。筑摩書房版「ドストエフスキー全集」の「書簡集Ⅰ~Ⅲ」を1500円で買った。
その後その足で、以前にもここで紹介した、同じセンター街の中にある、あかつき書房へ行く。後藤書店がなくなるとセンター街の古書店は、あかつき書房と皓祥館書房の二店になる。あかつき書房で、メルヴィルの『タイピー ポリネシヤ奇譚』(福武文庫)、ヘンリー・ミラーの『暗い春』(福武文庫)、フィリップ・ソレルスの『公園』(新潮社)を買った。1500円ぐらい。いまでこそ「『白鯨』のメルヴィル」だが、亡くなった当時(1891年没)は、「『タイピー』だけのメルヴィル」という感じだったらしい。あ、そういえば比較的最近、地下にブックオフができたんだった。
三宮駅東の商業施設サンパル2階に、以前は4店の古書店が集まり、古書の街と称していた。この数年で徐々に減って、いまはロードス書房だけになっている。3階に大きな古本屋ができたことが理由だろうか。書店の上にも「チョー」がつく時代である。超書店MANYOという店で、中古のゲームソフトやCDも扱っている。先日、中央公論社の「世界の名著」シリーズ「スピノザ ライプニッツ」(昔のハードカバーの版)とメルヴィルのThe Penguin English Library版「BILLY BUD,SAILOR & OTHER STORIES」をそれぞれ300円で、フレドリック・ジェイムスンの『弁証法的批評の冒険』(晶文社)を1000円で買った。『ビリー・バッド』はメルヴィルの遺作である。最後のジェイムスンが1000円というのはあり得ない値段と思い、むしろその値段のために買った。
寂しい限りだ。多くの人がそう感じている。勤め先でも話題になった。一人はそう歳のちがわない、学生のときに宗教学の勉強をしていたという同僚で、後藤書店で鈴木大拙の全集を買ったそうだ。もう一人は60を越した元教師で、また一ついい古書店がなくなると嘆いていた。
僕自身、店の前を通ればほぼ必ずのぞいていた。入ってレジの横を抜けると、店の奥に向かって巨大な書棚がフロアの真ん中に据えられている。その書棚の向かって右の側面には哲学関係の書籍、左の側面には西洋文学の書籍が並んでいる。まずそこをぐるっと一周し、それから右の壁面の日本文学の棚や左の壁面の美術書や、さらに店の奥に踏み込んで歴史書や文庫などを探索する。また2階に上がれば豊富な洋書や、映画・演劇関係の文献などがある。久しぶりに行って品揃えが大きく変わっていると妙に気分が昂揚し、あるときは、今日はあるな、という不思議な確信を感じ、その通り、みつかったのは、あれは長く探していたヴァルター・ベンヤミンの『来たるべき哲学のプログラム』(晶文社)だった。
95年の震災のすぐあと、センター街の地下に仮店舗を出して営業しているのをみて驚き、そして、とても嬉しかった。そのとき床の段ボールに並んでいた河出書房の「世界の大思想」シリーズから一冊を買ったのをおぼえている。しかしそれ以前にも後藤書店は1938年の阪神大水害で被災し、45年の空襲で焼けているのだという。これは僕などには想像ができない。再建を繰り返し、いままで営業をつづけてきたというのは並大抵のことではないだろう。
創業は明治43年(1910年)、いまの経営者である後藤兄弟のお父さんがはじめたそうである。もう100年になろうという店。古書店の減少はたぶん全国的な傾向だろうが、後藤書店のように後継者がいないのがそのいちばんの原因だろうか。すでに何年か前から後藤書店が店を閉めるといううわさは街に流れていた。それで「シュプリッターエコー・プレス版」にインタビューを掲載させていただけないかと取材を申し込んだことがある。そのときは断られた。後藤昭夫専務は「私たちは商売人だから」とおっしゃっていた。だが他のどの商売より知の継承に貢献する商売である。老舗の古書店というのは単なる商店とはちがう。都市の知性を養う重要な拠点だ。
上に「探索」という言葉を使ったが、いまは言わずと知れた「検索」の時代である。古書だろうが新書だろうが検索語として打ち込めば、全国どころか世界中の出品者の中からいちばん安いのを選んで買える。後藤書店などは、価格設定は高めというか、標準的というべきだろうが、僕などはそう頻繁に購入できたわけではない。しかし古書店というのは、必ずしも本を買いにいくための場所ではなく、まず第一に本についての勉強の場である。これは図書館ともちがう。図書館は新刊本が加わる以外は蔵書が一定で、また、金が介在していないという点が決定的だろう。古書店の緊張感はない。古書店を通じて学んだのは、何より、二度と出会えぬかもしれないという出会いの緊張感である。また、検索とはプロセスなきゴールであるが、探索とはプロセスに他ならない。何かを学ぶことができるのは、プロセスからのみである。そうした場所が減ることは、都市の知的水準という点からすれば、まちがいなく大きな損失である。いつか再び「来たるべき」知の時代のため、一種の文化財として、地域や行政が営業の存続をはかる試みがあっていい。
先日、年明けに立ち寄ると、閉店セールとしてすべて半額になっていた。筑摩書房版「ドストエフスキー全集」の「書簡集Ⅰ~Ⅲ」を1500円で買った。
その後その足で、以前にもここで紹介した、同じセンター街の中にある、あかつき書房へ行く。後藤書店がなくなるとセンター街の古書店は、あかつき書房と皓祥館書房の二店になる。あかつき書房で、メルヴィルの『タイピー ポリネシヤ奇譚』(福武文庫)、ヘンリー・ミラーの『暗い春』(福武文庫)、フィリップ・ソレルスの『公園』(新潮社)を買った。1500円ぐらい。いまでこそ「『白鯨』のメルヴィル」だが、亡くなった当時(1891年没)は、「『タイピー』だけのメルヴィル」という感じだったらしい。あ、そういえば比較的最近、地下にブックオフができたんだった。
三宮駅東の商業施設サンパル2階に、以前は4店の古書店が集まり、古書の街と称していた。この数年で徐々に減って、いまはロードス書房だけになっている。3階に大きな古本屋ができたことが理由だろうか。書店の上にも「チョー」がつく時代である。超書店MANYOという店で、中古のゲームソフトやCDも扱っている。先日、中央公論社の「世界の名著」シリーズ「スピノザ ライプニッツ」(昔のハードカバーの版)とメルヴィルのThe Penguin English Library版「BILLY BUD,SAILOR & OTHER STORIES」をそれぞれ300円で、フレドリック・ジェイムスンの『弁証法的批評の冒険』(晶文社)を1000円で買った。『ビリー・バッド』はメルヴィルの遺作である。最後のジェイムスンが1000円というのはあり得ない値段と思い、むしろその値段のために買った。
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