飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

京大合格のための国語学習法

2014-06-01 06:07:26 | 教育
京大国語には周知の如く、現代日本語や「古代」日本語の読解問題だけではなく、明治大正期の日本語の読解問題が含まれている。現代語に近くても、飽く迄も「古代」日本語の枠内からは逸脱していない、そんな日本語の読解問題も含まれているということだ。これが京大国語の大きな特徴なのである。即ち、現代語よりも寧ろ「古代」語の方が正当な、習得すべき本来の日本語である、との主張が、京大には伝統的に維持されているということなのだろう。つまり、英語やら数学やらで只でさえ忙し過ぎる中での国語学習であるが故に能率的な、更にはまた同時に根本的な、そんな古典文法の習得というものが、京大国語の克服には大きな比重をもって不可欠になってくるのである。

端的に言って、学校で習う古典文法には不十分な点が多い。学校で習う古典文法には、完璧であるなどと勘違いして実際の古文に当たると、全く何も読み込めないことになりかねない面が多々あるのである。

例をひとつだけ挙げて説明しよう。例えば、助動詞「らむ」について。

「らむ」は一般には「けむ」との対比から、現在推量の助動詞として「~しているだろう」と訳す。このように説明されている。推量の助動詞「む」との対比では、それと殆ど違いはない、などと解説される場合すらある。そして、これ以上の説明がどこにもないのである。

このような表面的な説明で満足してしまい、もっと深い根底からの理解の追求を疎かにしてしまっていると、例えば、

「『ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん』には

『日の光がのどかに射しているこんな春の日に、桜の花が何故、落ち着かなげに散っているのだろうか』

などのような訳が付く。そして、『らん』は『らむ』の連体形『らむ』の撥音便形なのである」

などと誰かに教示されても、その本当の意味が理解できない。和歌中に一言も対応語のない「何故」がどうして、この解釈において訳出されているのか?この和歌がどうして、疑問文として解釈されるのか?「らん」がどうして、連体形と理解できるのか?...などの疑問について、その本当の理由が分からないまま遣り過すことになる。自力でこの和歌を根底から理解したいという自然な欲求を抑圧してしまうのである。学問を志して最高学府の門を叩こうとする以上、そのような欲求の躍動こそ必須になると直感すべきであるにも拘らず、それを理不尽に抑圧して「取り敢えず」などと呟きながら、盲目的に前進することしかできなくなってしまう。こんな調子で学習を続けている限り丸暗記事項がどんどん増えてしまうことになるというのは、赤ん坊でも分かるほどの明らかな理屈であろう。そうなると、数学やら英語やらと只でさえ時間の足りない中でも古典文法に驚異的な勤勉さをもって大量の時間を注ぎこめる人か、丸暗記に何の苦痛も感じないほどの特別に優れた暗記力を持った幸運な人にしか、古典文法の十分な習得は不可能ということにもなりかねない。そして実際に、そう言って悩む人が多いのである。

では、「らむ」をどう理解するのが正当だと言うのか?根底からの理解とは、どのような理解のことか?

抑も文法とは、ここでその詳細を詳述する余裕はないが、兎に角、省略語句の合理的な復元法のことに他ならない。この考え方を古典文法の理解にも導入すべきである。そうすれば、丸暗記だけが不可欠の手段に感じられた古典文法も只の暗記ではなくなる。文法という語の本来の意味の如く、極めて合理的な a perspective の元でマスターすることが可能になる。私はこのように考えている。

そこで「らむ」の場合である。「らむ」は、その属性を全て考慮に入れて判断すると実は、「といふことになりてあらむ」の「というふことになりてあ」の部分が省略されて「らむ」だけが取り残された表現であることが分かる。「らむ」は、本質的には謂はば「現在の推定(或いは伝聞)推量」なのである。そして、

「(ちゃんと確かめた訳ではないが、ちゃんと調べれば、)…するということになっている筈だ(かも知れない/に違いない/だろう)」

と訳すことこそ、最も正確な訳になるのである(「あり」などの所謂存在構文に用いられた場合、推量の助動詞「む」は「筈である」とか「かも知れない」と訳す必要が出てくる)。

このことから、

①「らむ」に終止形が接続すること

(引用の「と」の前には、従って「というふことになりてあらむ」の前には、終止形がくるから)

②「らむ」に「現在の原因推量」の意味があり、「からであろう」と訳せる場合があること

(「といふことになりてあらむ」→「(といふ)ことになりてあらむ」→「ことになりてあらむ」→「ものになりてあらむ」→「から(柄:理由の意)になりてあらむ」の変形が施せるから)

などの、通常の文法では理解不能な、にも拘らず文法書に、まるで暗記を要求するかのように書き込まれている事柄も、合理的に理解することが可能になる。

上に例として挙げた有名な和歌も、次のような精確な訳で理解することができる。

「光のどかな春の日なのに桜が、まるで狂ったように散っている。光のどかな春の日だから狂ったように散るということになるだろうか?いや、決してそんなことにはならない筈だ。きっと何か他の理由があってそうなっているに違いない。それは...」

どうだろうか?一般に流布している訳よりも遥かに納得のいく訳になっているのではないだろうか?

ここでは、

①「ひさかたの光のどけき春の日に(なりてあればや)しず心なく花の散るらむ」という、上の句と下の句の接合部分の復元

②反語をレトリック表現(修辞表現)と捉えた上での、その裏に隠されている本体の全面的な訳出

など、一般にはあまり知られていない技法も駆使されている。それらをここで詳しく説明する訳にはいかないが、何れにせよ、通常の生半可な理解を脱ぎ捨てて「らむ」を本質的に理解した時にこそ、この和歌が、根本的に理解できるようになるということについては、聞く耳のある人には十分に伝わっているのではないかと思う。

中には、「それでは、訳として詳し過ぎる。もっとシンプルなものにした方がいい」などと考える人がいるかも知れない。しかしそれでは抑も、「古文の逐語訳」と言われるものの、その本来の趣旨が崩壊してしまうことになる。

非常に複雑な内容を持った事柄を、その表現に関しては極限まで削り取る。その内容を全く損なうことなく、できるだけシンプルなものにする。そこに詠み手の腕の見せ所がある。受け取り手も、そのような表現から、隠蔽された内容の全てを読み取れるか否かに、その力量の有無がかかっている。...「古代」の文章表現では(と言うより寧ろ貴族社会特有の文章表現では)、このような内容のことが明確に意識されていた(いる)に違いない。そのような「古代」の文章表現の内容を現代語で具体的に説明するのが「古文の逐語訳」なのだ。そのような「古文の逐語訳」の時に「訳はもっとシンプルなものに」などと考えていたら、当然、「古文の逐語訳」が持つ趣旨そのもの崩壊を招いてしまうことになるだろう。従って、上記のような批判は、ここでは何の意味もないということになる。ましてや、「傍線部を具体的に説明せよ」などと明確に指示された入試問題の正解というものには、絶対に辿り着けないだろう。

今ここで挙げた例は、私のもっている沢山の裏情報の内の、ほんの一部に過ぎない。京大国語克服のためには学校文法の大半を、この例の如く全面的に分析し直した、本当の文法というものを習得する必要がある。そうした上で「古代の」文章を、正しく速く読み解くことに熟練しなければならない。

京大合格のための国語学習法として先ず第一に指摘しなければならないポイントは、以上である。

ここで、話を次に移そう。京大合格のための学習法として指摘しなければならない第二のポイントがある。

国語の論説文読解問題には、古文であれ現代文であれ(実際は英語でも)、記述タイプの問題に限定して言えば、大きく分けて、次の三つのタイプの問題が設定される。

①傍線部の説明或いは訳出
②傍線部の理由説明
③傍線部のような認識或いは主張の理由説明

小説や物語の読解問題では、次の五つのタイプの問題が設定される。

①傍線部の説明或いは訳出
②登場人物の言動の理由説明
③登場人物の願望の理由説明
④登場人物の心情の理由説明
⑤登場人物の認識の理由説明

論説文であれ物語文であれ、先ずは、これらそれぞれのタイプを厳密に区別できていなければならない。その上で、当該設問に相応しい解答形式を予め設定し、その形式に沿って本文中の記述を精査できなければならない。そうやって必要な素材を集め、それらを上の解答形式とも照らし合わせながら総合し、解答として仕上げる。

ここで述べていることは、こうして改めて言われて見れば、至極当たり前のことに感じるかも知れない。しかし、受験生の答案から赤本や黒本の「プロ」による答案まで、実に多くの答案をチェックしてきた経験から言うと、殆どの答案が、その至極当たり前のことが遵守できていないための誤答になっていると言わざるを得ないのである。この経験からも、京大国語の、受験者ではなく合格者の平均点が、多くの場合五割にも至らないという紛れもない事実の裏付けの一部が取れるのではないかと思う。

ほんの一例を挙げて説明しよう。

例えば、

「傍線部①『そうしないと狂言の本質に迫ることはできない』とあるが、それはどういう意味か。本文中の語句を用いて具体的に説明せよ」

という設問があったとする。

このような設問に当たった時、多く人が、この傍線部の周辺部に具体例を探してしまっている。「具体的に説明せよ」を「具体例を用いて説明せよ」と混同している訳である。両者は、不注意な人にはよく似たものに見えるかも知れないが、全く異なるものである。「傍線部を具体的に説明せよ」とは、「傍線部に省略されている語句を文脈から全て正確に復元し、その上で傍線部そのものを逐語訳しなさい」の意味で、具体例とは全く関係ないのである。

抑も答案に、特別な場合を除いて絶対に、具体例を入れてはいけない。具体例とは、文章の趣旨を読者の頭で納得し易くするための機能を果たすものでしかなく、飽く迄も文章の趣旨そのものには含められない。「文脈」に具体例は入らないのである。従って、具体例が設問の対象になることは殆どない。...このような鉄則も入試には、厳然として存在している。

具体例を引用しようとしてはいなくても、傍線部を説明しなければならない時に、傍線部以外の箇所を引用しようとするだけで、傍線部そのものを傍線部そのものの説明に入れてはいけないと思い込んでしまっている人も多く見受けられる。これも、上に述べたことを見て分かるように、明らかな間違いである。傍線部の説明は、特別な操作が補足的に施されてはいても、飽く迄も、傍線部の逐語訳でしかないのである。

実は、実際に見てもらったら誰にでも直ぐに分かると思うが、京大国語では、現代文でも古文でも、その設問のかなりの部分が、この傍線部の説明或いは訳出の問題となっているのだ。従って、誤答の多くが、このタイプの設問での、今説明したような仕組みの誤答になってしまっているだろうとの予想が付く。そして実際、私がこれまでにチェックしてきた誤答の多くがそうだった。ということは、この例示を通して説明した解答作成上の注意点ひとつが修正されるだけで、もう既に、得点率の大幅な上昇が見込めるということにもなる。ただ、その修正のためには、この注意点について熟知している指導者に自分の答案を、一定期間チェックして貰う必要があるだろうが。

解答作成上の注意点は、上記以外にも数多く、存在している。私はそれらを全て明確に分類し、合理的に説明することができる。ただ、それらをここで、これ以上詳しく説明する訳にはいかない。実際に私の授業を受講して貰って、その中でひとつひとつ具体的に説明するしかないからだ。しかし、上記の例示ひとつだけで、私が今ここでその存在を伝えようとしている解答作成上の秘訣というものの重要性だけは、聞く耳のある人にはもう既に、十分に伝わったものと考えたい。

最後に、設問のタイプを明確に区別した上で予め解答形式を整えておくことに含まれる効用で、設問の趣旨にそぐわない頓珍漢な答案の回避という本来的な効用以外の、副次的な効用についても、言及しておかなければならない。

頓珍漢な答案を捻り出そうとする時、その多くの場合が、その設問に予め想定されている制限時間を大幅に超えることになっている筈である。ということは、私が今説明しているような解答作成上の作法が未だに身につかず、答案の作成が頓珍漢な答案の作成の段階に留まっている人の場合、京大国語の全設問に制限時間内で解答することそのものすら不可能になっていると言って良い筈だ。かと言って、このように他の多くの設問に対する解答を放棄してまでも「丁寧に」纏め上げた答案が、その分だけ完璧になっているかと言うと、実際は全くその逆で、その殆どが、ほんの少しの得点にも繋がっていないというのが実情なのである。模試を受験する度に空欄を大量に作ってしまっている人は、このような仕組みの停滞状態に陥っている危険大である。

しかしながら、設問のタイプを明確に区別した上で予め解答形式を整えておくという、上述したような解法に熟練しておけば自ずから、そのような事態が避けられるようになる。即ち、正確性とともに十分な程度の能率性が、解答に宿ってくるのである。しかも、日々の演習と講義の中で、盲目的ではない確実な認識を着実に積み重ねていくことにもなる訳だから、大きな知的快感も得られ、勉強そのものが楽しくなる筈である。これは、いいことだらけなのだ。

君はどう思うだろうか?

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