平成18年12月3日(日)
太陽暦の採用は既定路線ではあったが,ことを急いだのは,改暦することで,政府の役人の給与を2カ月分カットしてしまおうという裏があったからとか。
昭和15年1月9日に神戸に誕生。父は病院長で, 君平はその6人兄弟の4番目として裕福な生活をすごした。
戦火により家を消失し,和歌山の親戚に疎開し,やがて終戦。
昭和22年, 神戸に病院が再建され,名門雲中小学校に転校した。多感で好奇心の強い君平は, 戦後の神戸の街で進駐軍のアメリカ兵や,必死に生きる人々の姿を,のちの「くんぺい少年の四季」に描いている。
昭和28年,浜協中学に進学する。しかし,父の死をきっかけに破産し,一家は離散。何不自由なく暮らしてきた少年には,辛い生活となる。
18歳,「絵描きになる」という夢をかかえて上京。築地の新聞販売店 で働きながら,お茶の水美術学院などにも通ったが続かず,その後,東中野の写真屋に住み込み,作品を出版社や新聞社に持ち込む。
このころ母から画家・堀文子さんを紹介される。堀さんは君平さんの若い才能を絶賛し,仕事を紹介してくれた。
昭和37年,「漫画読本」で切り絵漫画家として本格デビュー。22歳だった。
昭和39年,妻・英子さんと渡米し,6ヶ月のニューヨーク生活を経て、帰国。12月には初めての絵本「びりびり」を出版。絵本や童話などの創作活動に取り組む。
翌年,長期に渡って,フランス,オランダ,北欧をスケッチ旅行。犬年の昭和45年,松屋にて紙ねんどによる「101匹のわんちゃん大行進」開催。子どもたちの人気を博す。
昭和48年から,ライフワークともいえる毎日新聞の「おはよう童話」の連載が始まる。それを機に,仕事は絵よりも文章に比重が。
それからしばらくして,「週間文春」に「イラストライター廃業宣言」の広告を出し世間を驚かす。
翌年には「詩とメルヘン」で「くんぺい魔法ばなし」の連載が始まる。 昭和58年,君平さんは別荘を借りた小渕沢が気に入り,「いつか,ここに僕の美術館を建てられたらいいなぁ」と夢を持つ。
その土地に後に「くんぺい童話館」が建つこととなった。
東君平の名前は知らなくともこのような絵にはなじみがあるのでは。
くんぺい童話館