「ボードレール。それにエドガー・ポー。(…)あの二人は同時に発見するものだよね、そうだろう?」(フィリップ・ソレルス著 岩崎力訳『ニューヨークの啓示―デイヴィッド・ヘイマンとの対話』みすず書房、1985、p.46)
ポー、ボードレール…何か絶対の文学的秘儀がそこに隠されている、そんなイメージをまとった名前たち。
だが、とりわけポーの小説作品によく見て取れるように思われるが、その美意識には時代の刻印がある。
美意識と言ったが、そう、まさに美的なのだ。
いまも多くの無反省な精神によって愛され濫用されている、恐ろしいぐらいに美しいもの。心理的で、謎を秘めた、狂気と死の混濁、だが結局、透き通るほど美しいもの。
たぶん、輝かしき科学と金に埋め尽されようとする世界を前に、そうした暗部の美への道をつけることには意義があったろうし、ポーやボードレールの作品そのものはこれからも汲めども尽きぬ泉として読む者を触発しつづける。
見苦しいのは、(たとえ彼らがポーを読んでいないとしても)自分たちの愛してやまない美的なものの、その原型がいつの時代の刻印を受けているのか、それがいつの時代のリアリティなのかということに無関心な精神たち。
つまりそうした精神は現在のリアリティが何なのかということに関心をもたない。
われわれがいまこれを愛しているのだからこれが現在のリアリティだと、そう言うだろうか。
だが、現在とは発見されなければならないものだということ、これだけは何としてもわかってもらわなくてはならない。
現在のリアリティ。それはもう発見されているのか、それともまだだろうか。
おそらくそれは政治に関わるものではないか。決して、非政治的に美しいものではないのではないか。
「政治的なもの」だとか「~の政治」だとかいう形で、どこにでもみいだされるような政治では、それはないだろう。ましていま為政者たちが行っている政治とは何の関わりもない。
そして、社会変革やその運動の話をしているつもりもない。これは文学あるいは芸術ローカルの話だ。(そう、それらはまったくローカルな問題なのだ)
いまどこで文学がキラッと輝き得るかということ。どこで鋭く触発力をもち得るかということ。それはいまだ現われたことのない政治との関わりにおいてではないか。美というなら、政治的な美においてではないか、というひとつの直感。あるいは遅ればせの発見。
ポー、ボードレール…何か絶対の文学的秘儀がそこに隠されている、そんなイメージをまとった名前たち。
だが、とりわけポーの小説作品によく見て取れるように思われるが、その美意識には時代の刻印がある。
美意識と言ったが、そう、まさに美的なのだ。
いまも多くの無反省な精神によって愛され濫用されている、恐ろしいぐらいに美しいもの。心理的で、謎を秘めた、狂気と死の混濁、だが結局、透き通るほど美しいもの。
たぶん、輝かしき科学と金に埋め尽されようとする世界を前に、そうした暗部の美への道をつけることには意義があったろうし、ポーやボードレールの作品そのものはこれからも汲めども尽きぬ泉として読む者を触発しつづける。
見苦しいのは、(たとえ彼らがポーを読んでいないとしても)自分たちの愛してやまない美的なものの、その原型がいつの時代の刻印を受けているのか、それがいつの時代のリアリティなのかということに無関心な精神たち。
つまりそうした精神は現在のリアリティが何なのかということに関心をもたない。
われわれがいまこれを愛しているのだからこれが現在のリアリティだと、そう言うだろうか。
だが、現在とは発見されなければならないものだということ、これだけは何としてもわかってもらわなくてはならない。
現在のリアリティ。それはもう発見されているのか、それともまだだろうか。
おそらくそれは政治に関わるものではないか。決して、非政治的に美しいものではないのではないか。
「政治的なもの」だとか「~の政治」だとかいう形で、どこにでもみいだされるような政治では、それはないだろう。ましていま為政者たちが行っている政治とは何の関わりもない。
そして、社会変革やその運動の話をしているつもりもない。これは文学あるいは芸術ローカルの話だ。(そう、それらはまったくローカルな問題なのだ)
いまどこで文学がキラッと輝き得るかということ。どこで鋭く触発力をもち得るかということ。それはいまだ現われたことのない政治との関わりにおいてではないか。美というなら、政治的な美においてではないか、というひとつの直感。あるいは遅ればせの発見。