飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「宇宙人」の本当の意味

2021-05-12 05:49:42 | 宇宙人
私達は「宇宙人」や「宇宙人による人類創造」という言葉の曖昧性にそろそろ気づくべきです。真実の「宇宙人」はもはや「宇宙人」という言葉では呼称できないし、「創造」も誤訳と誤解の産物、或いは「創造主」と自称する者による意図的虚偽と断ずるべきです。

前者は、自らが知的生命体として生成発展してきた母星の閉じた環境の背後に広がる、宇宙内の全ての星の閉じた環境によっても共有されている共通の存在次元に生命体としての基軸を移す段階にまで進化した存在者と捉えるべきで、その中にはこの地球由来であるが故にこの地球のこの環境内でこの環境内の存在者達とこの環境内に固有の関わり方によって密かに関わってきたものも数種類存在すると考えるべきです。これを新たに何と呼ぶべきでしょうか?

この地球由来の高次知的生命体の中には、我々人類が牛や馬、羊などを家畜として飼育しているのと同様に、我々人類を家畜として飼育し、集団として進化せしめた者達がいます。生命体として我々とごく近い関係にあり、生殖関係を結ぶことが可能なものもその中には含まれていて、彼らのことは例えば「ネアンデルタール人」とか「ネフィリム」「プレアデス星人」とかいった、限定的な認識、或いは、意図的に操作誘導された誤解に基づいた、断片的な呼称が多数存在しています。

彼らとは別に、生命体として我々人類とはごく遠い関係にあり、生殖関係を結ぶことができない「レプティリアン」なども含まれています。

何れも我々人類を支配、飼育してきたことに変わりはありません。飼育である以上、我々人類が家畜に対して行うのと同じような人為的交配や遺伝子操作が行われてきたのは事実でしょう。が、それは「create」と意図的に強弁され我々の先祖もそれを無邪気に無批判に受け入れてきたに過ぎないのです。実際は「create」とは決して言えない事柄でしかありませんでした。自らを我々人類のcreatorと詐称してきた「プレアデス星人」や「レプティリアン」をも含む全ての存在者をcreateした主体以外に、creatorと呼んで不都合のないものはひとつもないからです。

この「create」は日本語で「創造する」「作る」と誤訳され、「manufacture」の意味まで誤って含みこむことになり、その言葉を使って思考する者の思考に修正不可能なくらいのひどい混乱を招く結果になっています。これは本来は「生む」と訳されるべきだった。creatorとは宇宙とその内部の全存在者を生み、宇宙とその内部の全存在として顕現した「Sein」あるいは「空」「無」などのことなのです。それとの本当の繋がりはひとりひとりの内部の奥底にしか見いだせない。この繋がりから目をそらさず、それに基づいて生きていくことが本当の宗教で、この本当の宗教が回復されることで従来の全ての宗教が単なる支配装置でしかなかったと暴露され、否定されるのです。

カントの超越論的弁証論

2021-05-09 06:04:06 | 日本論と宗教論
カントによる超越論的弁証論。

ここでは、矛盾するふたつの説の両方を上げて、どちらも間違えていることを論証する訳ですが、注意しないといけないのは、このどちらも間違えていると言っていることです。この三次元の世界が全てという考え方も間違いだと言っているのです。どちらも設定された立場からの仮の表現だと言っている。これは単なる不可知論ではありません。この世しか語れないと言っているのではないのです。そうではなく、どちらも違うと論じている主体は、そう語ることでいかなる語りも受け入れないあるものを語り得ているということなのです。これが超越論的ということです。超越論的 transcendental とは超越的なもの a transcendent との関わりをのみ表現し、超越的なものの直接的な表現を否定することです。超越的なものの直接的な表現を否定することでいかなる表現も不可能な超越的なものとその否定する主体との関わりを表現し、そうすることで超越的なものの真正の表現を得るという意味です。従ってカントは唯物論者ではありません。

そもそも、宇宙の創造や宇宙を作るという日本語は誤訳です。本来は生むと訳されなければならなかった。宇宙を生むとは宇宙として顕現するの意味です。create されたものは create したものの本質を受け継がない限り、create されたものとは決して表現できません。人間の行為としては生殖と芸術活動以外に create と表現されません。子供も芸術作品ももう一人の自分という側面を持つものです。

宇宙すなわち時間空間として顕現したものは時間空間の至るところに存在者として顕現する、いかなる存在者とも異なる、或るものとは決して表現できない、Seinとしか表現できないもののことです。英語では Be としか表現できないドイツ語ですが、英語は Be という表現を受け入れないので、結局はドイツ語で Zein と言う以外に方法がないのです。日本語の存在は或る意味この Zein と一致していると言えます。

これは実は nothing とも表現できません。nothing とは not ...... anything の意味でいかなるものでもないということの表現です。これを名詞と勘違いして無や空などと翻訳すると、本当は間違いになります。仏典のサンスクリット語から漢語への翻訳の際にも同じ間違いが起こったに違いありません。

I am what is. ならぬ I am who am. とそれ自身によって表現されれば、その限りにおいて、この世のいかなるものでもないがこの世のいかなるものの根底にも内蔵しているそれ自体のことが比較的よく表現されています。いかなる物象でもないという意味で人間の精神に似ていることの表現にもなっているからです。

因みに、ヤハウェとはこのありてあるもののと言語的に同じこと言われていますが、私は違うと思います。ヤハウェとはヤーべー即ちベーという名前のヤー、カナンの言葉ではベーという名前のエル即ちベーエル、バールのことだと思います。ありてあるものとは本来は関係ないものに違いありません。

本当のイエスを取り戻せ

2021-04-22 14:02:18 | 日本論と宗教論
「明日のことを思い煩うな」と「世界の終わりには」は矛盾しています。聖書の大部分は捏造です。黙示録はその典型。捏造部分を省いた、本当のイエス像を伝える部分にのみ意識を向けるべきです。奇跡も黙示録も必要ありません。この世そのものが奇跡であり、世界の終わりはみんなが考えるような世界の終わりではありません。それまでの人と人の繋がりのあり方が終わるという意味でしかないのです。聖書は捏造に加えて、ひどい誤訳の被害も受けていますよ。

英語の一般公開講座を始めました。

2020-10-20 12:34:45 | その他

結構楽しめるよ。

バンドがやっと形になってきた

2020-10-19 19:03:22 | その他

皆さんに聴いてもらえたら嬉しいです。

詳説:史上最悪の宗教戦争がこの現代日本で起こるのか

2019-08-18 11:32:00 | 日本論と宗教論
唯一の神は絶対的で万能です。ですから、こう言うと意外に感ぜられるでしょうが、実際は、例えば、所謂「宇宙の創造」すら行わなかったに違いないのです。唯一絶対の存在が自分以外のもの由来の素材を用いて自分以外の何かを作るとしたら、それはもう唯一絶対ではないことになってしまう。「宇宙の創造」と間違って呼称される事態において、神はただ、宇宙として、この世に顕現したにすぎないのです。神は、そういった意味で、「create」の本来の意味に相応しく、宇宙を「産んだ」のです。

これもまた意外かもしれませんが、実は「create」に本来「作る」という意味はありません。「宇宙の創造」は間違いなく、あまりにも大き過ぎる弊害を伴った誤訳だったのです。正しくは「宇宙の産出」としなければならなかった。神のことを「宇宙を作った」と間違って呼称するなど、神の間違った取り扱いを繰り返す内に、知らず知らずの内に神でないものを神として念頭に置くようになってしまい、人間として決してやってはならないことを神の名において数々しでかすということが繰り返されてきたのです。

超自然的で神的ながら邪悪でもある「悪魔」という概念も、そのような過ちのひとつです。自分たちの理解できない生き方をしている他部族を、彼らも自分たちと同じ、唯一絶対の神の子のはずなのに、この概念をもって「悪魔崇拝者」と決めつけ、誹謗中傷や暴力を与える。これは、上のような間違った神概念のせいで人間としての最も大切な感受性を麻痺させた人々によってなされる完全な間違いです。

そもそも「悪魔」もそれを念頭において考え行動する人間の前に現れた神の姿にすぎません。何故なら、人間の眼に映る万物が神の現れと考えなければ、神の絶対性や唯一性が毀損されることになってしまうからです。唯一の神は絶対的で万能であるが故に、神以外の何かの存在と対立し合っていると考えてはいけないのです。

「邪悪な」人々の崇拝する「悪魔」も、彼らにとっての神の顕現であり、我々が外部からとやかくいうことはできない。それは飽くまでも彼ら自身の問題である。この際我々が問題とすべきは、彼らと彼らの崇拝する「悪魔」に対する憎悪の抑制、コントロールである。それを今、我々の神が我々に命じている。彼らのことが念頭から完全に消えてしまうほどに、我々が、日々の営みの重大さや周囲のひとりひとりの重大さに没頭できるかどうか、神が今、我々の心の本当の意味での強さを試している。と、こう考えるのが正しいのです。

八百万の神も唯一の神の多様な現れに過ぎません。唯一の絶対的な神の顕現と考えられなければ、八百万の神は神としての資格を失ってしまいます。唯一の絶対的な存在者に対立する存在者が唯一の絶対的な存在者と同じカテゴリーに入るはずがないからです。彼等は唯一絶対的な存在者のそれぞれの部族に対する神としての現れであるからこそ唯一絶対の存在者と同じカテゴリに入り、神と呼称されうるのです。ということは、逆に、他部族の神を一切認めない一神教も、そのことによってそれ自身の意味を失ってしまうことになる。一神教と多神教は相克する時、互いに意味のないものになってしまうのです。

これはつまり「一即多、多即一」ということでしょう。これが神の最も重要な本性なのです。

「悪魔」なるものを自らの言動の中で取り扱う際も、神がその人の心に応じてその人の鏡像として現れてきて、我々の心を試しているものと考えるべきなのです。

この場合、人間にできるのは「我らを試みにひきたまはざれ。我らを悪より救いたまへ」と祈りつつ、自分の領域内で自ら善なる好意を行為を積み重ね続けていくことしかない。自分の人生に「悪魔」など無縁と思い切れるかどうか。これしか問題にしてはならない。

神を強く信じて生きる人間に限って、その敵の信じる神が「悪魔」として心から離れなくなってしまいがちです。「悪魔」を信じる敵を、自らがその敵となって執拗に攻撃するようになりがちなのです。そして、そうすることで自分の神を、逆に、そのような有限なものと対立するもの、従って、本来の絶対性や万能性、唯一性を失ったもの、に引き下げ、侮辱してしまうのです。その報いは、神を強く信じて行動しているはずの「正義」の人々自身が受けることになる。これが宗教戦争です。

例えば、あのオウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めた時に、オウム真理教は「悪魔」崇拝教として表象されるようになり、その内的な「誠実さ」によって雲散霧消もせず、最後には実際に「悪魔」として、我々一般人に牙を剥くことになったのです。

日本の奥の院は当時、オウム真理教に様々な策略を仕掛け、コントロール可能な集団に変えようとしていたようです。生長の家や創価学会、統一協会、北朝鮮の影が確認できるのはそのためでしょう。そんなある時、もうこれ以上はコントロールしようのない団体と認知せざるを得ない瞬間が訪れた。その瞬間に、奥の院によるオウム真理教殲滅の動きが始まったのです。

オウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めたジャーナリストや報道機関は、日本の奥の院のコントロール下にあったし、今でもそうだと考えるべきでしょう。彼らの動きそのもは、このような意図の元で奥の院の命令によって行われたに違いありません。その際に、宗教と見れば直ちに全て狂気と捉えてしまう、信仰生活とは無縁の、日本の一般人の習性も大いに利用された。

今、李氏朝鮮王家が江戸時代から日本社会に裏工作を仕掛けることで新たに作り上げ、そうすることで明治以降の日本を支配し、現在に至っている、そんな近代の天皇制が、悪魔崇拝組織として盛んに攻撃されています。これは、私の目から見たら、かのオウム真理教攻撃とほとんど同じことです。この攻撃の裏にも、近代天皇制をかつて近代日本の必然的な体制と認めた日本の奥の院もいるに違いありません。

ただ、この近代天皇制攻撃には、我々日本人の文化や伝統も攻撃対象として含みこまれてしまっている。この点が、オウム真理教攻撃とは決定的に異なっている。

一般人は、その意味を全く考えることができず、悪魔崇拝だとか性的幼児虐待、カニバリズム、生贄儀式などといった扇動的な言葉に乗せられて、ただヒステリックに騒いでいる。

これもオウム真理教の時と同じであり、ある意味ではオウム真理教の時より遥かに深刻です。この攻撃の結果として我々にもたらされる被害も、オウム真理教の時のものと比べ物にならないくらい大きなものになるはずです。近代天皇制はオウム真理教とは比べ物にならないくらいの重さをもっているからです。

安倍や麻生、昭和天皇、今上上皇などへの個人攻撃や、李氏朝鮮王家支配体制への攻撃は、そのこと自体、ある程度は避けられないことかもしれません。彼等がそれくらいのことを我々日本人にしてきたのはどうやら事実のようです。しかしながら、この攻撃は、同時にまた、こちら側にも極めて大きな被害をもたらすはずです。このことも十分に覚悟しなければならない。

本来なら、彼らのことを無視して自分たちの信仰生活を充実させ合い、その輪を大きくして行って、最後には、社会の上層部内で李氏朝鮮王家体制に対して複雑な思いを隠し抱いている有力者達もその輪に巻き込み、そうすることで彼等を、自ら身を引かざるを得なくなるような状況に静かに着実に追い込むというのが、最善の策です。が、彼等への攻撃の主体者も、その扇動に乗って騒いでいる一般人も、このようなことには全く思い至っていないようです。

また、このような被害の覚悟もそうですが、それ以上に、日本の文化伝統を乗っ取って日本の文化伝統に相応しくない悪行を重ね、日本の文化伝統を穢す彼等への批判が、勢い余って日本の文化伝統そのものへも向けられていることの危険性にも着目すべきです。彼等を攻撃している人はこの点も自覚できていない。二重三重に間違えているのです。

仮にこの人達の攻撃が実を結び、大きな被害を出しながらもその目的を達成した場合、この人達が彼等の代わりに、日本の文化伝統の消え失せた荒野で、我々を支配することになります。「我々が我々自身を統治するのだ」などと喧伝されるでしょうが、そんなものが幻であることは、しかも、よりによって、かの李氏朝鮮王家による近代天皇制が、世界中に、ある目的で普及させた幻想であることは、この400年間の人類の歴史が証明しています。こんな支配は、想像してみればすぐわかると思いますが、混乱以外の何物でもないでしょう。ちょっと想像力を働かしさえすれば、誰でも、この攻撃の異常性は理解できるはずなのです。




史上最悪の宗教戦争がこの現代日本で起こるのか

2019-08-17 10:11:00 | 日本論と宗教論

唯一の神は絶対的で万能です。ですから、実際は、所謂「宇宙の創造」すら行いません。神は宇宙としてもまた、人間の前に顕現しているにすぎないのです。そういった意味で、神は creation の本来の意味において宇宙を「産んだ」のです。

超自然的で神的ながら邪悪でもある「悪魔」も、それを認識して考え行動する人間の前に現れた神の姿にすぎません。何故なら、人間の眼に映る万物が神の表れと考えなければ、神の絶対性や万能性が毀損されることになってしまうからです。

つまり「一即多、多即一」ということです。これが神の本性なのです。

悪魔を見る時、神がその人の心に応じてその人の鏡像として現れてきていると考えるべきです。

人間にできるのは「我らを試みにひきたまはざれ。我らを悪より救いたまへ」と祈りつつ行動することしかないのです。

神を強く信じて生きる人間にとって、敵の信じる神は「悪魔」となりやすいものです。「悪魔」を信じる敵を、自らがその敵となって攻撃する時、自分の神をその行為によって、逆に、そのような有限なものと対立するもの、従って、本来の絶対性や万能性、唯一性を失ったもの、に引き下げ、侮辱することになってしまうと考えるべきです。その報いは神を強く信じて行動しているはずの「正義」の人々自身が受けることになる。これが宗教戦争の本質です。

例えば、あのオウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めた時に、オウム真理教は「悪魔」崇拝教になり、その内的な「誠実さ」によって雲散霧消もせず、最後には我々一般人に「悪魔」として牙を剥くことになったのです。

日本の奥の院はオウム真理教に様々な策略を仕掛け、コントロール可能な集団に変えようとしていたようです。生長の家や創価学会、統一協会、北朝鮮の影が確認できるのはそのためでしょう。ある時、コントロールの効かない団体と認知せざるを得ない瞬間が訪れた。その瞬間に、殲滅の動きが始まった。オウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めたジャーナリストや報道機関は、日本の奥の院のコントロール下にあったし、今でもそうだと考えるべきでしょう。彼らの動きそのもは、このようなものとして解釈すべきです。その際に、宗教と見れば全て狂気と捉えてしまう、信仰とは無縁の日本の一般人の習性も大いに利用されたのです。

今、李氏朝鮮王家が江戸時代から日本社会に裏工作を仕掛けることで新たに作り上げられ、明治以降の日本を支配し、現在に至っている天皇制が、悪魔崇拝組織として盛んに攻撃されています。これはかのオウム真理教攻撃とほとんど同じことです。攻撃の裏には日本の奥の院もいるに違いありません。

ただ、我々日本人の文化や伝統も攻撃対象として含みこんでしまっている点が決定的に異なっています。

一般人は、その意味を全く考えることができず、悪魔崇拝だとか幼児性的虐待、カニバリズム、生贄儀式などといった扇動的な言葉に乗せられてヒステリックに騒いでいる。

これもオウム真理教の時と同じであり、ある意味でオウム真理教の時より遥かに深刻です。この攻撃の結果として我々にもたらされる被害も、オウム真理教の時のものと比べ物にならないくらい大きなものになるはずです。

安倍や麻生、昭和天皇、今上上皇などへの個人攻撃や、李氏朝鮮王家支配体制への攻撃は、そのこと自体、避けられないながらも大きな被害をもたらすものと覚悟しなければならないのです。

本来なら、彼らのことを無視して自らの信仰生活を充実させ合い、その輪を大きくして行って、社会の上層部で李氏朝鮮王家体制に対して好ましく思っていない有力者達もその輪に巻き込み、そうすることで彼等を、自ら身を引かざるを得なくなるような状況に追い込むというのが、最善の策です。が、彼等への攻撃の主体者も、その扇動に乗って騒いでいる一般人も、このようなことには全く思い至っていないようです。

更には、このような被害の覚悟もそうですが、それ以上に、日本の文化伝統を乗っ取って日本の文化伝統に相応しくない行動をとり、日本の文化伝統を穢す彼等への批判が、日本の文化伝統へも向けられている点に含まれる危険性にも着目すべきです。彼等を攻撃している人はこの点も自覚できていない。二重三重に間違えているのです。

仮にこの人達の攻撃が実を結び、大きな被害を出しながらもその目的を達成した場合、この人達が彼等の代わりに、日本の文化伝統の消え失せた荒野で、我々を支配することになります。「我々が我々自身を統治する」などと言い張られるでしょうが、そんなものが幻であることは、この400年間の人類の歴史が証明しています。こんな支配は、想像してみればすぐわかると思いますが、混乱以外の何物でもないでしょう。




朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや

2019-04-07 16:58:05 | 日本論と宗教論
以下は読者の一人からのコメントに対する私の返信です。これを記事として上げさせていただきます。

>長いこと御無沙汰しておりました。ずいぶん失礼な者であったことを、お詫び申し上げます。

あれは何年前のことでしょうか?

あれから私は滋賀県に新しい家を買い、自分の予備校も場所を移しました。眼下に琵琶湖を見渡せる比叡山腹の森の中に暮らしていますよ。庭に薔薇など多くの花を育てています。庭の植物の様子を毎日観察していると琵琶湖岸にある登り口の地域とも全く違う気候になっていることが分かります。その変化の様を毎日味わっています。

二年前には、ふとしたきっかけで、アコースティックギターとボーカルに開眼し、この二年でかなり腕を上げました。今年に入ってからバンドメンバーを募ることに決め、先月からいくつかのユニットでバンド活動というものを体験し始めました。世の中にはすごい才能を持っていながら表に出ずに埋もれている人々が、しかも全く腐ることなく、人生と自分の才能を楽しんでいると知り、大いに感銘を受けているところです。

四年前から自分の塾、予備校で教え始めた何人かは今年、京大や堀川高校探求科を受験しました。結果は悲喜交々。ひとつの時代がまた過ぎて行きました。

>この記事にあるページですが、削除されておりました。残念。

阿久悠さんを「いきものがかり」の水野君が再発掘して教えてくれています。我々が子供の時に活躍していた大人のひとりがこんなメッセージを残していてくれたんですね。以下はその歌詞です。

「どこから来たのか どこへ行くのか
ぼくは一体誰か
何が望みで 何が夢か
どうすることがいいのか

ある日あの時 若者たちは
そうしたことに気づいて
おさない胸に やきつく景色
求めて ひとりで さすらう

時代は常に姿を変えて
若い心を試す
何が恵みで 何が罪か
このままいてもいいのか

ある日ある時 若者たちは
答をさがしあぐねて
心に汗を書くことだけが
青春なんだと信じる

すべてを愛せよ 生きて行くなら
胸の扉を開き
からだを傷つけ 心痛め
それでも誰か愛せよ

ある日ある時 若者たちは
ただそれだけを知らさせて
心のうちの迷いを捨てて
忘れた言葉をつぶやく

愛せよ 愛せよ すべて愛せよ
人を 自然を 時代(とき)を
きみよ 愛せよ きみよ 愛せ
愛せよ 愛せ 愛せよ

愛せよ 愛せよ すべて愛せよ
人を 自然を 時代(とき)を
きみよ 愛せよ きみよ 愛せ
愛せよ 愛せ 愛せよ

愛せよ 愛せ 愛せよ」

嶋内さんなら容易に理解し、反応するのではないでしょうか。「何が恵みで何が罪か どうすることがいいのか 心の汗をかき続けるしか生きる道はない」。グッとくるメッセージです。

阿久悠さんの作詞では、他に「時代おくれ」も好きになりました。若い時は全く何も分からなかったことが分かるようになってきた。

>このたび本を出版しました。この頃、無料で出版することが出来るのですね。世の中(ニーズに合わせて)どんどん変化していきますね。よろしければ、読んでみてください(全部立ち読み可能になっています)。

読んでみます。

>先日籠神社の海部宮司にお便りすることがありました。ところが、彼はすでに隠居の身で、誰ともお会いにならないそうです。どうやら手紙も渡されていないようです。

籠神社と真名井神社にはついこの間私も久しぶりに行ってきました。真名井神社は伊勢神宮内宮風の全く違う神社に変貌していました。大きなお金のやりとりと重大な申し合わせがあったことを十分に知らしめる規模の変貌です。神社とその背後の社会は紛れもなく今も生きていますね。

>飛鷹さんに高い評価を戴いたかぐや姫の書ですが、今一度原文(どれがそれかはまだはっきり言えないかもしれません)を読んで書き直しました。やはり原文を読むことは大事ですね。ありがとうございます。

あれから似たような竹取物語解釈を数多く読みました。五年前の「陰謀論」の多くが今では陰謀論ではなくなってきています。私がこのブログ内で書いていることが「陰謀論」の現時点での最前線でしょう。

>今後ともよろしくお願いします。

嶋内さんの執筆活動に道が大きく開かれますように。

『愛せよ』

2018-12-26 13:45:14 | 日本論と宗教論
滅多にない名曲です。死者の声のように心にグッと入ってきます。

https://youtu.be/moFLHBcMNQU

詳説 : 悪魔崇拝の起源

2018-11-07 19:28:16 | 日本論と宗教論
人の心に善と悪の両方の要素があると、我々人類一般と同じように考える氏族があったとします。この氏族の神はこの氏族の人々に善の心を持って生活することを掟している。この掟に逆らって悪の心を持って行動することが重なり、そのような行動が社会習慣化して決して見過ごせないような状態になった時、そのような社会習慣に染まった者達にのみ自然法則に従った災難が齎されることになる。この時、この氏族の人々の意識の中では、彼等の神が怒り、制裁が加えられたと意識される。

このようなことを過去の記憶としていくつか持っていた場合、現在このようなタイプの滅びの予想される集団に対して、ある義人が、同族としての哀れみと怒りの混ざった感情から、この集団に「このままでは神の怒りが来るぞ」と警告を発し、この集団がその警告を受け入れたものとします。その時、次のようなやりとりが両者の間に行われたものと考えられます。

「本当に全員の心から悪の心が取り去られたのか?本当は残っているのに、外見上取り去ったふりをしているだけではないか?『警告を了承した。反省している』と言っただけでまた同じことを繰り返した人が過去にもいたぞ」。

「確かにその通りです。ただ、悪に染まった私たちも、家族や恋人など愛する者に対する感情を、善の種としてこの心に宿しています。自分達が悪に染まったことをこの心に思い知らせ、反省させ、痛みを刻み込まなければなりません。そうすればもう二度と、悪に染まることがなくなることでしょう。ここに、私達の身内ながら悪に染まらず皆から愛されている者がいます。この者を自ら失いましょう。そうすることで、この心に痛みを与え、二度と過ちを繰り返さないようにします。これを、私達の改心の証として神が受け入れてくれますように」。

このような申し出があれば、この申し出を受け入れたのが我々現代日本人だったら、「分かりました。その言葉で十分でしょう。神も分かってくださると思います。実行するには及びません」などと言って彼等を赦すことでしょう。

しかし、このような選択が認められるということは、同時に、それとは全く逆の選択も認められなければいけないことを意味しています。この場合のこの人の発言は「『神が赦すことだろう』と発言する越権行為など、私にはとても犯せません。私にもあなた方の同族としてあなた方の愛する者への哀れみの気持ちがありますが、今はどうしようもないと思います。私達もあなた方と痛みを分かち合います」といった感じになるでしょうか?

神への生贄は、このようにして出てきたものと考えられます。このような意味での生贄を要求する神は、それだけで悪魔と断定するわけにはいきません。実際、イエスの崇拝する神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イサクにたった一人の愛息ヤコブを生贄として捧げることを要求したと聖書に明記してあります。このことをもって、イエスの神を悪魔と決めつけることはできないでしょう。

さて、神に生贄を捧げた時に、心の痛みを大いに感じ、心の底から改心する人々。その間に、生贄の苦しむ表情と血の色を密かに快楽の種にする者達がいたとします。友人の不幸を心の底で喜んでしまっている自分を自覚して愕然とした経験のある人は少なくないと思いますが、そのような感情のもっと程度の激しくなったような病的な感情を抱く者達が、彼らの間に紛れ込んでいたとします。この者達は、この部族内に「神への生贄」と称して生贄の習慣が定着することを欲したことでしょう。「そんなことを望むのは良くない」と言ってそのような欲望は当然押しとどめられる。そこで、自分たちだけで密かに集まって、陰でこの習慣を定着させる。こういうこともあったでしょう。

こんな彼等が習慣として生贄を捧げ続ける時、彼等の神は、彼等の行いによって、彼等の意識の中で、悪魔へとその姿を変貌させられたのです。

これこそ悪魔崇拝の起源ではないでしょうか?

神と悪魔とは同源なのではないでしょうか?

そう言えば、聖書の中に、神とサタンが互いに「我々」と言い合いながら話し合いを持ち、義人ヨブの信仰の強さを確かめるためにヨブに試練を与えたいというサタンの提案を神が承認する、そんな場面が描写されています。即ち、悪魔の活動も、その根底に神の承認があるということになります。これは、神と悪魔が同源であることを明確に表わしていると私は考えます。

ところで、悪魔崇拝の対象として指摘されることの多い神のひとつがバール神です。バール神は牛頭の悪魔でヤハウェの敵と考えられている。このバール神はイスラエルの近隣部族である「フェニキア」人即ちカナン人の神で、彼等の影響がイスラエルにも断続的に及び続けていたのだなどと説明される。ところが、エジプトやシナイ山麓にいた時にイスラエルの近隣に「フェニキア」人がいたとは現在の常識ではとても考えられない。イスラエルの近隣に「フェニキア」人がいたのは、イスラエルがエジプトに身を寄せる前と、出エジプト後の長期にわたる放浪の果てにカナンの土地に定着した、その後の話だからです。それなのに、イスラエルによるバール神崇拝への転落の場面は、彼等がシナイ山麓に流浪の民として漂白していた時に初めて生じたものとして聖書には記述されているのです。このことは私も若い時から、何だか変だなあと思っていたことです。ですから、後に、

「シナイ山も含む『フェニキア』人の故地であるアラビア半島南西部で展開したイスラエル人の物語を、後に聖書執筆者が、現在カナンの土地と称されている地域で展開したより大規模な話であるかのように捏造した。本当のカナンは、従って本当のエルサレムも、アラビア半島南西部である」

という話を聞いた時も、現在のイスラエルからイスラエルの古い遺跡が全く出ないらしいことも考慮に入れつつ、これも強ち嘘とは言えないなあと感じてはいたわけです。

それはさておき、「バール」とは実は「バーエル」「ベーエル」のことで、「ベーという名の神」という意味であり、「ヤハウェ」は「ヤーウェー」や「ヤーベー」のことで、これまた「ベーという名の神」という意味になるという話があります。このことを考慮に入れれば、イスラエルの心正しき人々によって「主」として崇められていた「ヤハウェ」が、イスラエルの人々の間に何らかの経緯を経て紛れ込んでいた悪魔崇拝者達の悪しき崇拝行為によって彼等の意識の中で悪魔として変貌した。その場合の神のことを「ヤー」ではなく「エル」と呼ぶ。このようにして「バール」という言葉が生まれた。このように考えることが妥当である、ということになってきます。悪魔とは神が悪魔崇拝者の意識の中で悪魔に変貌したものであり、悪魔もその根源は神と同一である、という上記の私の説を、この二つの言葉もよく示していると思うのです。

ということは、悪魔崇拝の責任を悪魔のせいには決してできない。責任は飽くまでも悪魔崇拝者自身に負わせるべきで、排除するなら悪魔ではなく、悪魔崇拝者の方でなければならない。悪魔崇拝者の行為によって悪魔崇拝者の中で悪魔に変貌した神を、悪魔崇拝者を滅ぼすことによって本来の姿に戻すということでなければならない。こういう結論になってきます。

「生贄の苦しむ表情と血の色を快感の種にするような心を彼等に与えた存在者がいる。これこそ実体としての悪魔だ。責任は飽くまでも悪魔に負わせるべきだ」と考える人がいるでしょうが、こうなると、人間の側の責任追及の手が緩むことになってしまいます。それに、上に明確に示したように悪魔はその実体は神なのですから、悪魔に責任を取らせるということは同時に、神に責任を取らせるということも意味することになります。

現代の無神論の根底には実は、このことが潜んでいたりするのです。現代人が無神論に陥っても、神は勿論、悪魔が存在しなくなるわけではありません。現代の状況は、悪魔崇拝者の陰謀にこの上ない程の自由を与えてしまっているに過ぎず、悪魔崇拝者以外の普通の人々にとって極めて危険な状況になっているとも言えるのです。更には、無神論の広がりそのものが、悪魔崇拝者の陰謀であった可能性大なのです。

以上は、イスラエルの神を中心にした観点から展開した論です。この論をイスラエルの神中心ではなく、アブラハムと改名してイスラエルの始祖となるアブラムの出身母体であるシューメールの神を中心とした観点から展開することもできます。

あるサイトの記事に次のような記述があります。

以下引用
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

その流れは、紀元前3000年の「メソポタミア文明」からはじまり、そこの「シュメール人の神」はやがてこの地方に入ってきた「アラブ系民族・セム族」と融合し「セム族の神」となります。そのセム族の神は、本体としては殆ど変わってはいなかったのですが、部族ごとに「装い」が変わり、名前も変わったりしていきます。
 その中で西方のセム族である「ウガリトやフェニキア」の「バール」が良く知られています。
 ところが、パレスチナ・シリア方面で勢いを広げていたその「バール」に対抗するような形で、同じくパレスチナ地方に進出してきたヘブライ部族は「ヤハウェ」という神を提唱してきたのです。ただし、その本体は「バール」と変わらず、ヤハウェもバールと同じように「雲に乗って天を駆け(詩編68.4)、その力は雷鳴によってあらわれる(詩編29)」とされます。同じセム族同士なのですから、名前を変えたところでその本体は殆ど変わっていなくて全然不思議ではありません。かれらにとって「神」とはそうしたものだったからです。これは中東から西洋にかけての原初の神の共通した姿ともいえ、有名なギリシャの主神「ゼウス」もそうなります。そして働きも結局は「豊穣のめぐみ」にありました。
 他方、ヘブライ民族の場合はもともとの地域が貧しかったものですから、そのまま「豊穣の約束」というわけにはいかず「豊かな土地を与える(これがカナンの地といわれるパレスチナ地方でした)」という形となって「装い」が変えられていました。さらに、このヤハウェは「自分の超越性」を示すために「他の神のように気安く名前を呼ぶな」という命令を下したため、この神は「名前が秘される」ことになっていきます。
 この神のことを語るのが「ヘブライ神話」であり、それがさらに後代になって「ユダヤ教」という宗教体系となっていくことになります。ヘブライ神話の段階から「ユダヤ教」という宗教体系になっていくそのキッカケとなるのは、ユダヤ人がバビロニアに反抗したことから国が滅ぼされてバビロニアに連行されてしまったことにありました。その後、ユダヤ人は「ペルシャ」に解放されて故郷に戻り、自分たちの不幸は「ヤハウェに対する不信仰」にあったとして、従来のヘブライ神話を体系づけて宗教的体系に再形成したのでした。これを従来の神話に基づく祭儀宗教から区別して「ユダヤ教」と呼んでいるわけです。
 他方、ユダヤ人はペルシャに解放されたとはいっても、社会的にはペルシャに支配されることになったものですから、必然的にペルシャの国教であった「ゾロアスター教」の影響を強く受け、やがて「ゾロアスター的ユダヤ教」が形成されていきました。これが実は「パリサイ派」と言われるユダヤ教内の新興勢力でした。彼らは「天使」とか「復活」とか「最後の審判」とかゾロアスター的な考え方を持っていましたが、これは伝統的なユダヤ教には全く存在しないものでした。
 そして、このパリサイ派からエッセネ派が生じ、このエッセネ派から「イエス」が出たのです。このイエスの段階で「ヤハウェ」は大きくその姿を変えられていきます。つまり、現実的な土地の付与という形での救済に変えて、「神の国への再生」といった方向に向きが変えられていったからです。これは、そうした思想内容を持つ先行の宗教「ゾロアスター教」に根源をもっていると考えられます。
 ただし、イエスは、唯一神、創造の神、世界や人間の本性についての理解、あるいは戒律といった考えなどの基本の教えについてはそのままユダヤ教を引き継いでいますので、イエス本人としてみれば「新たな宗教の提唱」とは思ってはおらず、要するに「神の装いを変えた」といったところだったでしょう。
 すなわち、ユダヤ教の場面での神が「豊かな土地の恵みを与えるが、戒律を守れ」と命令し見張っている神、と形容できるのに対して、イエスはその「恵み」の内容を「豊かな土地の約束」から「平安の神の国の約束」へと変えて、「見張っている神」から「見守っている神」へと理解を変えたと言い得ます。

引用以上
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この記事はかなり正確なことを語っていると私は感じます。イスラエルの神も、イエスの神も、イスラエルの神だから、或いは、イエスの神だから、至高の存在である。その他の神は全て悪魔である、という考えは、盛んに語られる考えですが、実は全くの見当違いなのです。

イスラエルが出てくる以前に至高の神とそれを崇拝する神官団を抱えたシュメールの根元宗教が存在し、それがその装いと名称以外のいかなるものも全く変えないまま、セム系のそれぞれの部族の神となっていった。それぞれの部族がそれぞれの部族の神を崇拝し、そのことを自らのアイデンティティ形成の不可欠の要素とした後でも、それぞれの部族の神官団の中枢と根元宗教との関わりが切れることはなく、根元宗教の密かな干渉によってある部族宗教が大きく改革されることすらあった。その典型例がアブラハムがメルキセデクとの主従関係の中で自らの宗教として確立した宗教や、ゾロアスター教のマギにその誕生を予言され祝福された、更には、洗礼という極めてゾロアスター教的な儀式でもって師匠のヨハネから祝福されたイエスの宗教であった。

私はこのように考えていますが、上の記事はこの私の考えとほぼ一致した考えを提示しています。この考え方からすれば、シュメールの神も、カナン人の神も、ゾロアスター教の神も、そして恐らくはドルイド教の神も、イスラエルやイエスの神とは異なるから悪魔であると言われるようなそんな神ではないということになります。悪魔崇拝の起源は所謂「異教」ということにあるのではなく、全く別のところにあると考えるべきなのです。そして、その起源については、私がこの記事の冒頭で詳説しました。

その上、我が祖国日本は、シュメールも、カナン人も、ゾロアスター教の人々も、そして恐らくはドルイド教の人々も、イスラエル人やイエスメシア教の人々も、全てがそれぞれの時期にこの列島に入ってきて、棲み分けたり、共同したり、時には互いに争いあったりして、そうやって築き上げた国であり、その過程で一貫してユーラシア諸国の歴史的な流れを裏からコントロールし続け、そうすることで恐らくは、悪魔崇拝者の各国における暗躍をその都度駆除し続けてきた、そんな国だったというのが、私の認識になっています。つまり、異教の神は悪魔であるという、聖書の読み込みの浅い、狭量な考え方からすれば、まさに悪魔の国となってしまう訳で、そうである以上、そのような考えの狭量さ、聖書読解としての底の浅さを指摘せざるを得ないと、そのように考える訳です。

悪魔崇拝の起源は異教ということにあるのではなく、それとは全く別のところにある。悪魔崇拝の目印は生贄ではなく、目的をはき違えた上で社会習慣化した生贄である。これが私がこの記事の冒頭で明らかにしたことでした。

例えば、ユダヤ教の中に紛れ込んだ悪魔崇拝者達によってこのような意味での生贄とされたのがあのイエスでした。

「イエスの死によって全人類の罪が贖われた」と考えることで生まれたのがキリスト教ですが、これを密かに悪魔崇拝の儀式とみなしていたのがパリサイ派に紛れていた悪魔崇拝者達でした。

このパリサイ派の一員でイエスの死後イエスの弟子達を大いに迫害した者達の一人だったのがサウロです。

このサウロが「復活したイエスに会い、改心するよう導かれた。イエスの命によってパウロと改名した」と言ってキリスト教団に加わり、主にギリシャ語を喋る人々の支持を集め、アンティオキアという名の町で発展させたのが、ヨーロッパキリスト教の起源でした。

従って、ヨーロッパのキリスト教は、その始まりの瞬間から、本質的に悪魔崇拝だった可能性が高いのです。

それに対して、このパウロに懐疑の目を向け続け、アンティオキア教会とは一線を画し、イスラエルにおいて良きユダヤ人として生活する人々も、ごく少数ながら、存在していました。

彼等はイエスの死を悪魔崇拝の儀式として捉える人がいたことなど思いもよらず、イエスの死を自分達の責任として捉え、イエスの眼差しの記憶と共に、心の底から改心した人々だったと考えられます。

この人々のことを、ギリシャ語でキリスト教徒と呼ぶのは最早、不適切です。私はイエスメシア教徒と呼ぶべきだと考えます。そして、彼等の自称もそうだった可能性が高い。何故なら、彼等の子孫と目される人々が諸般の事情からやむなく中東の地を離れ、東に向かい、長い旅路の果てに列島に辿り着いた時、彼等が本拠地として定着した土地のひとつの地名が現在「うづまさ」(←エスマシャ←イエスメシア)という名称で残っているからです。

この「うづまさ」は「太秦」と漢字表記されています。「太秦」とは中国語で「秦」の大元、ローマ帝国やパルティア王国を意味しています。イエスの磔刑が行われたのはローマ帝国のユダヤ属州内であり、イエスメシヤ教徒が東方に向かう過程で一時期的に定着していたのがパルティア王国だった可能性があることを想起させる、そんな漢字表記となっている訳です。

この人達が、先にこの列島に入ってきていたイスラエル十氏族をはじめとするいくつかの部族と協力し合ってこの列島で定着させたのが神道であり、天皇です。

日本のこの神道や天皇も、現在では悪魔崇拝の人々に乗っ取られてしまっているものと考えられます。現在そんな神道や天皇を隠れた原因として生じる様々な事件の真相を、神道や天皇を悪魔崇拝と捉え切ることで明確に切り取り、その分かりやすさから多くの人の支持を集めている人がいます。その人の存在のことを私はつい二週間前に知り、その人の文章を読むことで、大きな刺激を受けました。天皇や神道、密教のことを世界全体の本当の支配主と捉え、アメリカの金融ハザール偽ユダヤがとかロスチャイルドがとかいった言論に終始する有名陰謀論者の欺瞞を暴いている点なんか、私と全く同じと感じました。神道や天皇を悪魔崇拝と捉え切った上での分析が驚くほどの緻密さと整合性をもって語られているのは明らかです。ということは、神道や天皇が現時点で悪魔崇拝になってしまっているのは明らかだということになります。この発見は、驚くべき大業績であると私は考えます。と同時に、この人の危うさに気づくことにもなったのです。

この人の主張をさらに推し進めると、必然的に、神道や天皇を、従って、日本のアイデンティティをなす伝統文化と一般に考えられ、私がクリスチャンとして、本当のキリスト教の所在の場所であることを見出した、そんな神道や天皇を、仏教などその他のものも全部ひっくるめて、根こそぎ滅ぼすという結論になるでしょう。

その後には、残された庶民や平民による新しい宗教と究極の民主政を、となることでしょう。この新しい宗教と民主政こそ、私は大問題だと考えるのです。こんなものの実在性を信じ切ることが、私にはとてもできない。

神道や天皇を滅ぼすというのでは全然良くありません。現在神道や天皇を乗っ取っている者達の正体を暴き、その者達をこそ滅ぼして、神道や天皇の地位に本来の相応しい人々が復帰できるようにする。こう考えるのが最も正しい。私はこのように考えます。

そして、社会の各分野においてそのような人々が残っていない限り悪魔崇拝者たちが自力でこの日本国を維持することは原理的に不可能である。悪魔崇拝者の本質に創造ということはなく、創造を本質とする本来の相応しい人々の存在に依存することしかできない、という洞察からすると、社会の各分野においてそのような人々が今でも確実に残っていて、彼等がある時期からこの日本発で社会大改革の動きを始めた。そうであるが故のインターネットの普及と裏情報の一般への大量流出という現在の状況が存在する。と、このように断言できるのです。

以上のことを念頭に置いた上で、例えば『End of Days』というハリウッド映画を観て下さい。あの悪名高きハリウッドにも確実に、この世の中を悪魔崇拝者から解放しようと奮闘する人がいることが、よく伝わってくる映画になっていますよ。今のこの状況の中で今自分が何をどうすべきか、このこともはっきりと描写されています。

悪魔崇拝の起源

2018-11-03 20:43:59 | 日本論と宗教論
人の心に善と悪の両方の要素があると、我々を含めた人類一般と同じように考える氏族があったとします。この氏族の神はこの氏族の人々に善の心を持って生活することを掟している。この掟に逆らって悪の心を持って行動した時、そのような行動が社会習慣化して決して見過ごせない状態になった時、そのような社会習慣に染まった者達にのみ自然法則に従った滅びが齎される。この時、この氏族の人々の意識の中では、彼等の神が怒り、制裁を加えたと意識される。

このようなことを過去の記憶としていくつか持った場合、このようなタイプの滅びの予想される集団に対して、ある義人が、同族としての哀れみと怒りの混ざった感情から、この集団に「このままでは神の怒りが来るぞ」と警告を発し、この集団がその警告を受け入れたものとします。

「本当に全員の心から悪の心が取り去られたのか?本当は残っているのに、外見上取り去ったふりをしているだけではないか?『警告を了承した。反省している』と言っただけでまた同じことを繰り返した人々が過去にも何人かいたぞ」。

「確かにその通りです。悪に染まった私たちにも家族や恋人など愛する者に対する感情を善の種としてこの心に宿しています。悪に染まったことをこの心に思い知らせ反省させ、もう二度と悪に染まらない為に、この心に痛みを与えなければいけません。ここに、私達の中にいながら悪に染まらず皆から愛されている者がいます。この者を自ら失うことで、この心に痛みを与え、二度と過ちを繰り返さないようにします。これを、私達の改心の証として神が受け入れてくれますように」。

このような申し出があれば、この申し出を受け入れたのが我々現代日本人だったら、「分かりました。その言葉で十分でしょう。神も分かってくださると思います。実行するには及びません」などと言って彼等を赦すことでしょう。

しかし、このような選択が認められるということは、同時に、それとは全く逆の選択も認められなければいけないことを意味しています。この場合のこの人の発言は「『神が赦す』と発言する越権行為など、私にはとても犯せません。私にもあなた方の同族としてあなた方の愛する者への哀れみの気持ちがありますが、今はどうしようもありません。私達もあなた方と痛みを分かち合います」といった感じになるでしょうか?

神への生贄は、このようにして出てきたものと考えられます。このような意味での生贄を要求する神は、それだけで悪魔と断定するわけにはいきません。実際、イエスの崇拝する神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イサクにたった一人の愛息ヤコブを生贄として捧げることを要求しました。このことをもって、イエスの神を悪魔と決めつけることはできないでしょう。

神に生贄を捧げた時に、心の痛みを感じ、心の底から改心する人々の間に、生贄の苦しむ表情と血の色を密かに快感の種にする者達が紛れていたとします。友人の不幸を心の底で喜んでいる自分を自覚し愕然とした経験のある人は少なくないと思いますが、そのような感情のもっと程度の激しい感情を抱く者達がいたとします。この者達は、この部族内に「神への生贄」と称して生贄の習慣が定着することを欲したことでしょう。「そんなことを望むのは良くない」と言ってそのような欲望が押しとどめられた時に、自分たちだけで密かに集まって、陰でこの習慣を定着させることもあったでしょう。

こんな彼等が習慣として生贄を捧げ続ける時、彼等の神は、彼等の行いによって、悪魔へとその姿を変貌させられたのです。

これこそ悪魔崇拝の起源ではないでしょうか?

生贄の苦しむ表情と血の色を快感の種にするような心を彼等に与えた存在者を想定した場合、これこそ実体としての悪魔でしょう。

ユダヤ教の中に紛れ込んだ悪魔崇拝者達によってこのような意味での生贄とされたのがあのイエスでした。イエスの死によって全人類の罪が贖われたと考えることで生まれたのがキリスト教ですが、これを悪魔崇拝の儀式とみなしたのがパリサイ派でした。このパリサイ派の一員でイエスの死後イエスの弟子達を大いに迫害した者達の一人だったのがサウロです。このサウロが「復活したイエスに会い、改心するよう導かれた。パウロと改名した」と言ってキリスト教団に加わり、主にギリシャ語を喋る人々の支持を集め、アンティオキアという名の町で発展させたのが、ヨーロッパキリスト教の起源です。ヨーロッパのキリスト教はその始まりの瞬間から、本質的に悪魔崇拝だった可能性が高いのです。

それに対して、このパウロに懐疑の目を向け続け、アンティオキア教会とは一線を画し、イスラエルにおいて良きユダヤ人として生活する人々も、ごく少数ながら、存在していました。彼等はイエスの死を悪魔崇拝の儀式として捉える人がいたことなど思いもよらず、イエスの死を自分たちの責任として捉え、イエスの眼差しの記憶と共に、心の底から改心した人々だったと考えられます。この人々のことをギリシャ語でキリスト教徒と呼ぶのは最早、不適切です。私はイエスメシア教徒と呼ぶべきだと考えます。そして、彼等の自称もそうだった可能性が高い。何故なら、彼等の子孫と目される人々が諸般の事情からやむなく中東の地を離れ、東に向かい、長い旅路の果てに列島に辿り着いた時、彼等が本拠地として定着した土地のひとつの地名が現在「うづまさ」(←エスマシャ←イエスメシア)という名称で残っているからです。この「うづまさ」は「太秦」と漢字表記されています。「太秦」とは中国語で「秦」の大元、ローマ帝国やパルティア王国を意味しています。

この人達が先にこの列島に入ってきていたイスラエル十氏族をはじめとするいくつかの部族と協力し合ってこの列島で定着させたのが神道であり、天皇です。

神道や天皇も、現在では悪魔崇拝の人々に乗っ取られてしまっているものと考えられます。現在そんな神道や天皇を隠れた原因として生じる様々な事件の真相を、神道や天皇を悪魔崇拝と捉え切ることで明確に切り取り、その分かりやすさから多くの人の支持を集めている人がいます。その人の存在のことを私はつい二週間前に知り、その人の文章を読むことで、大きな刺激を受けました。天皇や神道、密教のことを世界全体の本当の支配主と捉え、アメリカの金融ハザール偽ユダヤがとかロスチャイルドがとかいった言論に終始する有名陰謀論者の欺瞞を暴いている点なんか、私と全く同じと感じました。と同時に、この人の危うさに気づくことにもなりました。

この人の主張をさらに推し進めると、必然的に、神道や天皇を、従って、日本のアイデンティティをなす伝統文化と一般に考えられ、私がクリスチャンとして、本当のキリスト教の所在の場所であることを見出した、そんな神道や天皇を、仏教などその他のものも全部ひっくるめて、根こそぎ滅ぼすという結論になるでしょう。その後には、残された庶民や平民による新しい宗教と究極の民主政をとなることでしょう。この新しい宗教と民主政こそ、私は大問題だと考えるのです。こんなものの実在性を信じ切ることが、私にはとてもできない。

神道や天皇を滅ぼすというのでは良くありません。現在神道や天皇を乗っ取っている者達の正体を暴き、その者達をこそ滅ぼして、神道や天皇の地位に本来の相応しい人々が復帰できるようにする。こう考えるのが最も正しい。私はこのように考えます。

隋唐時代の東アジアの再編成を裏からコントロールしていた者達

2018-10-16 10:49:27 | 日本論と宗教論
宇野皇女は河内の新羅系で、中大兄王は新羅武烈王たる金春秋の列島亡命後の名前です。列島で「中」と言われる一族は半島では「金」と言われていたのです。「中」とは宗像三女神の沖津姫、中津姫、辺津姫の内、中津姫と関係があります。金春秋が新羅で金庾信と共に善徳女王の元で金比曇の反乱を武力討伐した事件は、列島の歴史にある目的のためにそのまま転用されて、列島では大化の改新と称されています。

武烈王は列島亡命の際に盟友である大海人皇子の息子に譲位して文武王とし、この文武王も自分の役割を新羅で果たした後に列島に亡命してこの列島で文武天皇になっています。

大海人皇子は聖徳太子の末子で、尾張や金官伽耶から高句麗に移って高句麗で泉蓋蘇文として活動していた時に、新羅の金春秋や金庾信と図って、白村江の戦い以降の三韓統一から高句麗、百済残党による唐勢力牽制、統一新羅による唐勢力の半島からの駆逐、天武系(つまり蘇我系)や秦氏、百済王家、物部氏(百済王家との繋がりが伝統的に深い)の合同による列島統一、契丹による唐の滅亡といった、東アジアの青写真を描き、彼らとの協力体制の元で実行しました。列島で天智天皇より年上の弟として、天智天皇の娘たちを妃ととして受け入れつつ天智天皇の皇太子となり、天智天皇の偽装崩御の後に、唐勢力の列島介入故に生じた混乱を壬申の乱という装いをもたせながら沈静化して天皇に即位した、この一連の流れは、天智天皇との協力による唐勢力の半島や列島からの駆逐の過程として強烈に意識されていたのです。

藤原氏は唐から軍勢を率いて日本統治のために太宰府に入っていた百済人将軍郭務悰を讃岐秦氏が婚姻によって懐柔し、金庾信が背負っていた中臣鎌足の役割を密かに引き継がせることで生まれた家です。山科の百済系によって育てられた後で関東の中臣氏に保護されていた息子の不比等は後に持統天皇が中央に呼び戻します。神武天皇家から派生した春日氏のバックアップを付けた上で、天武天皇が唐の軍勢に北陸で殺害された後の、天武天皇によって描かれた青写真の継続を彼に補助させたのです。

桓武天皇家も、百済王教福の四人の息子に藤原四姉妹が嫁いで生まれた子供達の一人によって立てられた家です。

以上の過程の全てが、列島の秘密根源勢力によって計画され、背後からコントロールされていたのです。今後はこの流れをより詳細に調べていきます。

イギリスの皇太子と自称する人からの批判に応える

2018-10-05 08:33:20 | 日本論と宗教論
あるサイトで、私のコメントに対して、その人らしくない、幼稚ながらも激しい口調の、従ってその人間の触れて欲しくないことに私が触れたことを如実に表す、そんな罵倒を受けた。ソクラテスがその議論の果てに、ある政治家から受けた罵倒と同じような罵倒。同時にそのサイトにおける応答の投稿も禁ぜられた。禁ぜられた以上は、そこは人様のうちと同じであるから、こちらが紳士的に無言で受け入れなければいけないだろう。そこで、その罵倒に対する私の考えを、この場に記事として記しておきたい。

「エブス」は、このエブス達が現在に至るまでずっと勢力の中心に置いてきた東洋において使われてきた自称である。それに対して、「フェニキア」はギリシア人による他称で、この「フェニキア」が社会の陰に隠れたヨーロッパ世界では彼らの自称が忘れ去られてしまった(地名には残っている。スペイン沖の地中海に浮かぶエベサ島がそれ。クレジットカードのVISAもその名残でしょう)。「フェニキア」或いは「エブス」と称される人達は、地中海から黒海、紅海、アラビア海、インド洋、南シナ海、東シナ海、黄海、日本海という極めて広い範囲を勢力圏にした人達のことなのである。船の舳先に二つの目を印として描き、半島の水辺や、干拓事業を施した河川の河口部に集落を造る習慣のあった人たちのことである。

以上のことから、「エブス」が海洋民族であり、海の道の主役であったことは明らかである。「フェニキアとは全く別の農耕民族」とか「中東から陸路でシベリアに移動する方が、海路で東洋まで来て東アジアで陸に上がるのよりも合理的である」とか、「ハザールの起源は西突厥と学者の見解が固まっている」とかいった発言は、エブスのことをヨーロッパ人であると勘違いした上に、西突厥の起源が匈奴(フンナ)で、そのまた起源があの『魏志倭人伝』の狗奴(クナ)である可能性大であることに全く配慮が及んでいない、恐ろしいくらいの無知の表白となっている。

このエブス達は、世界各地において、農耕民を支配して文明圏を運営する支配層の陰のスポンサーとなってきた。専ら海上交易に当たる自分たちと同じように、専ら陸上交易に当たる部族(イスラエルやアラム、ソグド)とも協力関係にあった(ソロモン王のタルシッシ船や遊牧騎馬民族の列島への移動など、この協力関係の存在を証明する事象は枚挙にいとまがない)。

世界全体が氷期に入って遊牧民が南下し、世界各地の文明圏に波乱をもたらしてきたことは、よく言われることである。しかしそれは、物事の一面しか見ていない非常に偏った発言なのである。世界全体が温暖化して、元々人が住めなかったユーラシア北部に人が広がっていく過程が、12000年前から5000年前までに、北部遊牧民やシルクロードの発生以前にあったこと。土地神を祭って土地に執着する傾向が強く、移住という現象を起こしにくい農耕民が、陸路を辿って移住し、馬にまたがって遊牧民となったと考えるよりも、土地神に縛られず、自由に世界各地を移動して回ることを本分としてきたエブス達が、気候変動によって新しく拓けた地平線に、乗り物という点で船舶と共通している馬やラクダを新しい乗り物にして(砂漠の船という言い方はあっても海のラクダという言い方はない)乗り出し、そこで遊牧民になったと考えたり、更には、各地の文明圏でエブスと協力し合いながら陸上交易に当たっていた部族が、新しく拓けた北部の地平線を利用して文明圏と文明圏とを繋ぐ新しい交易路を開拓したと考えたりする方が、明らかに合理的であること。これらのことに対する視点が全く欠けている。

私はこれらの視点を、鹿島昇、松重楊江、八切止夫、喜田貞吉、柳田國男、小林やす子、落合莞爾、加治木義治をはじめとする多くの著者の書物を読む過程で、これら互いに異なる著述家達の隠れた共通点として獲得した。決して勝手な想像で手に入れたものではない。彼等が一部の派閥に偏っていないことは明らかで、従って、何者かによる意図的なフェイクに引っかかっている可能性も低いのである。

上に「恐ろしいくらいの無知の表白」と述べたが、その人の発言で無知の表白の極みとなっているのが、「ユダヤは弱小農耕民族に過ぎない」や「イスラエル?が交易に当たっていたことはない」である。ヘブルがイスラエルとなり、イスラエルの一部が「イェフダ(ユダヤ)」と言われるようになった歴史的過程のことを全く理解していないものと思われる。ソロモン王のタルシッシ船のことも知らなかったようである。

「海洋民族が陸上に上がり遊牧民化するという主張が本当なら、あの海洋国家イギリスがそうならなかったのは何故か」も、私が紀元前6000年くらいの話として語っていることを、紀元後1500年以降の歴史に馴染んだ思考で無理やり理解しようとして思考回路がショートしたことを示している。エブスが遊牧民化した時にはそこに先行遊牧民がいなかった。イギリスの時はいた。たかがそれだけのことではないか?

この人は、海洋勢力と陸上勢力の相剋という基本概念を近現代史から取り出して、それに基づいて、現在の世界情勢を、海上勢力の凋落過程として具に描いている人である。基本概念がシンプルであるが故に分かりやすく、多くの知的な人を吸引して、非常に有益な詳細情報を提供している。それで私も読者の一人となり、時々コメントも入れてきた。基本概念が間違えていても、それによって多くの細かい情報を提供してくれる点では、関裕二の一連の著作とよく似ているとも言える。

このタイプの著述家は、いつか必ず、その基本概念の矛盾からの破綻を迎えるはずである。私のコメントはそこを婉曲的に衝いたものだった。かつて、リチャード・コシミズ氏やマヨさんの時に、あからさまな指摘ではよくないことを経験していたので、敢えて婉曲的なものに留めていた。彼はその頭脳の鋭敏さからそれが自分の理論に対する根本的な批判になっていることを感じ取ったようだ。だから「全体的な印象から言うと」の表現になったのだろう。そのような批判を受けた時にどのように応えるかにその品性が出るものだが、彼の場合は残念ながら「あなたは頭のおかしい人」という発言になってしまっている。私の批判が本当に頭のおかしい人からの批判であると感じたなら、私がこのブログでそのような場面に遭遇した時のように完全無視を貫けばいいのである。無視しきれなかったのは何故か?それは明らかだから言わないでおく。但し、私自身の場合、実は、自分に対して常に、頭がおかしいのではないかとの疑念を投げ掛ける習慣があることは、告白しておきたい。この人も本当はこのような習慣を持った方がいいと思う。

「狂信的なキリスト教徒」といった類のことも述べていた。私がそうでないことは、このブログを読んでくださっている方々には十分分かっていただけるだろう。


よくある話 その2

2018-10-03 18:59:57 | 日本論と宗教論
何年か前、石油本位制によって世界の経済を牛耳っていたアメリカの「金融ハザール悪魔崇拝偽ユダヤ」の没落の本格化が報告され始めた頃、実際にガソリン価格が大幅に安くなり、その報告を実感を持って受け留めたことがあった。石油利権の新しい主はロシアと中国ということだった。ところが、暫くすると、ガソリンの価格が上がり始め、あっという間に元の水準に戻ってしまった。

このことは、覇権の主が入れ替わっても、この世界の抱えている問題そのものが払拭されるわけでない事をよく示している。

私が伝えようとしたのはまさにこのようなことなのである。

支配者の立場に立つと、国の根本に関わる問題に直面した際に、国の全体に対する配慮が大幅に増大し、その分だけ我々国民一人ひとりの生活に対する配慮が減少していく(「あなた達国民」とも「彼ら国民」とも言っていない)。支配者の位置に誰が立ってもこれは同じことなのだ。その上、新しい支配者は、古い支配者の残像を隠れ蓑として利用し、古い支配者以上に冷淡になって躊躇なく大鉈を振るう傾向がある。伝えられる情報が正しければ、今はまさにそのような危険な時代の直前と解釈できる。

私はこのように述べたのである。

⑴ビサの神を信奉し、ヨーロッパではフェニキア人、東洋ではエブスと称された人々とイスラエルやユダヤとの間に何らかの浅からぬ関係があったこと(例えばソロモン王によるタルシッシ船交易にはエブスとハッティが大きく関わっている)。

⑵極東で陸に上がり遊牧民化したエブスの中からハザールが出てきて中東でユダヤ教に改宗し、ユダヤ人となったことがほぼ事実として確認できること。

⑶シルクロードのオアシス都市間の行程が何れも六日となっていて、安息日を設けるイスラエルのシルクロード交易に於ける影響の大きさをよく示していることから、イスラエルも、というよりイスラエルだからこそ、更にはイスラエルだけが、陸上交易に従事できたと考えられること(アケメネス朝ペルシャ社会に於けるイスラエル人の影響力の大きさを想起されたし。イスラエルはと古くからカナンの土地に縛られてはいなかった)。

⑷イスラエルから「十分の一の捧げもの」というイスラエルにとっては「主」に対してしかしてはいけないはずの行為がメルキツェデク という人物に何故か行われたことが聖書中に書いてあることから、イスラエルという人工的な民族が天の神ではなく地上のある特定の人間達の強力な指導の元で次第に形成されていったことが確実に認識できること。

今ここで述べた四つのことは、世界を太古から一貫して支配し続けているあるひとつの部族の存在を私が確信する根拠であり、その部族の正体を幾分かでも認識するための重要な手掛かりとなっているものである。皆さんにも知っておきたいと考え、ここに記した次第である。

よくある話

2018-10-03 05:11:57 | 日本論と宗教論
「アメリカの金融ハザール悪魔崇拝偽ユダヤが滅びる」という話だが、彼らが滅びても、彼らが覇権の主として取り組んでいた問題そのものは残る。彼らが計画として持っていることが盛んに喧伝されたが故に彼らが我々から憎まれることになった、そんな事案を、彼らが滅びた後も、彼らを滅ぼした者達が責任を持って実行しなければならない。このことに何の変わりもない。

義務とはいえ、新体制が自らそれを実行する姿が公に晒されれば、多くの人がショックと失望を受け、結果として、新体制の存続そのものが怪しくなってしまう。このことは、少し知恵の回る者には直ぐに分かることである。そこで、新体制が一部の人材を集めて旧体制残党の仮面を被せ、密かに指令を出して、突発的なテロを装いながらこの計画を実行させる。驚愕し、怒りに震えながら彼らと戦い、彼らを今度こそ滅ぼし尽くしてリベンジを果たす、そんな自分達の姿もちゃんと演出する。それを一般に見せ、絶大な信頼を集めることに役立てる。滅ぼし尽くしたと一般に思わせた旧体制残党役の者達には裏で親族もろとも十分な保護と相応の報酬を与える。その上で、目立たない社会の片隅でひっそりと、平穏な余生を過ごさせる。何も知らないのは、我々一般人だけである。この秘密を永遠に封印するための歴史も、伝統的な手法に則って即座に捏造される。

これら一連の過程は、実際は、新体制の機運が高まってから仕組まれたわけではない。インターネットが普及して「アメリカの金融ハザール悪魔崇拝偽ユダヤが滅びる」という話を喧伝する者達が現れるずっと前から仕組まれたことなのである。「アメリカの金融ハザール悪魔崇拝偽ユダヤが滅びる」という話を盛んに喧伝する者達も、「アメリカの金融ハザール悪魔崇拝偽ユダヤ」そのものも、実は、この企みの一環として人為的に配置され、彼らの役割を果たしたに過ぎないのだ。種としての人類そのものの生き残りのために現存人類の大半を駆除することは、それほどの一大事業として、この企みの主に、はるか以前から強く自覚されていた。

「アメリカの金融ハザール悪魔崇拝偽ユダヤが滅びる」という話を盛んに喧伝する者達が役割を終え、暗殺されたことにされて闇に身を隠す時が、上の過程の何処かで必ず来る。それまでの何処かでいつ暗殺されてもおかしくないのに何故か暗殺されずにいたヒーロー達が、「このタイミングで何故?」というタイミングで突然、呆気なく暗殺される。こうなったら、いよいよ、計画実行開始の合図である。覚悟を固める必要がある。彼らの周囲で彼らの主張に乗っかって何も知らずに一緒に騒いでいた一般人達もこのタイミングで一斉に消される。リストはもう既にできている。監視役もちゃんと付けられている。

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以上のようなことは、歴史を深く真剣に研究した者にはもう既に、色んな地域の色んな時代に普通に観察されるありふれた事例として把握されている。よくある話に過ぎない。