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あるカメラマンの目に映った50年前のインド、ネパール 後編~ネパール点描~

2012-11-28 10:00:00 | 戯言

前編に引き続き、50年前にまめ八の父親を初めとした若者が見たネパールの風景をご紹介していきたいと思います。

 

ネパールの首都カトマンズを発った登山隊は現地のポーターとともに目的の山に向かってひたすら歩き続けたようです。

この写真にあるような原生林の中の道を、熱帯の蒸し暑さと薄くなる空気にあえぎながら歩き続けた様子がこれ等の写真から伺えます。

 

 

今なら、バスをチャーターして移動出来る場所でも当時は自らの足で歩いていかなければならなかったそうです。

 

 

目的とする山まで数日かけての移動。。。

この写真には「キャラバン」という書き込みが為されていました。

登山隊の荷物を背中に背負って歩いてくれるポーターとともに、こうした野営を重ねて目的の山に向かった訳です。

真ん中の木を挟んで、左側の日本人と、右側のネパール人シェルパ(靴を履いている人)、ポーター(靴を履いていない人)の対比が面白いと思います。

また、設営されたテントがちょっとオシャレですネ。

 

 

この写真には「キャラバン・ポーター 足」という解説が付けられていました。

当時、ヒマラヤの峰々にアタックする登山隊を支えていたのが現地人のポーター達でした。

彼らは50㎏以上の荷物を自らの背中に背負って険しい山道を裸足で歩き続けていたそうです。

生まれてから靴というものを履いた事が無い彼らの足は、皮が分厚くなりひび割れています。

ただ、長距離を歩いたためでしょうか?その丈夫な彼らの足にも血が滲んでいる事が解ります。

 

 

小休止の一コマでしょうか。。。

ちょっと一服するポーター達です。

この写真に写っているポーターは靴を履いています。

それにしても背中に背負っている荷物の量の凄い事。。。

これで空気の薄い5,000m以上(富士山よりも高い!)場所まで荷物を運んで行くわけですから彼らの心肺機能は驚異的です。

 

 

これまでご覧頂いたように50年前のヒマラヤ登山は、目的の山の麓に辿り着くまでに相当な苦労があったようです。(コレは今も余り変わらないのかもしれません)

ただ、自らの足で歩いた事によって登山隊一行は当時のネパール人の素朴な生活や自然に触れる機会を得られたみたいです。

スライドフィルムには、その記録も残されていました。

 

この写真には「チャウバン風情」という解説がありました。

ヒマラヤの峰々をバックにたわわに実るバナナ。。。

手前にはヒマラヤの峰々を映す鏡のような湖。。。

当時の山男たちなら誰もが憧れるような世界が写し出されていました。

ちなみに“チャウバン”という地名を探してみましたが、結局解りませんでした。

恐らく、ネパールの小さな村落なのでしょう。

 

 

この写真には「マチャプチャリー」という解説が付いていました。

ヒマラヤの有名な秀峰“マチャプチャリ”をバックにしたネパールの農村風景です。

バックの山々は紛れもなくヒマラヤですが、手前の茅葺き屋根の家々、頭に捻り鉢巻きをして農作業に勤しむ農夫の姿は、昭和初期までの日本の農村風景と見紛わんばかりです。

 

 

路肩に座り込んで休憩する登山隊一行を物珍しそうに眺めながら過ぎ行くネパール人女性の一団。。。

毎日の生活に追われている彼女たちからすれば、ただ単なる山登りの為に遠く異国の地から遥々やって来たという、自分たちと同じ顔をした若い男たちは理解出来ない存在であったに違いありません。

 

 

川を渡る一行。

人里を離れるに従って橋が架かっていない川が増えてきたようです。

流れる川の水はヒマラヤの氷河から流れ出る水。。。

どれだけ冷たかった事でしょう。。。

 

 

上との連続写真だと思われます。

川を渡る登山隊一行を面白そうに眺める現地の若い女性たち。。。

「村の乙女ら」という解説が付いていました。

 

 

この後、一行は付近の村に立ち寄ったみたいで、当時のネパール人の生活の様子を撮影した写真が残っていました。

この写真には「糸をつむぐ」という解説が付けられていました。

ハンドメイドと思われる糸紡機もさることながら、女性が来ている着物の粗末な事に驚きました。

きっとこれらの着物も彼女たちが自分たちで糸を紡ぎ、機を織り、そして着物に仕立て上げたのでしょう。

 

 

一行が村を訪れた際、ちょうど村ではお祭りが行われていたようです。

「おまつり」という解説が付いたこの写真には民族楽器を手にして踊るネパールの人たちが写し出されていました。

その周りには一張羅を羽織った村の子どもたちの姿が見られます。

子どもたちは裸足ですネ。

ここに写っている子どもたちも今では50~70歳代になっているハズです。

 

 

現地で食料として調達した孔雀を手にする隊員。(親父ではありません)

今のようにレトルト食品が発達していなかった当時、日本から運んできた乾燥食品や缶詰には限りがあり、しかもそれらの食料は登頂アタック時の為に取っておく必要がありました。

そこで必然的に移動中の食料は現地の村々で調達することになります。

この孔雀も隊員たちの胃袋に収まったことでしょう。

ちなみに、ローマ帝国では孔雀の舌は珍味として珍重されていた事をご存知ですか?

 

 

まめ八の微かな記憶によれば、コレと同じものがかつて我が家にあったような。。。

その時の記憶によれば、この半円状の編み物はネパールの携帯用座布団であったと思われます。

材質は確か皮をひも状にしたものを編み合わせて作られていたような。。。(記憶があやふやなのでひょっとしたら間違っているかもしれません。。。)

 

 

石造りのこの建物はお寺でしょうか?

 

 

石に刻まれた文様。。。

チベット文字の可能性もあります。

 

 

ベースキャンプ地までの道のりの中で、カメラマンは路傍に咲く現地の植物にもカメラを向けています。

この写真には「グランスの花」という解説がありました。

葉だけをみると、ゴムの木に似ていますネ。

 

 

この写真には「やまざくら」という解説が付けられていました。

日本の「やまざくら」に似た花であったのでしょうか。。。

 

 

これは背景からすると少し高度が上がった場所で撮影された花でしょう。

白い水仙のような花です。

 

 

隊員たちが物珍しそうに囲んでいる石積み。。。

この写真には解説が無いので詳しい事が解りません。

恐らく、ネパールのお墓ではないかと推測します。

 

 

この写真が撮影された場所になると、かなり高度が上がります。

雪山へと続く原野にポツンと建てられたお墓?

チベットからブータン、ネパールの山岳地帯の一部では“鳥葬”が有名ですが、石積みが為されている事から写真の地域は土葬が習慣のようです。

 

 

登山隊はいよいよ険しい山岳地帯に入ったようです。

氷河末端を行くポーター。

それにしても彼らが背負っている荷物の量には驚きです。

 

 

最後にご紹介する一枚の写真には「オンデー」と記されていました。

70枚を超える写真の中で唯一、ネパール人で個人名が書き添えられた写真です。

恐らく登山隊一行がお世話になったシェルパのリーダーでしょう。

ヒマラヤの詳しい地理情報がまだ無かった時代、彼らシェルパの力量によって登山隊の運命も大きく左右されたといいます。

親父達の登山隊は、人跡未踏の7,000m級の山にアタックしたそうですが、一人の遭難者を出す事も無く、無事、帰国することが出来ました。

 

 

さて、これまで2回にわたって、ある日本人カメラマンが50年前に撮影したインド・ネパールの写真をご紹介してきました。

 

これら、50年前の写真を眺めつつ、改めて考えた事。。。

 

今でこそ、旅行会社によってツァーが企画される程に身近になったヒマラヤ登山ですが、今から50年前は外貨留保の関係で日本人の海外渡航は自由に出来ませんでした。

しかも当時、ヒマラヤ登山といえば、まだ未知の領域が多く、名だたるプロ登山家や、国家や大企業の後援を受けたチームだけに許された聖域だったのです。

そうした時代に、アマチュア登山家の集まりであった職域山岳会の若者たちが、大きな後援団体もない中で、文字通り自分たちだけの力で夢を実現していったという事実は驚くべき事だと思います。

 

結局、親父たちのヒマラヤ遠征隊は、目的とした山の登頂には成功する事が出来ませんでした。

 

でも、“ヒマラヤの山に挑戦してみたい”というヒマラヤの山々と同じ位、高く厳しい目標を実現することが出来ました。

 

彼ら50年前の若者たちは、目的とした山頂に到達する事こそ出来ませんでしたが、個々の心の内なるヒマラヤの頂きに立ち、心の底から満足できたのではないでしょうか。


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

一年生 [2012年11月28日 11:56]
こんにちは

まめ八さんのお父さん、ほんとすごい経験をされてたんですね。

しかしネパールの人は日本人とよく似た顔してますね。

裸足であの石ころの凄いとこ歩くとは、高度が高くなるとしもやけや凍傷になりそう。

しかし古い映像ですがヒマラヤの澄み切った空気と山の白さを、なおいっそうの想像を駆り立てます。

うんヒマラヤも将来見てみたくなってしまった。
宮ちゃんNO1 [2012年11月28日 14:47]
こんにちは~ 宮ちゃんで~す!

交通・情報が乏しい中・・・まさに冒険!の文字に相応しい記録デスね~
ヒマラヤ登山・・・シェルパやポーターの力無くてはやはり無理な事を改めて認識させらました~
言葉や文化・風習の違いを乗り越え・・・一つの目的の為に
向かって行く姿・・・何となく感動を覚えますネ!
ホント・・・素晴らしい記録写真だと思います!

まめ八 [2012年11月28日 19:26]
一年生さん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。

ポーターの足。。。凄いですよね。
まるで象の足の裏みたいです。
人間も鍛えればココまでなっちゃうんですネ~。
多分、この写真を見る限り、角質層が厚くなって爪のようになってしまっていると思われるので、足の裏に関しては霜焼けや凍傷にはならなかったと思いますよ。!(^O^)
ネパール人は確かに日本人そっくりですよね。明らかにインド人(アーリヤ人)より日本人に近い顔や体型だと思います。
ネパールの隣国がブータンになりますが、ブータンは民族衣装まで日本の着物そっくりですよ。
まめ八 [2012年11月28日 19:34]
宮ちゃん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。

この頃の日本人って、今と違って物や情報が少なかった分、好奇心と行動力に富んでいたのではないでしょうか?
クリック一つで、世界各地の画像や情報が瞬時に見られる今の時代に生きる私たちは便利さによって、却って退屈で窮屈な面白くない人生を送っているのかもしれませんね。

上から7枚目のマチャプチャリの山をバックにした茅葺き屋根の村落の写真。。。
宮ちゃんの故郷、信州の古い記憶と被るのではないでしょうか?!(^O^)
ビックなトトロ [2012年11月28日 23:29]
こんばんは~。

本当に尊敬できる御父様ですね(^_^)
現在なら気軽に出来る海外旅行ですが、たった50年前ではとてつもない旅行だった事を今回教えて頂けました。
また50年後はどうなっているのでしょうか?

是非とも良き未来にしたいですね(^_-)-☆
ヴェル24 [2012年11月29日 21:27]
こんばんは。

今じゃ気軽に行ける海外旅行も50年前はかなりハードルが高く、持ち出せる金額も制約が有ったと思います。
それらを克服し、更に現地でも全てが大変な状態なのに、コレだけの情熱が有る方達じゃないととても実現できませんね。これってヤッパリドキュメンタリーにするとか、執筆して記録に残して欲しい気がしますね。
まめ八 [2012年12月2日 17:53]
ビックなトトロさん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。

いえいえ。。。この歳になるまで、そして今回ご紹介した写真を見るまでは、父親としての顔しか知らなかったので、私にとっては反面教師的存在の親父でしたよ。(;^_^A
でも、私自身がこの写真に写っている親父よりも年上になってしまった今、自分の歩んできた人生と比較して、本当に凄い事をやってのけてきたんだな。。。って思います。
さて、我が息子は私の人生をどう評価するのでしょうか?(;^_^A
まめ八 [2012年12月2日 17:58]
ヴェル24さん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。

実は、絶版(・・・というか限定発行)なんですが、このヒマラヤ遠征について親父は本にまとめてあるんですよ。
先日、これらの写真を届けた際に知ったのですが、来年、このメンバーの生き残りで“ヒマラヤ遠征50周年”の記念式典(集まって飲むだけみたいですが。。。)を行うと言っていました。この写真がその式典に間に合って本当に良かったと思います。(*^-゚)v