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ブログ版 シュプリッターエコー

やまだ書店(二)

2009-09-18 07:39:00 | 本、文学、古書店
やまだ書店のことは以前にも紹介したことがある。

夕方も7時をまわって、自転車で中央図書館に出かけた。もう6時を過ぎると暗い。

3冊借りている本を、3度目に延長する。図書館の用事はそれだけ。

図書館を出たのが7時半。やまだ書店に行くことにした。自転車なら近い。

憂鬱な神大病院の脇を通り過ぎ、有馬街道が山越えの道に入る少し手前、平野(ひらの)の交差点。いつも遅くまで店は開いている。

壁と垂直に置かれた、大きな移動式の書棚をひとつひとつ動かし、そこへ分け入るたびごとに、三面にそびえる山積みの本。文庫用の小さな棚は、また増えているようだった。

会計を終えて

「三宮の後藤書店が店を閉めて、これだけ専門書を置いている店というのは……」

僕がそう言ったところで

「ないですね」

と店主が受けた。(後藤書店でも、これほどマルキシズムの専門書は多くはなかった、とは結局言わなかったけれど)

そして

「時代遅れなんですけど」

店主は付け加えた。

時代があとに残していったものを売るのが、古書店である。とすれば、これは店主の矜持である。また、たとえああして店主が微笑んでいようと、これは穏やかな話では到底なく、ほとんど刺し違える覚悟というのが、そこにある。


僕自身、最近はインターネットで古書を注文することが多い。

「インターネットでは…?」

「やってないんです、店頭だけ」

値段も安く、出品すれば売れそうなものは多い。


とはいえ、今日は専門書は買っていない。



「家畜人ヤプー」(沼正三、角川文庫版)¥200-

これをここに書くのは本当は恥ずかしい。半端なサブカル愛好者っぽくて。まあ、ご愛嬌ということで。



「ジャン・ジュネ全集2」(堀口大學他訳)¥800-

これに入っている「花のノートルダム」は読んでいる。持っているのは同じ堀口訳の新潮文庫版。最近、河出文庫で新訳も出た。もう一本収められている「ブレストの乱暴者」は未読だが、これも河出文庫で簡単に手に入る。いっとき、ジュネはずいぶん読みにくかったが、いまはちょっとしたブームなのだろうか? それにしても今日みつけたこれは三刷の68年出版だが、びっくりするぐらいきれいな本で、真っ白で、思わず買った。家に帰って本棚をみると、忘れていたが、1巻と3巻をもっていて、カンチャンがきれいにはまった。全4巻。



「もつれっ話」(ルイス・キャロル)¥500-

これこそさがしていた本というわけで、この数日キャロルの本をインターネットで検索していた。やはり古書店で出会い、その出会いの喜びの中で買うのが何といっても楽しい。

以上3冊。

しかし店を出て、店の前のワゴンの中からもう一冊。



「ドイツ文學小史」(ルカーチ)¥100-

これはいろいろな意味で記念として。それにしても、ルカーチ、グラムシら、正統派に近い人々というか、西欧マルクス主義の草創期の人々の文献は目についても、たとえばフランクフルトのマルキストたちは並んでいない。単に品薄というだけの話か、それとも店主のこだわりだろうか。それにしても、本当のところは、何かもう一度ご店主の顔がみたい気がして、ワゴンの中からこの一冊を取って店に引き返したわけだった。

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街を自転車で走るにはいい季節になった。

平野の交差点をわたって坂を上れば、この神戸の祇園神社があって、7月には祇園祭りも開かれる。何年か前、何も知らずにやっぱり自転車でフラフラとやって来て祭りにかち合った。坂に沿ってどこまでも軒を連ねる屋台の光景、それから、祭りを口実に浴衣を着て初々しいデートをする中学生の恋人たちの姿。

もともと方向音痴だが、方向も何も考えず、快さに任せてペダルをこいだ。山が近く、カーブも、起伏も多い。暗い住宅地を旋回しながら、すこしずつ街へ下りていった。

やがて、湊川の商店街の近く、深いコンクリートの川の岸に出た。初めて来る場所ではない。というより、ときどきこの川の光景を夢にみる。なぜかはわからない。自分がこの場所に何か思い入れをもっているとは思えないのだけど。

僕にとってこうも疎遠であり、僕が懐かしみながら夢にみるもの。

こう思いながら、同時に、図書館から借りているムージルの作品の言葉が、ふと理解されたような気がした。

「ウルリヒとアガーテがあの頃話し合ったことは、今ではたいていもちろん古臭くて、子供っぽい暇潰しだったように思われていた。だが、あの状態にいて彼らが格子塀にその象徴性のゆえに与えた名称、そして同じく、いま彼らがいる場所全体にその位置の有利さゆえに与えた名称、つまり「分けられないが、また一つにもなれないものたち」という名称は、以来ますます彼らにとって内容豊富なものになっていった。なぜなら、分けられないが、また一つにもなれないものたちは、彼ら自身だったのだし、またこの世にあるその他一切のものも、やはり分けられないが、また一つになれないものであることが、おぼろげながらも認められると思ったからである。」(『ムージル著作集第6巻 特性のない男Ⅵ』加藤二郎訳、松籟社 p.85)

「分けられないが、また一つにもなれないものたち」を、ウルリヒとアガーテの兄妹のような、すでに充分に親密な二つに、ただ当てはめて考えていた。しかし必ずしもそうではないのだろう。疎遠であるというのは、ただそうであるということにすぎない。

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以前やまだ書店について書いた記事は、もう3年も前のものだった。読み返すと、仲間のKと行ったとある。

Kは今年、ずいぶん遠いところに旅に行ってしまった。帰ってくるつもりはないらしい。すると、もう一緒にコーヒーを飲んだり、古本屋に行くこともできないわけか。いつかこちらから出向くしかないのだろうが、それも、いつのことになるかわからない。




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