唯一の神は絶対的で万能です。ですから、こう言うと意外に感ぜられるでしょうが、実際は、例えば、所謂「宇宙の創造」すら行わなかったに違いないのです。唯一絶対の存在が自分以外のもの由来の素材を用いて自分以外の何かを作るとしたら、それはもう唯一絶対ではないことになってしまう。「宇宙の創造」と間違って呼称される事態において、神はただ、宇宙として、この世に顕現したにすぎないのです。神は、そういった意味で、「create」の本来の意味に相応しく、宇宙を「産んだ」のです。
これもまた意外かもしれませんが、実は「create」に本来「作る」という意味はありません。「宇宙の創造」は間違いなく、あまりにも大き過ぎる弊害を伴った誤訳だったのです。正しくは「宇宙の産出」としなければならなかった。神のことを「宇宙を作った」と間違って呼称するなど、神の間違った取り扱いを繰り返す内に、知らず知らずの内に神でないものを神として念頭に置くようになってしまい、人間として決してやってはならないことを神の名において数々しでかすということが繰り返されてきたのです。
超自然的で神的ながら邪悪でもある「悪魔」という概念も、そのような過ちのひとつです。自分たちの理解できない生き方をしている他部族を、彼らも自分たちと同じ、唯一絶対の神の子のはずなのに、この概念をもって「悪魔崇拝者」と決めつけ、誹謗中傷や暴力を与える。これは、上のような間違った神概念のせいで人間としての最も大切な感受性を麻痺させた人々によってなされる完全な間違いです。
そもそも「悪魔」もそれを念頭において考え行動する人間の前に現れた神の姿にすぎません。何故なら、人間の眼に映る万物が神の現れと考えなければ、神の絶対性や唯一性が毀損されることになってしまうからです。唯一の神は絶対的で万能であるが故に、神以外の何かの存在と対立し合っていると考えてはいけないのです。
「邪悪な」人々の崇拝する「悪魔」も、彼らにとっての神の顕現であり、我々が外部からとやかくいうことはできない。それは飽くまでも彼ら自身の問題である。この際我々が問題とすべきは、彼らと彼らの崇拝する「悪魔」に対する憎悪の抑制、コントロールである。それを今、我々の神が我々に命じている。彼らのことが念頭から完全に消えてしまうほどに、我々が、日々の営みの重大さや周囲のひとりひとりの重大さに没頭できるかどうか、神が今、我々の心の本当の意味での強さを試している。と、こう考えるのが正しいのです。
八百万の神も唯一の神の多様な現れに過ぎません。唯一の絶対的な神の顕現と考えられなければ、八百万の神は神としての資格を失ってしまいます。唯一の絶対的な存在者に対立する存在者が唯一の絶対的な存在者と同じカテゴリーに入るはずがないからです。彼等は唯一絶対的な存在者のそれぞれの部族に対する神としての現れであるからこそ唯一絶対の存在者と同じカテゴリに入り、神と呼称されうるのです。ということは、逆に、他部族の神を一切認めない一神教も、そのことによってそれ自身の意味を失ってしまうことになる。一神教と多神教は相克する時、互いに意味のないものになってしまうのです。
これはつまり「一即多、多即一」ということでしょう。これが神の最も重要な本性なのです。
「悪魔」なるものを自らの言動の中で取り扱う際も、神がその人の心に応じてその人の鏡像として現れてきて、我々の心を試しているものと考えるべきなのです。
この場合、人間にできるのは「我らを試みにひきたまはざれ。我らを悪より救いたまへ」と祈りつつ、自分の領域内で自ら善なる好意を行為を積み重ね続けていくことしかない。自分の人生に「悪魔」など無縁と思い切れるかどうか。これしか問題にしてはならない。
神を強く信じて生きる人間に限って、その敵の信じる神が「悪魔」として心から離れなくなってしまいがちです。「悪魔」を信じる敵を、自らがその敵となって執拗に攻撃するようになりがちなのです。そして、そうすることで自分の神を、逆に、そのような有限なものと対立するもの、従って、本来の絶対性や万能性、唯一性を失ったもの、に引き下げ、侮辱してしまうのです。その報いは、神を強く信じて行動しているはずの「正義」の人々自身が受けることになる。これが宗教戦争です。
例えば、あのオウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めた時に、オウム真理教は「悪魔」崇拝教として表象されるようになり、その内的な「誠実さ」によって雲散霧消もせず、最後には実際に「悪魔」として、我々一般人に牙を剥くことになったのです。
日本の奥の院は当時、オウム真理教に様々な策略を仕掛け、コントロール可能な集団に変えようとしていたようです。生長の家や創価学会、統一協会、北朝鮮の影が確認できるのはそのためでしょう。そんなある時、もうこれ以上はコントロールしようのない団体と認知せざるを得ない瞬間が訪れた。その瞬間に、奥の院によるオウム真理教殲滅の動きが始まったのです。
オウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めたジャーナリストや報道機関は、日本の奥の院のコントロール下にあったし、今でもそうだと考えるべきでしょう。彼らの動きそのもは、このような意図の元で奥の院の命令によって行われたに違いありません。その際に、宗教と見れば直ちに全て狂気と捉えてしまう、信仰生活とは無縁の、日本の一般人の習性も大いに利用された。
今、李氏朝鮮王家が江戸時代から日本社会に裏工作を仕掛けることで新たに作り上げ、そうすることで明治以降の日本を支配し、現在に至っている、そんな近代の天皇制が、悪魔崇拝組織として盛んに攻撃されています。これは、私の目から見たら、かのオウム真理教攻撃とほとんど同じことです。この攻撃の裏にも、近代天皇制をかつて近代日本の必然的な体制と認めた日本の奥の院もいるに違いありません。
ただ、この近代天皇制攻撃には、我々日本人の文化や伝統も攻撃対象として含みこまれてしまっている。この点が、オウム真理教攻撃とは決定的に異なっている。
一般人は、その意味を全く考えることができず、悪魔崇拝だとか性的幼児虐待、カニバリズム、生贄儀式などといった扇動的な言葉に乗せられて、ただヒステリックに騒いでいる。
これもオウム真理教の時と同じであり、ある意味ではオウム真理教の時より遥かに深刻です。この攻撃の結果として我々にもたらされる被害も、オウム真理教の時のものと比べ物にならないくらい大きなものになるはずです。近代天皇制はオウム真理教とは比べ物にならないくらいの重さをもっているからです。
安倍や麻生、昭和天皇、今上上皇などへの個人攻撃や、李氏朝鮮王家支配体制への攻撃は、そのこと自体、ある程度は避けられないことかもしれません。彼等がそれくらいのことを我々日本人にしてきたのはどうやら事実のようです。しかしながら、この攻撃は、同時にまた、こちら側にも極めて大きな被害をもたらすはずです。このことも十分に覚悟しなければならない。
本来なら、彼らのことを無視して自分たちの信仰生活を充実させ合い、その輪を大きくして行って、最後には、社会の上層部内で李氏朝鮮王家体制に対して複雑な思いを隠し抱いている有力者達もその輪に巻き込み、そうすることで彼等を、自ら身を引かざるを得なくなるような状況に静かに着実に追い込むというのが、最善の策です。が、彼等への攻撃の主体者も、その扇動に乗って騒いでいる一般人も、このようなことには全く思い至っていないようです。
また、このような被害の覚悟もそうですが、それ以上に、日本の文化伝統を乗っ取って日本の文化伝統に相応しくない悪行を重ね、日本の文化伝統を穢す彼等への批判が、勢い余って日本の文化伝統そのものへも向けられていることの危険性にも着目すべきです。彼等を攻撃している人はこの点も自覚できていない。二重三重に間違えているのです。
仮にこの人達の攻撃が実を結び、大きな被害を出しながらもその目的を達成した場合、この人達が彼等の代わりに、日本の文化伝統の消え失せた荒野で、我々を支配することになります。「我々が我々自身を統治するのだ」などと喧伝されるでしょうが、そんなものが幻であることは、しかも、よりによって、かの李氏朝鮮王家による近代天皇制が、世界中に、ある目的で普及させた幻想であることは、この400年間の人類の歴史が証明しています。こんな支配は、想像してみればすぐわかると思いますが、混乱以外の何物でもないでしょう。ちょっと想像力を働かしさえすれば、誰でも、この攻撃の異常性は理解できるはずなのです。
これもまた意外かもしれませんが、実は「create」に本来「作る」という意味はありません。「宇宙の創造」は間違いなく、あまりにも大き過ぎる弊害を伴った誤訳だったのです。正しくは「宇宙の産出」としなければならなかった。神のことを「宇宙を作った」と間違って呼称するなど、神の間違った取り扱いを繰り返す内に、知らず知らずの内に神でないものを神として念頭に置くようになってしまい、人間として決してやってはならないことを神の名において数々しでかすということが繰り返されてきたのです。
超自然的で神的ながら邪悪でもある「悪魔」という概念も、そのような過ちのひとつです。自分たちの理解できない生き方をしている他部族を、彼らも自分たちと同じ、唯一絶対の神の子のはずなのに、この概念をもって「悪魔崇拝者」と決めつけ、誹謗中傷や暴力を与える。これは、上のような間違った神概念のせいで人間としての最も大切な感受性を麻痺させた人々によってなされる完全な間違いです。
そもそも「悪魔」もそれを念頭において考え行動する人間の前に現れた神の姿にすぎません。何故なら、人間の眼に映る万物が神の現れと考えなければ、神の絶対性や唯一性が毀損されることになってしまうからです。唯一の神は絶対的で万能であるが故に、神以外の何かの存在と対立し合っていると考えてはいけないのです。
「邪悪な」人々の崇拝する「悪魔」も、彼らにとっての神の顕現であり、我々が外部からとやかくいうことはできない。それは飽くまでも彼ら自身の問題である。この際我々が問題とすべきは、彼らと彼らの崇拝する「悪魔」に対する憎悪の抑制、コントロールである。それを今、我々の神が我々に命じている。彼らのことが念頭から完全に消えてしまうほどに、我々が、日々の営みの重大さや周囲のひとりひとりの重大さに没頭できるかどうか、神が今、我々の心の本当の意味での強さを試している。と、こう考えるのが正しいのです。
八百万の神も唯一の神の多様な現れに過ぎません。唯一の絶対的な神の顕現と考えられなければ、八百万の神は神としての資格を失ってしまいます。唯一の絶対的な存在者に対立する存在者が唯一の絶対的な存在者と同じカテゴリーに入るはずがないからです。彼等は唯一絶対的な存在者のそれぞれの部族に対する神としての現れであるからこそ唯一絶対の存在者と同じカテゴリに入り、神と呼称されうるのです。ということは、逆に、他部族の神を一切認めない一神教も、そのことによってそれ自身の意味を失ってしまうことになる。一神教と多神教は相克する時、互いに意味のないものになってしまうのです。
これはつまり「一即多、多即一」ということでしょう。これが神の最も重要な本性なのです。
「悪魔」なるものを自らの言動の中で取り扱う際も、神がその人の心に応じてその人の鏡像として現れてきて、我々の心を試しているものと考えるべきなのです。
この場合、人間にできるのは「我らを試みにひきたまはざれ。我らを悪より救いたまへ」と祈りつつ、自分の領域内で自ら善なる好意を行為を積み重ね続けていくことしかない。自分の人生に「悪魔」など無縁と思い切れるかどうか。これしか問題にしてはならない。
神を強く信じて生きる人間に限って、その敵の信じる神が「悪魔」として心から離れなくなってしまいがちです。「悪魔」を信じる敵を、自らがその敵となって執拗に攻撃するようになりがちなのです。そして、そうすることで自分の神を、逆に、そのような有限なものと対立するもの、従って、本来の絶対性や万能性、唯一性を失ったもの、に引き下げ、侮辱してしまうのです。その報いは、神を強く信じて行動しているはずの「正義」の人々自身が受けることになる。これが宗教戦争です。
例えば、あのオウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めた時に、オウム真理教は「悪魔」崇拝教として表象されるようになり、その内的な「誠実さ」によって雲散霧消もせず、最後には実際に「悪魔」として、我々一般人に牙を剥くことになったのです。
日本の奥の院は当時、オウム真理教に様々な策略を仕掛け、コントロール可能な集団に変えようとしていたようです。生長の家や創価学会、統一協会、北朝鮮の影が確認できるのはそのためでしょう。そんなある時、もうこれ以上はコントロールしようのない団体と認知せざるを得ない瞬間が訪れた。その瞬間に、奥の院によるオウム真理教殲滅の動きが始まったのです。
オウム真理教を狂気と捉え攻撃し始めたジャーナリストや報道機関は、日本の奥の院のコントロール下にあったし、今でもそうだと考えるべきでしょう。彼らの動きそのもは、このような意図の元で奥の院の命令によって行われたに違いありません。その際に、宗教と見れば直ちに全て狂気と捉えてしまう、信仰生活とは無縁の、日本の一般人の習性も大いに利用された。
今、李氏朝鮮王家が江戸時代から日本社会に裏工作を仕掛けることで新たに作り上げ、そうすることで明治以降の日本を支配し、現在に至っている、そんな近代の天皇制が、悪魔崇拝組織として盛んに攻撃されています。これは、私の目から見たら、かのオウム真理教攻撃とほとんど同じことです。この攻撃の裏にも、近代天皇制をかつて近代日本の必然的な体制と認めた日本の奥の院もいるに違いありません。
ただ、この近代天皇制攻撃には、我々日本人の文化や伝統も攻撃対象として含みこまれてしまっている。この点が、オウム真理教攻撃とは決定的に異なっている。
一般人は、その意味を全く考えることができず、悪魔崇拝だとか性的幼児虐待、カニバリズム、生贄儀式などといった扇動的な言葉に乗せられて、ただヒステリックに騒いでいる。
これもオウム真理教の時と同じであり、ある意味ではオウム真理教の時より遥かに深刻です。この攻撃の結果として我々にもたらされる被害も、オウム真理教の時のものと比べ物にならないくらい大きなものになるはずです。近代天皇制はオウム真理教とは比べ物にならないくらいの重さをもっているからです。
安倍や麻生、昭和天皇、今上上皇などへの個人攻撃や、李氏朝鮮王家支配体制への攻撃は、そのこと自体、ある程度は避けられないことかもしれません。彼等がそれくらいのことを我々日本人にしてきたのはどうやら事実のようです。しかしながら、この攻撃は、同時にまた、こちら側にも極めて大きな被害をもたらすはずです。このことも十分に覚悟しなければならない。
本来なら、彼らのことを無視して自分たちの信仰生活を充実させ合い、その輪を大きくして行って、最後には、社会の上層部内で李氏朝鮮王家体制に対して複雑な思いを隠し抱いている有力者達もその輪に巻き込み、そうすることで彼等を、自ら身を引かざるを得なくなるような状況に静かに着実に追い込むというのが、最善の策です。が、彼等への攻撃の主体者も、その扇動に乗って騒いでいる一般人も、このようなことには全く思い至っていないようです。
また、このような被害の覚悟もそうですが、それ以上に、日本の文化伝統を乗っ取って日本の文化伝統に相応しくない悪行を重ね、日本の文化伝統を穢す彼等への批判が、勢い余って日本の文化伝統そのものへも向けられていることの危険性にも着目すべきです。彼等を攻撃している人はこの点も自覚できていない。二重三重に間違えているのです。
仮にこの人達の攻撃が実を結び、大きな被害を出しながらもその目的を達成した場合、この人達が彼等の代わりに、日本の文化伝統の消え失せた荒野で、我々を支配することになります。「我々が我々自身を統治するのだ」などと喧伝されるでしょうが、そんなものが幻であることは、しかも、よりによって、かの李氏朝鮮王家による近代天皇制が、世界中に、ある目的で普及させた幻想であることは、この400年間の人類の歴史が証明しています。こんな支配は、想像してみればすぐわかると思いますが、混乱以外の何物でもないでしょう。ちょっと想像力を働かしさえすれば、誰でも、この攻撃の異常性は理解できるはずなのです。