連休も近いので本を幾冊か購入。そのうちの1冊が『本当は恐ろしい江戸時代』(八幡和郎著・ソフトバンク新書)。
「本当は」という枕がつく本は、民話や童話の紹介本に多く使われてきた(『本当はこわいグリム童話』とか)。
つまり、この枕詞は一般に思われていることは間違っているか、誤解か、過大評価か過小評価である、と云いたいときのものということになる。
さて、童話や民話は創造・想像の産物であるから、印象が180度変わることがあっても、面白いという点において変化はないだろう。
今回は歴史という事実の解釈においてはどうなのであろうか?という興味で読んでみた。 (新書の知的レベルがとみに下がっているので、そんなに意気込まなくても、という別の私の声がするが・・・・・・)
さて、著者の八幡氏は前書きで「・・・・・・そもそも。江戸時代と現在の北朝鮮はとても似ている。世襲の権力による支配、対外的に閉鎖された鎖国体制、それに伴うモノの徹底した再利用、密告による体制維持等々ー。江戸やピョンヤンという首都の市民を優遇することで、人々の不満が体制を脅かす仕組みもそっくりである。・・・・・」
この文章を読んだだけで、歴史認識のおかしさを感じてしまった。確かに現在、江戸ブームで長所や美点が喧伝されていることは事実で、江戸検定など行われているほどである。
だからといって江戸時代が現在より住みやすかったと単純に思い込んでいる人がいるのだろうか?良いところもあった!という認識がやっと広まったという程度であろう。
ごく簡単にいけば、明治維新政府には、江戸時代は悪しき時代であったがゆえに、改革が必要であったという錦の御旗が必要であった。
これ以後、戦後しばらくまでは、つまり最近までは、江戸時代は悪しき時代であったという認識が広まっていたのだ。
この認識の検証が進み、江戸時代にも評価できる点があったので、その分野については積極的に評価しようというのが現状である。
ところが、八幡氏のこの前書きでのいいようはあまりに乱暴で、挑発的である。比較するものに事欠き「北朝鮮」と同じであったという扇情的ないい方をするのだから。(学術書ではないからなぁ)
簡単に反論をしておく。江戸時代、各藩は独立した行政組織をもっていたのだから、今の政治体制でいえば合衆国・連邦制に近いものであった。
また、江戸時代は日本という国の時代区分で約260年間、北朝鮮は戦後できた約60年間ほどの浅い歴史しかもたない国である。 このスパンはいかに時代の速度が違うとはいえ同じとはいえない。同列に論じるものではない。
さて、この前書きの段階で、この本がいかに売らんかなのために書かれた本であるか確信できた。
ゆえに、あとは斜め読みで済む程度のものであった。
明治政府の政策などの解釈は別に目新しいものでもなく、当然ともいうべきものであった。
江戸時代をいかに悪しくいったところで現代の歴史が変わるわけでもないし、「もし」という論議はこれからの指針に示唆を与えることはあっても、それによって過去を判断するものではない。
健全な日本人なら、例えば山中恒氏の「昔が今よりいいわけがない」という言葉に納得しながら、でも部分的には良かったところもあったのだ、と思っているものなのだ、と私は思う。
よって、現代にも良いところはあるが、課題もそれ以上に多くのあるのだ考えるのが普通だと思う。