初めにロゴスありき。
これは『ヨハネの福音書』の冒頭に書かれた、非常に有名な言葉です。イエス=キリストの福音をヨーロッパ世界に伝えるために、ストア派の用語である「ロゴス(理法あるいは理性、言葉)」を用いてイエス=キリストのことを言い表したのだろうと言われています。このロゴスという言葉はギリシア語であり、従って、ヨーロッパのキリスト教会のものなのです。ユダヤ人である原始イエス教団のものではなかったはずです。
イエスの死の直後、エルサレムで「イスラエルの家の失われた羊への宣教」を使命として、イスラエル人として、また模範的なユダヤ人として活動していたのが、原始イエス教団です。対して、復活したイエスによる所謂「大宣教命令」を使命として「パリサイ人サウロ」改め「使徒パウロ」を中心に、アンティオキアというシリアの町で、後には西方の地中海世界で広く活動したのが、ヨーロッパのキリスト教会です。「キリスト教」と聞いて現代の普通の日本人が頭に思い描くのはこのヨーロッパのキリスト教のことですが、イエスの教えは実は「イスラエルの家の失われた羊」ーー「ヘブルの家の」とも「ユダヤの家の」ともなっていないことに注意ーーを最優先対象に想定するよう義務付けられたものでした。「ヘブルやイスラエル、ユダヤによる秦氏と天皇家を中心としたヤマト建国および日本建国」が問題となる時、この区別がまず念頭になければならないのです。ユダヤ人原始イエス教徒の集団が列島に招き入れられることでヤマト国中のヘブルやイスラエルが原始イエス教徒となり、ヤマト国が原始イエス教徒の国に生まれ変わり、後の日本国の基礎ができたからです。このことを理解しようとする時にユダヤ人だとか原始イエス教と聞いて現在の所謂「ユダヤ人」(偽物が「ユダヤ」と偽り利用しているにすぎない)やヨーロッパのキリスト教を思い浮かべてしまうと、それらをヤマト国や日本国の建国に結びつけることなど陳腐に感じられて先に進めなくなるからです。
ユダヤもイスラエルも「キリスト教」も、実は、本物はこの日本に保存されています。本物を保存するために、あるいは「日本国民」を能率よく自らの新しい食い物に加えるために、日本建国時あるいは明治、戦前、戦後期に、其々に内外から幾つかの隠れた集団が巧妙な仕掛けを施したことから、私達には分からなくなっているだけというのが実情だったのです。その封印が何かの理由で、これまた恐らくは新しい仕掛けを伴いながら、解かれようとしている。今はそういう特別な時代なのだ。このように多くの人が、騒ぎ始めている訳です。
参考:わたしが遣わされるのはイスラエルの家の失われた羊の所であって、それ以外のだれの所でもないというのが、天の父の言葉でした(『マタイによる福音書』第15章24節)
参考:イエスはこの十二人を遣わすに当り、彼らに命じて言われた。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊の所に行け」と(『マタイによる福音書』第10章5~6節)
註:「ロゴス」に対応するヘブル語はなかったようです。小アジアのエフェソスで「主の愛し給ふ弟子のひとり」が 紀元後90年頃までにコイネーギリシア語で纏めた特殊な福音書。これが所謂『ヨハネの福音書』でした。他の三つの福音書は特殊でなく、互に「共観」し合っているように感じられるために「共観福音書」と呼ばれ、この『ヨハネの福音書』からわざわざ区別されるくらいです。
註:「ヨーロッパ」と「アジア」の語源はアラム語の「エレブ(入る)」と「アス(出る)」です。「ヨーロッパ」も「アジア」も、日の入りと日の出の方向を言い表すための手段としたものが起源だったのです。この枠組みを行い世界中に流布させた、アラム語を喋る人達とは何者かもまた、調べなくてはなりません。さらには、興味深いことに、これが列島にも伝わり、「西表(いりおもて)」や「東(吾妻[あずま])」などの言葉の中に残っているようです。
ロゴスはこのようにヨーロッパのキリスト教会の言葉ですから、あの一言主の神話も、もしこの一言主がロゴスのことを表しているなら、原始イエス教と秦氏の神話などではなく、景教と忌部氏の神話となっていなければならないことになります。
参考:一言主の神話:雄略天皇4年(西暦460年)雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行った時、紅紐付きの青摺の衣を着るなど、天皇一行と全く同じ恰好をした一行が、向かいの尾根を歩いていた。雄略天皇がその人に名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢の他、官吏たちの着ている衣服を脱がせて一言主に差し上げた。一言主はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。(『古事記』)
ロゴスのことを意味する一言主の神話が景教と忌部氏の神話でなければならないはずだと私が言う理由は、そもそも、北イスラエル滅亡直後の紀元前7世紀に預言者イザヤに率いられて南ユダヤを脱出し、海路インド洋や南シナ海を抜けて四国の阿波に入ったレビ人の集団が阿波忌部氏であり、その阿波忌部氏が、紀元後8世紀末にあの空海を唐に派遣して、彼によって景教を、密教と共に唐から高野山に導き入れ、それを、秦氏や中臣氏、藤原氏の原始イエス教団に対抗するための、即ち、自らの祭祀族としての地位をヤマト建国以来(日本建国以降は特に)圧迫し続けてきた秦氏や中臣氏、藤原氏の原始イエス教団に対抗するための、思想的基盤としたと推定されるからです。この時の忌部氏の思惑は例えば、次のように表現できるのかもしれません。
「秦氏や中臣氏、藤原氏がイエス=メシアに対する祭祀から我々忌部氏をジワジワと追い出してきたことに我慢ならない。我々も偉大なる預言者イザヤとそれを中核とする祭祀集団の流れを直接受け継ぐ由緒正しき氏族なのだ。こんな扱いは絶対に不当だ。こうなった以上は、ヨーロッパから伝わったもうひとつのイエス教、景教を列島での我々独自のものとして受け入れ、彼等のものとよく似てはいるがあくまでも別枠として機能する国家秩序を、我々の祭祀を中核に確立してしまおう。そうやって彼等に対抗しよう」。
註:景教とは、5世紀に出てきて異端宣告を受け、ヨーロッパから追放されて東方に拠点を移した、ネストリウス派のキリスト教会の8世紀以降の極東での呼び名です。
秦氏と原始イエス教団が忌部氏を圧迫したことは、例えば『古事記』の「国譲り」神話の中にも見て取ることができます。「国譲り」神話とは、要約すると、次のようになります。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)などの高天原(たかまのはら)の神々(天津神[あまつかみ])は「葦原中国(あしはらのなかつくに)を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫なのだ」と主張し、何人かの神を出雲に遣わし交渉するが、当然ながら事がすんなりと収まるはずもなかった。ところが、最後に建御雷(たけみかづち)を派遣すると、大國主の子である事代主(ことしろぬし)と建御名方(たけみなかた)は屈服し、大国主も自身の宮殿建設を条件にして国を譲ることになった。
これが『古事記』の所謂「国譲り」のあらすじですが、この有名な逸話において私は、実は、
(1)事代主=一言主=葛城の賀茂氏(阿波忌部氏の裏天皇組織)が信奉
(2)建御名方=東表国の海人族である宗像氏と何らかの関係がある=諏訪大社のその時以来の主祭神
(3)建御雷=建角身あるいは別雷=山背の賀茂氏(秦氏の裏天皇組織)が信奉
という等式を想定し、そこから山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏、あるいは山背の秦氏と阿波の忌部氏の関係が読み取れるのではないかと予想しているのです。詳細はこの記事の、これ以降の論述で明らかにしていきます。
話を元に戻しましょう。上述の如く一言主の神話は景教や忌部氏のものでないといけないはずです。なのに、この一言主は実際は高鴨とも称され、葛城の賀茂氏の祀る神となってしまっているのです。賀茂氏と言えば、山背の下上賀茂神社の賀茂氏が直ぐに念頭に浮かんできます。この賀茂氏は、私のこれまでの説ではまさに、原始イエス教団としての秦氏や中臣氏、藤原氏の中核に位置する氏族だったはずです。熊野の山中での神武先導直後に葛城の賀茂氏が移住し定住したのがこの山背の賀茂氏であるとの伝承がありますが(『山城国風土記』逸文)、この伝承に従う限り葛城の賀茂氏も、賀茂氏である以上、山背の賀茂氏と同様に、ユダヤ人原始イエス教徒である秦氏や中臣氏、藤原氏の中核氏族となるはずです。しかしこれでは、彼等を列島における改宗景教徒とする上記の、恐らくは正しい推定に対して、真っ向から対立してしまうことになってしまいます。この矛盾はどう考えたらいいのでしょうか?
実は、この伝承に真っ向から対立しているように見える伝承があるのです。「山背の賀茂氏は天神系で、地祇系の賀茂氏とは異なる氏族である。賀茂というのはある特殊な理由から特定の氏族に限らずに付けられる氏姓でしかないのだ」という山背賀茂氏側の伝承です(『鴨始祖伝』)。『山城国風土記』逸文の伝承は、この『鴨始祖伝』の記述と矛盾しないように解釈し直すと、実は、阿波の忌部氏の中核氏族たる葛城のレビ族集団の元に一旦は身を寄せていた別の新来のレビ族集団が、神武先導直後に、葛城のレビ族集団の元を離れ、山背に移動して現在の山背の賀茂氏のルーツとなったことを伝えるものだったことが分かるのです。
註:年代も計算に入れると、このことから、後に「神武天皇」と称されることになる人物が、実在しなかったわけではないにしろ、実は「応神天皇」だったことが分かります。「神武天皇」が阿波忌部氏のレビ族集団に伴われて列島にやって来て、プロトヤマト国を建国した話と「応神天皇」が山背秦氏に伴われて列島にやって来て、プロトヤマト国をヤマト国に発展させたことを合成したのが「神武東遷」だったわけです。
山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏は、それぞれが同じレビ族であるだけではなく、彼らだけが裏天皇の秘教組織も同様に持つという共通の理由から、どちらも排他的に賀茂と名乗り、互いに「同族」としてある程度の協力関係にはあるものの、意識の中心的な部分では決して「同族」などでなく、むしろ対立し合ってすらいる、極めて微妙な間柄にあったのです。
これを証明するかのように、下上賀茂神社は、祭神も一言主とはなっていません。建角身(たけつぬみ)あるいは別雷(わけいかづち)という名の雷神となっています。この健角身あるいは別雷を『古事記』の「国譲り」神話で事代主(一言主)と対抗し、事代主(一言主)を海中への潜伏へと追い詰めた、あの建御雷(たけみかづち)と同じ神と見なすことができます。だとしたら、この「国譲り」神話もまた、山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏の関係を巡る上記のような説を裏付ける証拠と見なすことができるでしょう。
一言主の記紀の中での登場は、しかしながら、応神天皇から数代下った5世紀の、あの列島古来の大氏族葛城氏を攻め滅ぼした雄略の時代となっていて、景教が唐に伝わるよりも遥かに古く、ヨーロッパでのネストリウス派(景教)そのものの成立の時と同じくらい古い。ということは、葛城のレビ族集団もこの時はまだ、ロゴスたるイエス=キリストのことは知らなかったことになる訳です。ですから、この神話の中での「一言主」とは「葛城の賀茂氏が賀茂氏と自称し始める以前から祭祀してきた神で後に賀茂氏と自称し始めた時以来『一言主』と呼ばれることになる神」を意味していたことになります。この神話は暴虐な大王(おおきみ)として有名なあの雄略ですら、葛城の賀茂氏に対しては、山背の賀茂氏の存在を背景に大王として君臨できていたにも拘らず当時から、大いに敬意を示さなくてはならなくなっていた。葛城のレビ族集団の権威は賀茂氏と自称する前から、元々これくらい重大なものだった。このようなことを伝えるものだったのです。
以上の推論の過程で出て来た日本国の平安時代以降の大まかな体制を、若干の補足事項を付け加えながら纏めると、次のようになります。
秦氏がヤマト国に迎え入れられてヤマト国全体を、それまでの単なるヘブル・イスラエル・ユダヤ教の国からイエス=メシア教の国へと大きく作り替え発展させた際に、列島最古で由緒正しい、葛城氏との結びつきのもと葛城にも拠点を築いていたレビ族集団もまた、他のヘブル・イスラエル・ユダヤ諸族のレビ族集団と一括りに「忌部」と称されるようになった。にも拘らず、彼等はその後も、山背のレビ族集団が山背秦氏のレビ族集団として特権的に賀茂氏と称し、忌部連合の中でも特別な役割を担っていく中ですら、列島での古さなど幾つかの理由を背景に、山背の賀茂氏に並ぶ程の敬意を集めて祭祀の重要な部分を取り扱っていた。しかしそれも、その後の時代の変遷の中で次第に、秦氏や中臣氏、藤原氏によって圧迫され、後退していくことになる。ある時、この状況を憂えた者達が空海を奈良や四国で十分に訓練した後で遣唐使と共に唐に送り込み、当時の長安で隆盛を極めていたヨーロッパ由来のネストリウス派キリスト教(景教)を密教と共に高野山に導入させた。その空海を表に立てることで、利害関係の一致した桓武朝の保護を取り付けることに成功した。イエス=キリスト(メシア)を祭祀する点で山背の賀茂氏と同じような特権的な地位を持つが故に賀茂氏と称しつつ、山背の賀茂氏とはあくまでも別枠の新しい国家秩序を南九州から四国、安芸、吉備、紀伊、葛城、吉野、高野山、熊野、近江、岐阜、伊勢、志摩、信州、相模、房総と広く創設して、中華との継続的な交流をバックに山背の賀茂氏と日本国内での協調かつ対抗の関係に入ることができた訳である。因みに、山背の賀茂氏は、山背、播磨、丹波、北陸、山陰、山城、近江、尾張、旧高句麗勢力が分布する東国、長門、周防、北九州、統一新羅の治める半島に広く国家秩序を及ぼしている。
レビ族集団が賀茂氏になるのは、1+3+9+58=1+70という組織構成を特徴とする秘教集団を裏天皇組織として構成した時に限られる。西洋でもサンヘドリンという名称で知られる秘密結社などがやはり、これと同じ組織構成となっていると言われている。イエスの弟子達の、従って原始イエス教団もこのような組織構成になっていたことが聖書に記されている。勿論、山背の賀茂氏も葛城の賀茂氏もそうなっているのである。両者ともに八咫烏と称される。前者の裏天皇が天神、後者の裏天皇が地祇。これにそれらのバックアップの元で表において天皇が日本国を統治する。一般に「三人の天皇」と称されているのは、この天神、地祇、天皇のことであるらしい。天神と地祇の対立関係は、天智と天武、天台密教と真言密教、源氏と平氏、摂関家と院庁(いんのちょう)、足利氏と北条氏、北朝と南朝、大内と細川、足利将軍家と信長・秀吉・家康、旧帝国陸軍と海軍、北朝鮮人脈と農協・郵便局組織など、その後の歴史上のありとあらゆる場面に様々な形態をとって登場してきているものと考えられる。
それぞれを精密に分析する過程で今後若干の変更を加えることになるかもしれませんが、大まかには以上で実態を十分に表現できているものと推定されます。また、戦後はここに、アメリカの金融偽ユダヤ勢力も関与してきて、より複雑になっているものとも推定できます。例えば、現在の東京の天皇家とは別に、京都にも、江戸時代以来の天皇家が密かに存続しているというのは、上に述べたような構図と関わりつつも、それだけでは割り切れない何事かをも含み込んでいると考えておいた方がいいと思われます。今後も何か新しい要素に気づいたら、上に述べたような大まかな構図をベースにそれをより発展させ、より具体的な現象までもより正確に包括できるような構造認識にすることを目指さなくてはなりません。
これは『ヨハネの福音書』の冒頭に書かれた、非常に有名な言葉です。イエス=キリストの福音をヨーロッパ世界に伝えるために、ストア派の用語である「ロゴス(理法あるいは理性、言葉)」を用いてイエス=キリストのことを言い表したのだろうと言われています。このロゴスという言葉はギリシア語であり、従って、ヨーロッパのキリスト教会のものなのです。ユダヤ人である原始イエス教団のものではなかったはずです。
イエスの死の直後、エルサレムで「イスラエルの家の失われた羊への宣教」を使命として、イスラエル人として、また模範的なユダヤ人として活動していたのが、原始イエス教団です。対して、復活したイエスによる所謂「大宣教命令」を使命として「パリサイ人サウロ」改め「使徒パウロ」を中心に、アンティオキアというシリアの町で、後には西方の地中海世界で広く活動したのが、ヨーロッパのキリスト教会です。「キリスト教」と聞いて現代の普通の日本人が頭に思い描くのはこのヨーロッパのキリスト教のことですが、イエスの教えは実は「イスラエルの家の失われた羊」ーー「ヘブルの家の」とも「ユダヤの家の」ともなっていないことに注意ーーを最優先対象に想定するよう義務付けられたものでした。「ヘブルやイスラエル、ユダヤによる秦氏と天皇家を中心としたヤマト建国および日本建国」が問題となる時、この区別がまず念頭になければならないのです。ユダヤ人原始イエス教徒の集団が列島に招き入れられることでヤマト国中のヘブルやイスラエルが原始イエス教徒となり、ヤマト国が原始イエス教徒の国に生まれ変わり、後の日本国の基礎ができたからです。このことを理解しようとする時にユダヤ人だとか原始イエス教と聞いて現在の所謂「ユダヤ人」(偽物が「ユダヤ」と偽り利用しているにすぎない)やヨーロッパのキリスト教を思い浮かべてしまうと、それらをヤマト国や日本国の建国に結びつけることなど陳腐に感じられて先に進めなくなるからです。
ユダヤもイスラエルも「キリスト教」も、実は、本物はこの日本に保存されています。本物を保存するために、あるいは「日本国民」を能率よく自らの新しい食い物に加えるために、日本建国時あるいは明治、戦前、戦後期に、其々に内外から幾つかの隠れた集団が巧妙な仕掛けを施したことから、私達には分からなくなっているだけというのが実情だったのです。その封印が何かの理由で、これまた恐らくは新しい仕掛けを伴いながら、解かれようとしている。今はそういう特別な時代なのだ。このように多くの人が、騒ぎ始めている訳です。
参考:わたしが遣わされるのはイスラエルの家の失われた羊の所であって、それ以外のだれの所でもないというのが、天の父の言葉でした(『マタイによる福音書』第15章24節)
参考:イエスはこの十二人を遣わすに当り、彼らに命じて言われた。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊の所に行け」と(『マタイによる福音書』第10章5~6節)
註:「ロゴス」に対応するヘブル語はなかったようです。小アジアのエフェソスで「主の愛し給ふ弟子のひとり」が 紀元後90年頃までにコイネーギリシア語で纏めた特殊な福音書。これが所謂『ヨハネの福音書』でした。他の三つの福音書は特殊でなく、互に「共観」し合っているように感じられるために「共観福音書」と呼ばれ、この『ヨハネの福音書』からわざわざ区別されるくらいです。
註:「ヨーロッパ」と「アジア」の語源はアラム語の「エレブ(入る)」と「アス(出る)」です。「ヨーロッパ」も「アジア」も、日の入りと日の出の方向を言い表すための手段としたものが起源だったのです。この枠組みを行い世界中に流布させた、アラム語を喋る人達とは何者かもまた、調べなくてはなりません。さらには、興味深いことに、これが列島にも伝わり、「西表(いりおもて)」や「東(吾妻[あずま])」などの言葉の中に残っているようです。
ロゴスはこのようにヨーロッパのキリスト教会の言葉ですから、あの一言主の神話も、もしこの一言主がロゴスのことを表しているなら、原始イエス教と秦氏の神話などではなく、景教と忌部氏の神話となっていなければならないことになります。
参考:一言主の神話:雄略天皇4年(西暦460年)雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行った時、紅紐付きの青摺の衣を着るなど、天皇一行と全く同じ恰好をした一行が、向かいの尾根を歩いていた。雄略天皇がその人に名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢の他、官吏たちの着ている衣服を脱がせて一言主に差し上げた。一言主はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。(『古事記』)
ロゴスのことを意味する一言主の神話が景教と忌部氏の神話でなければならないはずだと私が言う理由は、そもそも、北イスラエル滅亡直後の紀元前7世紀に預言者イザヤに率いられて南ユダヤを脱出し、海路インド洋や南シナ海を抜けて四国の阿波に入ったレビ人の集団が阿波忌部氏であり、その阿波忌部氏が、紀元後8世紀末にあの空海を唐に派遣して、彼によって景教を、密教と共に唐から高野山に導き入れ、それを、秦氏や中臣氏、藤原氏の原始イエス教団に対抗するための、即ち、自らの祭祀族としての地位をヤマト建国以来(日本建国以降は特に)圧迫し続けてきた秦氏や中臣氏、藤原氏の原始イエス教団に対抗するための、思想的基盤としたと推定されるからです。この時の忌部氏の思惑は例えば、次のように表現できるのかもしれません。
「秦氏や中臣氏、藤原氏がイエス=メシアに対する祭祀から我々忌部氏をジワジワと追い出してきたことに我慢ならない。我々も偉大なる預言者イザヤとそれを中核とする祭祀集団の流れを直接受け継ぐ由緒正しき氏族なのだ。こんな扱いは絶対に不当だ。こうなった以上は、ヨーロッパから伝わったもうひとつのイエス教、景教を列島での我々独自のものとして受け入れ、彼等のものとよく似てはいるがあくまでも別枠として機能する国家秩序を、我々の祭祀を中核に確立してしまおう。そうやって彼等に対抗しよう」。
註:景教とは、5世紀に出てきて異端宣告を受け、ヨーロッパから追放されて東方に拠点を移した、ネストリウス派のキリスト教会の8世紀以降の極東での呼び名です。
秦氏と原始イエス教団が忌部氏を圧迫したことは、例えば『古事記』の「国譲り」神話の中にも見て取ることができます。「国譲り」神話とは、要約すると、次のようになります。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)などの高天原(たかまのはら)の神々(天津神[あまつかみ])は「葦原中国(あしはらのなかつくに)を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫なのだ」と主張し、何人かの神を出雲に遣わし交渉するが、当然ながら事がすんなりと収まるはずもなかった。ところが、最後に建御雷(たけみかづち)を派遣すると、大國主の子である事代主(ことしろぬし)と建御名方(たけみなかた)は屈服し、大国主も自身の宮殿建設を条件にして国を譲ることになった。
これが『古事記』の所謂「国譲り」のあらすじですが、この有名な逸話において私は、実は、
(1)事代主=一言主=葛城の賀茂氏(阿波忌部氏の裏天皇組織)が信奉
(2)建御名方=東表国の海人族である宗像氏と何らかの関係がある=諏訪大社のその時以来の主祭神
(3)建御雷=建角身あるいは別雷=山背の賀茂氏(秦氏の裏天皇組織)が信奉
という等式を想定し、そこから山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏、あるいは山背の秦氏と阿波の忌部氏の関係が読み取れるのではないかと予想しているのです。詳細はこの記事の、これ以降の論述で明らかにしていきます。
話を元に戻しましょう。上述の如く一言主の神話は景教や忌部氏のものでないといけないはずです。なのに、この一言主は実際は高鴨とも称され、葛城の賀茂氏の祀る神となってしまっているのです。賀茂氏と言えば、山背の下上賀茂神社の賀茂氏が直ぐに念頭に浮かんできます。この賀茂氏は、私のこれまでの説ではまさに、原始イエス教団としての秦氏や中臣氏、藤原氏の中核に位置する氏族だったはずです。熊野の山中での神武先導直後に葛城の賀茂氏が移住し定住したのがこの山背の賀茂氏であるとの伝承がありますが(『山城国風土記』逸文)、この伝承に従う限り葛城の賀茂氏も、賀茂氏である以上、山背の賀茂氏と同様に、ユダヤ人原始イエス教徒である秦氏や中臣氏、藤原氏の中核氏族となるはずです。しかしこれでは、彼等を列島における改宗景教徒とする上記の、恐らくは正しい推定に対して、真っ向から対立してしまうことになってしまいます。この矛盾はどう考えたらいいのでしょうか?
実は、この伝承に真っ向から対立しているように見える伝承があるのです。「山背の賀茂氏は天神系で、地祇系の賀茂氏とは異なる氏族である。賀茂というのはある特殊な理由から特定の氏族に限らずに付けられる氏姓でしかないのだ」という山背賀茂氏側の伝承です(『鴨始祖伝』)。『山城国風土記』逸文の伝承は、この『鴨始祖伝』の記述と矛盾しないように解釈し直すと、実は、阿波の忌部氏の中核氏族たる葛城のレビ族集団の元に一旦は身を寄せていた別の新来のレビ族集団が、神武先導直後に、葛城のレビ族集団の元を離れ、山背に移動して現在の山背の賀茂氏のルーツとなったことを伝えるものだったことが分かるのです。
註:年代も計算に入れると、このことから、後に「神武天皇」と称されることになる人物が、実在しなかったわけではないにしろ、実は「応神天皇」だったことが分かります。「神武天皇」が阿波忌部氏のレビ族集団に伴われて列島にやって来て、プロトヤマト国を建国した話と「応神天皇」が山背秦氏に伴われて列島にやって来て、プロトヤマト国をヤマト国に発展させたことを合成したのが「神武東遷」だったわけです。
山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏は、それぞれが同じレビ族であるだけではなく、彼らだけが裏天皇の秘教組織も同様に持つという共通の理由から、どちらも排他的に賀茂と名乗り、互いに「同族」としてある程度の協力関係にはあるものの、意識の中心的な部分では決して「同族」などでなく、むしろ対立し合ってすらいる、極めて微妙な間柄にあったのです。
これを証明するかのように、下上賀茂神社は、祭神も一言主とはなっていません。建角身(たけつぬみ)あるいは別雷(わけいかづち)という名の雷神となっています。この健角身あるいは別雷を『古事記』の「国譲り」神話で事代主(一言主)と対抗し、事代主(一言主)を海中への潜伏へと追い詰めた、あの建御雷(たけみかづち)と同じ神と見なすことができます。だとしたら、この「国譲り」神話もまた、山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏の関係を巡る上記のような説を裏付ける証拠と見なすことができるでしょう。
一言主の記紀の中での登場は、しかしながら、応神天皇から数代下った5世紀の、あの列島古来の大氏族葛城氏を攻め滅ぼした雄略の時代となっていて、景教が唐に伝わるよりも遥かに古く、ヨーロッパでのネストリウス派(景教)そのものの成立の時と同じくらい古い。ということは、葛城のレビ族集団もこの時はまだ、ロゴスたるイエス=キリストのことは知らなかったことになる訳です。ですから、この神話の中での「一言主」とは「葛城の賀茂氏が賀茂氏と自称し始める以前から祭祀してきた神で後に賀茂氏と自称し始めた時以来『一言主』と呼ばれることになる神」を意味していたことになります。この神話は暴虐な大王(おおきみ)として有名なあの雄略ですら、葛城の賀茂氏に対しては、山背の賀茂氏の存在を背景に大王として君臨できていたにも拘らず当時から、大いに敬意を示さなくてはならなくなっていた。葛城のレビ族集団の権威は賀茂氏と自称する前から、元々これくらい重大なものだった。このようなことを伝えるものだったのです。
以上の推論の過程で出て来た日本国の平安時代以降の大まかな体制を、若干の補足事項を付け加えながら纏めると、次のようになります。
秦氏がヤマト国に迎え入れられてヤマト国全体を、それまでの単なるヘブル・イスラエル・ユダヤ教の国からイエス=メシア教の国へと大きく作り替え発展させた際に、列島最古で由緒正しい、葛城氏との結びつきのもと葛城にも拠点を築いていたレビ族集団もまた、他のヘブル・イスラエル・ユダヤ諸族のレビ族集団と一括りに「忌部」と称されるようになった。にも拘らず、彼等はその後も、山背のレビ族集団が山背秦氏のレビ族集団として特権的に賀茂氏と称し、忌部連合の中でも特別な役割を担っていく中ですら、列島での古さなど幾つかの理由を背景に、山背の賀茂氏に並ぶ程の敬意を集めて祭祀の重要な部分を取り扱っていた。しかしそれも、その後の時代の変遷の中で次第に、秦氏や中臣氏、藤原氏によって圧迫され、後退していくことになる。ある時、この状況を憂えた者達が空海を奈良や四国で十分に訓練した後で遣唐使と共に唐に送り込み、当時の長安で隆盛を極めていたヨーロッパ由来のネストリウス派キリスト教(景教)を密教と共に高野山に導入させた。その空海を表に立てることで、利害関係の一致した桓武朝の保護を取り付けることに成功した。イエス=キリスト(メシア)を祭祀する点で山背の賀茂氏と同じような特権的な地位を持つが故に賀茂氏と称しつつ、山背の賀茂氏とはあくまでも別枠の新しい国家秩序を南九州から四国、安芸、吉備、紀伊、葛城、吉野、高野山、熊野、近江、岐阜、伊勢、志摩、信州、相模、房総と広く創設して、中華との継続的な交流をバックに山背の賀茂氏と日本国内での協調かつ対抗の関係に入ることができた訳である。因みに、山背の賀茂氏は、山背、播磨、丹波、北陸、山陰、山城、近江、尾張、旧高句麗勢力が分布する東国、長門、周防、北九州、統一新羅の治める半島に広く国家秩序を及ぼしている。
レビ族集団が賀茂氏になるのは、1+3+9+58=1+70という組織構成を特徴とする秘教集団を裏天皇組織として構成した時に限られる。西洋でもサンヘドリンという名称で知られる秘密結社などがやはり、これと同じ組織構成となっていると言われている。イエスの弟子達の、従って原始イエス教団もこのような組織構成になっていたことが聖書に記されている。勿論、山背の賀茂氏も葛城の賀茂氏もそうなっているのである。両者ともに八咫烏と称される。前者の裏天皇が天神、後者の裏天皇が地祇。これにそれらのバックアップの元で表において天皇が日本国を統治する。一般に「三人の天皇」と称されているのは、この天神、地祇、天皇のことであるらしい。天神と地祇の対立関係は、天智と天武、天台密教と真言密教、源氏と平氏、摂関家と院庁(いんのちょう)、足利氏と北条氏、北朝と南朝、大内と細川、足利将軍家と信長・秀吉・家康、旧帝国陸軍と海軍、北朝鮮人脈と農協・郵便局組織など、その後の歴史上のありとあらゆる場面に様々な形態をとって登場してきているものと考えられる。
それぞれを精密に分析する過程で今後若干の変更を加えることになるかもしれませんが、大まかには以上で実態を十分に表現できているものと推定されます。また、戦後はここに、アメリカの金融偽ユダヤ勢力も関与してきて、より複雑になっているものとも推定できます。例えば、現在の東京の天皇家とは別に、京都にも、江戸時代以来の天皇家が密かに存続しているというのは、上に述べたような構図と関わりつつも、それだけでは割り切れない何事かをも含み込んでいると考えておいた方がいいと思われます。今後も何か新しい要素に気づいたら、上に述べたような大まかな構図をベースにそれをより発展させ、より具体的な現象までもより正確に包括できるような構造認識にすることを目指さなくてはなりません。
また何かのヒントになればと思います。
雄略天皇の格好も何かの象徴なわけですが、それも読み解かなければならないですね。
これだけ多くの解釈ができるというのは、記紀神話や万葉集を編纂した人たちが、いかに高い能力を持っていた、むしろ神の力を受けていた、ということですね。
彼らが私たちを手玉に取っているのか、それとも道を示してくれているのか、後者でありたいですね。
齋部広成が編纂した古語拾位も読まねばと考えています。
ファラオさんご指摘の斎部広成にとても惹きつけられて、WIKIで見てみましたら連想が働きました。
聖武天皇が藤原仲麻呂による謀反で隠岐の島に流罪にされたとき、息子が3人居りました。一人は橘 諸兄で聖武天皇と県犬養美千代との子。二人は、藤原宮子との間にできた双子の兄弟、兄の広成と、弟の広世です。
広成は、海へ連れ出され溺死されたとのこと。 広世は伊豆へ流罪。
広成にも子はいたでしょうから、その子孫なのかも知れないと思いました。つまり忌部とは、「物忌み」のいみからきていると思いました。
藤原仲麻呂とは天武天皇の孫かひ孫で、かつ聖武天皇の実の姉を祖母か曾祖母に持っています。つまり藤原とは欺瞞であり、実は父方を天武系物部氏とする家系です。 仲麻呂の父、若しくは祖父の武智麻呂は聖武天皇に囲碁の最中に長良王を縊死させたことを口を滑らしてしまい、聖武天皇にその場で斬殺されています。仲麻呂にとっては父と祖父の敵でもあります聖武天皇に対する謀反は積年の思いか。もうひとつ大事な理由は、石川広成広世兄弟の存在でしょう。彼らは自分の血統を凌駕する。どうしても亡き者にしたかった思われる。
殺された広成の子孫はつまり、「物忌み」の忌部氏となった。
織田信長は聖武天皇の血を引くのではないかとずっと考えてきました。かれも忌部氏の血を引くのであれば、まさしくそのとおりであったと、いま結論してよいかもしれません。ファラオさんありがとう。
因みに、古事記とは 石上布留 高句麗 物部氏の史書。
日本書紀とは、シロ(新羅の古名)、大伴氏の史書。
万葉集は、梨壷の清少納言最終編纂の蘇我氏本家勅撰史書。
清少納言は高階貴子で高句麗系ですが、蘇我本家の勅撰史書を編纂したのはなぜか?
恨みによるものです。わが血統に対する。気位の高い才女の彼女にとって一番でない、本流でないものの血すなわち藤原北家に対する呪いの意味があったのではないでしょうか。すべて真実を知った上で、後年のいつか、誰かが暗号を施した万葉集を紐解いて、真実の歴史と真実の皇統がどこにあるかを解き明かすこために。
>聖武天皇には、藤原仲麻呂による謀反で隠岐の島に流罪にされた時、息子が3人居りました。一人は聖武天皇と県犬養美千代との子で、橘諸兄。残りの二人は、藤原宮子との間にできた双子の兄弟で、兄の広成と弟の広世です。
この広成の子孫が斎部氏と称されるようになったというのが今回のアルトさんの発想されたことですね。
宮子の出身氏族は津守氏です。津守氏は紀伊の海人族で、従って、私の説で言うところの忌部氏と関係の深いレビ族と推定することができます。忌部氏は紀元前7世紀に遡る非常に古い家系で、沢山ある忌部の中でも特別な地位にあったが故にいつの頃からか特別に忌部氏と称されるようになったというのが私の説です。
>広成は海へ連れ出され、溺死させられたとのこと。広世は伊豆へ流罪。
「国譲り」の神話で、事代主(一言主)が健御雷に攻められた時に恐れをなして海の中に身を沈めて逃げてしまったと書かれているのに、奇妙に重なりますね。
>広成にも子はいたでしょうから、斎部広成とはその子孫なのかも知れないと思いました。殺された広成の子孫が斎部氏となったのであり、だからこそ斎部氏に広成という名前のものがいるのだ。頭の中でこのように結びついてきました。
阿波忌部氏と関わりの深い津守氏から出た宮子が聖武天皇と結婚して生んだ皇子である石川広成。その子息が広成の死後、阿波忌部氏に保護され、阿波忌部氏の中の特別な一派の始祖となった。その一派が後に他から差別化するために斎部と改めた。アルトさんの今回の記述を詳しく分析しながら、このように考えてもいいのではと感じました。如何でしょうか?
>藤原仲麻呂とは天武天皇の孫かひ孫で、聖武天皇の実の姉を祖母あるいは曾祖母に持っています。つまり藤原とは欺瞞であり、実は父方を天武系物部氏とする家系なのです。
藤原南家のことですよね。
>仲麻呂の父もしくは祖父である武智麻呂は聖武天皇に、囲碁の最中つい「自分が長良王を縊死させた」と口を滑らしてしまい、聖武天皇にその場で斬殺されています。つまり、仲麻呂にとって聖武天皇は父武智麻呂と祖父天武を殺した敵ということになる訳です。聖武天皇に対する謀反はこのような積年の思いが募っての面もあったのでしょうか。
日本最古の王家蘇我本宗家の棟梁である額田王を母に持つ聖武天皇と、物部の分家である高句麗から来た天武系が対立し合っていたということですね。
額田王の出自が、これまでのアルトさんの書かれたものを読んでもまだよく見えません。正確に見えてくるまでもうしばらくお待ちください。
>仲麻呂謀反の重要な理由として考えられるのは、もうひとつ、石川広成、広世兄弟が聖武天皇の皇子として存在していることだったでしょう。彼等の母親である宮子の血統を考慮に入れると、彼らの血統は自分の血統を凌駕していることになる。どうしても亡き者にしたい。こういうことだったのだと思われます。
藤原南家には天皇となるべき「蘇我」本宗家の血が入っていなかったので、藤原南家でありながらどうしても天皇になりたかった仲麻呂が「蘇我」本宗家の血を消してしまおうとした。こういうことでしょうか?
>忌部氏の血を受け継ぐと言われる織田信長について私は、聖武天皇の血を引く高貴な血筋なのではないかとずっと考えてきましたが、聖武天皇の息子である石川広成が殺された後でその子孫が斎部氏になったと考えれば、この私の長年来の推定にも辻褄が合う訳です。
成る程。忌部と斎部の違いについて先述した私の推定は、この見解には妨げになるでしょうか?信長は忌部氏であると書かれているのであって、斎部氏であるとは書かれていないですから。斎部は忌部と同じで、全ての忌部=忌部が石川広成から出た聖武以降の比較的新しい家系なのでしょうか?「神武天皇の頃に阿波に入ってきた」という伝承も、アルトさんの場合は神武=聖武と考えておられるから、辻褄は合っておられるのですよね。神武や崇神、応神ばかりか聖徳まで架空で、全て聖武天皇と同じであるという時の「同じ」の意味をもっと詳しく知りたい気がします。時間を掛けて吟味してみたいと思います。
>因みに『古事記』は、石上布留、高句麗、物部氏の史書。『日本書紀』は、シロ(新羅の古名)、大伴氏の史書。『万葉集』は、梨壷の清少納言によって最終的に編纂された歌集ですが、仕掛けられた暗号を解いた上で読むと蘇我氏本家についての記述を含む秘密の史書となっている、そんな暗号の書。
>清少納言は高階貴子で高句麗系です。藤原北家とも繋がりの深い血筋なのです。その彼女が蘇我本家の勅撰史書を編纂したのは何故か?それは、自分の血統に対する恨みによるものと考えられます。高句麗系の藤原北家の血筋は、蘇我本宗家の血筋と比べれば、決して高いとは言えない。気位の高い才女であった清少納言こと高階貴子にとってはそれが我慢ならない。そんな藤原北家に対する呪いの意味合いを込めて『万葉集』の編纂に関わったのではないでしょうか?彼女は、真実の歴史と真実の皇統を熟知した上で『万葉集』の編纂に関わったのですが、その際に密かに数々の暗号を掛けていったのです。その時の彼女の心の中には、後年誰かがそれらの暗号を解き、真実を解き明かしてくれるだろうという密かな期待があったにちがいありません。
やや分かりにくい心理です。藤原南家と藤原北家の出自の違いも考慮に入れないといけませんね。藤原4家が全て不比等の息子が始祖というのは嘘で、色んな氏族の複合だということは、何処かで聞いたことがあります。アルトさんによると、南家は物部分家高句麗の系統。北家はひょっとしたらイスラエルの北朝にも繋がっているかもしれない郭務悰=鎌足と、蘇我氏族長の斉明天皇との間にできた不比等の息子が始祖ですか?ということは、藤原北家の血統は、蘇我本宗家棟梁の額田王と天智天皇の息子弘文天皇との間にできた聖武天皇にも負けないくらい高貴ということになりそうですが。
僕もまだまだ研究不足です。
一つは、壬申の乱で完全に行き詰っている事もあります。
あの不思議な生物系の名前と奇妙な行動に、まったくお手上げ状態で、あの戦いは本当にあった出来事なのか、それとも過去にあった歴史の象徴なのか、つかみかねています。
お二人はこのあたりの歴史は相当先んじておられるので、今一度勉強せねばと思います。
その中で、忌部氏と物部氏がどうしても重なってしまいます。
特に百足という名前です。
穂積百足は弟の五百枝とともに物部氏と思いますが、忌部氏の家系図には百足と百枝という兄弟が見えます。
三上山の百足退治はまったく忌部氏と藤原氏の関係を示していると思いますが、ここに物部氏がどう関わってくるのかは見えてきません。
百という数字から、キリストの十字架刑の場面に出てきた百卒長が関係してるのかとも思いました。
また、九十九をどうして「つくも」と読むのか、忌部氏のゆかりのある千葉には九十九里浜というのもあります。
また、房総半島と能登半島には「いろは」の一文字町名があり、忌部氏の姿があまり見えない能登半島(これもヘブライ語のようですが)とどういう関係があるのか、疑問がつきません。
滋賀県にも能登川という地名があり、安土城の近くです。
それにしても、日本列島の対称の位置に同じ形の半島があるのは天啓としか思えません。
何か、また余計なコメントをいれて、飛鷹さんの手を煩わせてしまったような。恐縮です。
といいつつも、飛鷹さんには、私が先日申した、第一人者にたどり着いてから、その碩学の文献解明の成果を十分に咀嚼してあなたの血肉として結実させて欲しいと切に思うわけです。そうすれば、私なぞよりはるかに古代史の全貌を理解することができるでしょうし、そう思うわけです。私の言うところは、その人物の受け売りがほとんどあり、私の解明したことなどほとんどありません。
さらに言えば、いつ何時その碩学のコメントが削除されてしまうかわからないので、いち早く知識としてとりあえずでも吸収して欲しいのです。おせっかいお許しください。間違いのない人物ですから、お早めに。
>額田王
父は、
藤原鎌足(金ユシン=郭ムソウ、イリコセ氏以下推論 アッシリア解放後の北イスラエル王国の王家、その後スキタイ王、アレキサンダー大王に被征服、以後アレキサンダーの後裔と同行、秦建国、魏建国、新羅建国、白村江のころ新羅臣従拒否、倭国圏勢力加入、蘇我氏斉明太政天皇と結婚、イリカスミ謀反により、氏族虐殺さる、倭国と決別、新羅と盟約。不比等より聖武天皇の方が格上は? たしか?鎌足の遺言だった。)
母は、
周王朝始祖のココウタンポの第三子(末子相続)季歴の後裔と蜀漢の劉禅の後裔との婚姻家系。その流れを汲む斎名太政天皇。
>ややわかりにくい心理
高階貴子つまり清少納言の子供は立太子されなかった。愛人の藤原道長と夫の藤原?成を毒殺しています。復讐です。
>忌部氏、BC7世紀に列島に存在した
私にはとても存在したとは思えません。全12部族が渡来したのは、鮮卑侵入による倭国大乱が起きたAD250以降だと思います。少数のフェニキア人ぐらいのはずでは。列島に最初に来た有力氏族は公孫氏で、近畿、帯方郡まで実効支配。親戚の卑弥呼(金髪のギリシャ系)と司馬イの魏軍とも挟撃により滅亡。文献あり。
藤原北家
始祖 房前、、、、、父は聖武天皇、実際は天武
母は、持統太政天皇(聖武天皇の正妻ではないが国母。
南家
始祖 武智麻呂、、、、父は天武
母は持統太政天皇、正妻
若しくは、天武と持統の子の草壁皇子の子
式家
始祖 宇合、、、、、父は不比等と母は持統の子
京家
始祖 麻呂 、、、、、五百重と不比等の子
倭国大乱が治まったのは台与の出現。
台与こそ、劉禅の子孫、おそらくはこれがイエスとマグダリーナの血。大嘗祭は台与出現を表現したもの。蘇我氏の意味はこれです。
古代においては女性の太政天皇が一番偉い君臨者。
男は実務扱う二番手の天皇。エジプトの伝統がそのまま生きている。明治から男帝。
「我輩は猫である」とは、どこの馬の骨ともわからない
明治天皇を揶揄した漱石一流の皮肉。
大和根子とは天皇の意味がある。根子=猫。
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
藤原定家
花=太政天皇 紅=天皇、統治者 浦の苫屋=ウラルトゥ王国 秋=蘇我本宗家 夕暮れ=衰退
とりあえずここまでで。文中の無作法は御赦しを。
百足、百枝はわかりませんが。壬申の乱は史実ですよ。
壬申の乱とは、白村江の敗北後、九州に上陸し、筑紫平野に拠点築いた天武軍。その後九州の吉野、畿内の吉野ではない、に軍事拠点を移した天武軍とっ戦勝国側の雄略天皇と戦争です。古事記?の天武の条の記述はわざと天武と雄略をあべこべに記述しているそうです。奇問トンコウに秀でていたのは雄略天皇のほうであるということです。
最初の即位の雄略天皇、二度目の即位で聖武天皇です。同一人物です。
能登半島にはアイヌ語もあります。富山では谷を「たに」といわず、「たん」と読みますね。
>何かまた余計なコメントをいれて、飛鷹さんの手を煩わせてしまったような気がします。恐縮です。
これまで地上から一歩一歩辿って来たものも、その道筋の記録があるからこそ高次の真理も多くの人に近づき得るものとなり、それが付随していない場合よりも遥かに価値が出てくるという信念の元、大切にしていますが、それを大きく揺れ動かし、更なる再検討を迫って来る、アルトさんのコメントがもたらすような衝撃も、絶対不可欠のものとして尊重いたしております。私の手前など掛けて当然のものですから、お気になさらず、ドシドシと衝撃をお与えください。ただし、私があまりにも愚鈍すぎることだけはご容赦ください。私の持ち味は、情報の独自性というよりは、流布している情報の多くを咀嚼し取捨選択して可能な限り精密で大規模な構造体を取り出し、文章として表現することではないかと自覚しております。
>といいつつも、飛鷹さんには、私が先日申した第一人者にたどり着いてから、その碩学の文献解明の成果を十分に咀嚼して、あなたの血肉として結実させて欲しいと切に思うわけです。そうすれば、私なぞよりはるかに古代史の全貌を理解することができると思うわけです。私の言うところは、その人物の受け売りがほとんどあり、私の解明したことなどほとんどありません。
高く評価頂き、恐縮です。ご期待にできるだけ沿えるように頑張ってみます。記紀や万葉集が8世紀から11世紀の頃までの400年間の間に、本当の史実を熟知しつつそれらと直接利害関係を結んでいる人々によって、史実を中核としながらも、名称の創作や人格合成、一部の事実の隠蔽や変形、年代の伸縮、暗号化などを何段階にも加えられて、極めて錯綜したパズルのようになってしまっていること。神武から天武や聖武直前までの人物描写は全て、天武や聖武の持つイメージがそれぞれ幾つにも細かく分節されて、それらが投影されて色付けされたものに過ぎないから、余りまともに取り上げるのは危険だということ。これらのメッセージは私にも十分伝わっています。ただ、吟味に時間がかかっているし、これからも同じように時間が掛かるのだろうと予想しています。
>さらに言えば、いつ何時その碩学のコメントが削除されてしまうかわからないので、いち早く知識としてとりあえずでも吸収して欲しいのです。おせっかいお許しください。間違いのない人物ですから、お早めに。
できるだけ急ぐつもりですが、間違いなく時間がかかるだろうと思っています。
>(「忌部」氏は紀元前7世紀に列島入りしたレビ族であるという私飛鷹の意見について)私にはとても存在したとは思えません。12部族はひとつの例外もなく、鮮卑侵入による倭国大乱が起きたAD250以降にならないと列島には入ってきてはいなかったと思います。それ以前に列島にいたのは、少数のフェニキア人ぐらいだったと思います。
紀元前16世紀にヒッタイトとエブス(フェニキア)が最初に列島に入り、その後江南からミャオ族が被支配農民として次々と流入。紀元前7世紀には南ユダ王国のレビ族集団が阿波に、紀元前3世紀には徐福に率いられられた東ユダヤ人の集団が丹波と九州に、それぞれ流入した。この極めて長い期間の所々で、ツングース系の民族に混じってイスラエルの失われた10氏族も流入して来たし、一旦は中原で王国を打ち立てたイスラエルやユダヤも新勢力に押されて次から次へと半島や列島になだれ込んできた。このような基本線で考えていますが、これがアルトさんの採用していらっしゃる基本線とどう関わってくるのか、徹底的に検討いたします。きっと実り多い作業になることだろうと予想しています。とにかく、私がスタイルとして採用している「方法的な愚鈍さ」に対しては、ご理解を賜りたいと存じます。
額田王の父は、藤原鎌足(金庾信+郭務悰[金庾信と郭務悰が同一人物ということか?それとも、文献上に「藤原鎌足」として登場する人物はこれら金庾信の事績と郭務悰の事績を合成して文献上の「藤原鎌足」に仮託したということか?])である。イリコセという名でも文献上は散見される。
推論:藤原鎌足の先祖はアッシリア解放後の北イスラエル王国の王家で(紀元前8世紀から紀元前4世紀末までどこにいたのだろう?)、紀元前4世紀末にスキタイ王アレクサンダー大王に征服され(どこで?)、以後アレクサンダーの後裔に同行して東洋に移動。アレクサンダーの後裔による秦建国や魏建国に関与する。新羅建国にも関与する(新羅は列島の出雲勢力によって建国された国では?金庾信の先祖は元々伽耶の王族だったはずだが?また金は半島での「蘇我」氏の呼称だったはず。蜀漢と秦や魏と敵対していたはずだが?金庾信の先祖が新羅建国に関与する詳しい経緯は?)。金庾信自身も新羅の大国化に関わる。白村江のころ新羅への臣従を辞して、倭国勢力圏に移動。「蘇我」氏棟梁の斉明太政天皇と結婚するが、イリカスミ=「天武」謀反により氏族を虐殺され奪われる(壬申の乱のことですね)。そこでイリカスミが主導権を奪った倭国と決別し、新羅と盟約を結び直し、辛うじて生き残った息子の不比等を天智の娘持統に近づけ、それによって天武系の追い出しを謀らせた。聖武天皇はその成果として誕生した天皇である。不比等より聖武天皇の方が格上とみなされる理由は確か、この鎌足の遺言があったからと記憶している。
母は、周王朝始祖の古公亶父(ココウタンポ)の第三子(当時は末子相続)季歴(キレキ)の後裔と、蜀漢の劉禅の後裔とが婚姻してできた家系が列島に入り、列島で最も高貴な家系として君臨するようになり、滅亡後には清少納言こと高階貴子によって「蘇我」と命名されるのだが、その流れを汲むのが斉明太政天皇で、それが額田王の母である。
高階貴子つまり清少納言の子供は立太子されなかった。愛人の藤原道長と夫の藤原?成(藤原道隆あるいは橘則光が夫であるというのは嘘?)を毒殺しています。復讐です。
忌部氏がBC7世紀に列島に存在したなどとは、私にはとても思えません。全12部族が渡来したのは、鮮卑侵入による倭国大乱が起きたAD250以降だと思います。それまで列島にいたのは少数のフェニキア人ぐらいだったはずです。列島に最初に来た有力氏族は公孫氏で、近畿、帯方郡まで実効支配。親戚の卑弥呼(金髪のギリシャ系)と司馬懿仲達の魏軍による挟撃に遭い滅亡。これについてはちゃんと文献が揃っている。
藤原北家(天武系)
始祖は房前。父は聖武天皇とされるが、実際は天武。母は持統太政天皇(聖武天皇の正妻ではないが国母)。
南家(天武系)
始祖は武智麻呂。父は天武。母は天武の正妻持統太政天皇。天武と持統の子である草壁皇子の子という説もある。
式家(不比等系)
始祖は宇合。父は不比等。母は持統。
京家(不比等系)
始祖は麻呂。不比等と五百重娘(いおえのいらつめ)の子。
倭国大乱が治まったきっかけは台与の出現であった(つまり台与はの列島への出現と鮮卑の列島侵入とは同じことを違う言葉で言い表したに過ぎない)。台与こそ蜀漢の二代目劉禅の子孫である。おそらくはこれがイエスとマグダラのマリアの血を受け継ぐものと思われる(蜀漢の劉氏は多分、イエスとマグダラのマリアの子孫であるとともに、鮮卑だったのだ)。大嘗祭の形式は、この台与の列島への出現を表現したものである。蘇我氏とは、この蜀漢の劉氏と周王季歴の末裔の婚姻によってできた家系のことである(この婚姻はどこでいつ行われたのか?)。列島では紀元250年位以降は本来、この家系にしか天皇になる資格はないとされた(紀元250年位まで列島には強力な氏族も王家も存在してはいなかった?葛城氏や沖永氏は?物部氏は徐福の末裔ではない?)。しかも古代においては、女性の太上天皇が一番偉い君臨者とみなされた。男は実務扱う二番手の天皇でしかなかった。これはエジプトの伝統がそのまま生きているものだった。男帝が重んじられるのは実は、明治以降の話でしかない(例えば孝明天皇の背後にも女性の太上天皇がいた?)。
「我輩は猫である」とは、どこの馬の骨ともわからない明治天皇を揶揄した漱石一流の皮肉であった。大和根子とは天皇の意味がある。根子=猫。
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家)
花=太政天皇
紅葉=天皇あるいは統治者
浦の苫屋=ウラルトゥ王国
秋=蘇我本宗家
夕暮れ=衰退