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ブログ版 シュプリッターエコー

ソクーロフ監督 ファウスト

2012-07-20 03:39:00 | 映画
ソクーロフ監督の映画「ファウスト」をみた。ゲーテからの翻案作品。

映画作品における「象徴」の技法について考えさせられる。

象徴というのは、作品の中の事象が作品外の何かを1対1対応で示唆する技法であって、その意味では作品の自立を阻むものといえる。
「比喩」が、言いたいことをいっそう正確に伝えるための手段なら、「象徴」には言っていること、見えていることとは別のことを示そうという意図がある。
「比喩」が伝達性の向上を旨とするかぎり一般的な言い回し、慣用表現に深く浸透されているのは必然であり、対して「象徴」には占星術や夢解釈におけるそれなど、その道のエキスパートにしか判読できない、個別の、閉ざされた体系を作り上げる傾向がある。

ソクーロフの「ファウスト」はそんな象徴を散りばめた──というより、そんな象徴で散らかった作品だった。
悪魔、神、魂の自由、あるいは現代(の拝金主義)社会、といった大きなテーマを扱っていたであろうこの作品が、言い回しや小道具、プロット等、さまざまな水準でどんな象徴的表現であふれかえっていたか、いちいちここで挙げることはしない。
ただ、そこにあったのは、事象とそれが象徴するものの整然とした対応関係、というよりは、むしろ作り手と観客の混乱。
この混乱が奥深さ、深遠さと取り違えられるというのはいかにもありそうなことと思われる。

もちろん映画には、いま問題にしている「象徴」のような「図式」「理論」──こういってよければ「文学性」──に回収できない、映像や音響の美しさ、迫力という魅力がある。
だけどそういうなら、鼻孔を広げ欲情するマルガレーテ(イゾルデ・ディシャウク)の表情とか、絡まりながら水に落下する二人とか、確かに美しいが、ああ、これが撮りたかったんだなと──はしたない言葉だけれど──「まるわかり」な場面ばかりが目につくようで、これでは、それ以外のシーンに完全に作り手のインスピレーションが欠けていたのか、そういう印象的なシーンを印象的にすべく物語の結構の中に収める努力を怠ったのか、という話になる。

たぶん映画で象徴をやろうというときにはよほど注意しなければならない。(映画というのが特に象徴的表現と相性が悪いジャンルなのだとしたら、その理由についてまたよく考えなければならない)
映画が象徴というものとどう付き合ってきたか、また付き合ってこなかったか、その点に慎重になるなら、ソクーロフが陥ったようないくつかの罠──散漫さ、予定調和…──は避けられるものではないか。

ここまで、相当に荒っぽい議論だとは承知しているけれど、しかし「象徴」という言葉を「それ自身とは別の何かを暗示しようと意図すること」と、いちばん厳格な意味でとっていただいて構わない。
横行する「心理主義」と並んで、これを「芸術的表現」の核心と考え、またそうした作品を有り難がっている現状は退行といわざるをえない。

「ファウスト」が映画祭でグランプリを受賞したのでなければこういう形で書こうとは思わないものだろうし、賞というのはそれこそ作品外のさまざまな要因が作用する、そんなものだといえばそうだろう。
ゲーテの原作自体、とりわけ第二部には硬直した、場合によっては陳腐とさえいえる象徴性が少なからず見受けられ、そう考えると作り手のしくじりとばかりはいえないだろう、とも思う。