今年のGW、まめ八は母方の実家のある天草に墓参りに行く予定だったので2日の日に休みを頂きました。
ところが、子ども達がカレンダー通りのお休みだったので子ども達が学校から帰った2日の午後4時に熊本を出発して天草に向かう事に。。。
そこで午前中、GSに行きエスティマを綺麗に磨き上げておきました。
子ども達が帰宅していざ出発。。。
ところが午前中から気にはなっていたのですが、この日の空模様がどうも普通ではない。。。空が黄色いのです。しかも視界が凄く悪い。。。
“ひょっとしてコレ、黄砂?”
出発する頃には視界は最悪となり、後からニュースで確認したところ視界は3kmまで落ちていたそうです。
途中で夕食を摂ったりしたので苓北町の家に着いたのは8時過ぎになってしました。
この日は家の掃除等を手早く済ませて早めに床に着きました。
翌日、目が覚めて外を見ると生憎の雨。。。
これでは、墓掃除も、子ども達が楽しみにしていた潮干狩りも出来そうにありません。
仕方がないので、この日は天草下島の南西端にある牛深町(旧牛深市)に出かけてみることにしました。
途中、用事を済ませるために本渡に向かい、本渡で昼食済ませた後に国道266号線を牛深に向かいました。
牛深は漁業の街で、県内随一の漁獲量を誇る漁港があります。
しかしながら、かつては、鰹漁や鰯漁で栄えた時期もありましたが、鰹、鰯の漁獲量の減少により、現在では往時の活気を見る事は出来ません。
牛深港は、漁港としてのみならず、鹿児島県長島との間で運航されているフェリーの発着港としても使われています。
そのフェリー発着場の隣にあるのが“うしぶか海彩館”です。
建物の前には牛深名物“牛深ハイヤ”を踊る女性の銅像が。。。
“うしぶか海彩館”は、牛深周辺の海の幸や山の幸を販売する物産館・レストランと、牛深の歴史と文化を紹介する資料館が一つになった複合施設です。
中央の広場には、回遊する魚の姿を見ることができる生け簀があります。
中央の円筒形の水槽には鯵が、周囲の水が回遊する水槽には真鯛が入れられていました。
こちらの生け簀には石鯛、ヒラメ、サザエ、アワビが。。。
こちらは伊勢海老。。。もちろん牛深近海で採れた天然物です。
これら生け簀の海の幸は、その場で注文すれば館内のレストランで捌いて食べさせてくれるそうです。
さて、今回“うしぶか海彩館”に立ち寄ったのは、ある目的があったからなのです。
その目的の場所がココ。。。
牛深の歴史・民族資料館なんです。
ここの1階には、漁業の街として発展してきた牛深の歴史や、牛深で行われてきた漁法、そして漁師たちの生活の様子を解説した展示を見ることができます。
ただ、今回の目的の場所は、この建物の2階にあるこの一室なんですよ。
“軍艦長良記念館”。。。
展示室の電気を付けて中に入ると。。。
突然、軍艦の話が出てきて面食らっている方もおられることでしょう。
そこで少々解説を。。。
軍艦“長良”とは、太平洋戦争において活躍した旧日本海軍の長良級軽巡洋艦のネームシップになった軍艦です。
軽巡洋艦“長良”の艦歴についてはこちら
巡洋艦“長良”の展示模型。
太平洋戦争の末期の昭和19年8月7日に、長良は陸軍の兵員を輸送中、天草諸島西方海上でアメリカ海軍の潜水艦“クローカー”からの雷撃を受け沈没しました。艦長中原義一郎大佐以下乗組員348名が戦死、235名が救助されました。
“クローカー”が潜望鏡から撮影した沈みゆく“長良”
まめ八の母親は、この時小学1年生だったそうですが、魚雷が長良に命中した際の水柱を海岸から目撃したそうです。
この悲劇を知った故佐々木ツルさん(1988年没、享年88歳)は、故郷牛深のボラ山という小高い丘に、魚の行商で得た浄財を擲って昭和45年に“軍艦長良慰霊塔”を建立されました。
この小高い丘は、今日では“慰霊の丘”と呼ばれており、この“軍艦長良慰霊塔”の他にも、日清・日露慰霊塔、陸軍記念碑、海軍記念碑、無縁仏塔戦没者慰霊塔、山本元帥弔魂碑など、戦没者の慰霊碑が静かに並んでいます。
これらの慰霊碑は、佐々木さんが、昭和6年の満州事変以降、営々と築き上げられてきたものなのです。
慰霊碑の建立資金の大部分は、佐々木さんが魚の行商で得た浄財だったそうです。
また、数十年にわたって毎日、慰霊の岡の手入れを欠かしたことが無かったそうです。
在りし日の故佐々木ツルさん。。。
佐々木さんは、こうした自らの尊い行いを世間や他人に宣伝されることを嫌い、慰霊碑には自らの名前を入れることさえ拒まれたそうです。
こうした人知れずひっそりと続けられていた佐々木さんの慰霊活動だったのですが、これを知った、地元天草の作家島一春氏が、“天草灘に響け鎮魂の譜”(熊本日日新聞社刊)という本で紹介されたことによって広く世に知られることになりました。
この故佐々木ツルさんの慰霊活動と、“長良”沈没の際に地元牛深の漁師たちの献身的な生存者の救助活動に対して、“長良”の生存者の方々や戦友会、そして長良を撃沈したアメリカ潜水艦“クローカー”の元艦長からも寄付や様々な資料などが寄せられ、その結果開設されたのがこの資料館なのです。
展示コーナーには、こうした“長良”ゆかりの品々や、生存者からのお手紙、貴重な写真、そして戦没者名簿や戦没者のご遺族の方から寄せられた感謝の手紙などが展示してありました。
さて、この“軍艦長良資料館”をじっくり見学した後、この日の晩の酒の肴に鯵とエソの揚げ蒲鉾をそれぞれ一つずつ買って“うしぶか海彩館”を後にしました。
まだ少し時間があったので、牛深の最南端下須島へ渡ってみることにしました。
下須島へ渡るには、牛深港を渡る“ハイヤ大橋”を通ります。
この橋は全長が883mあり、県内の海上橋としては最長になるのだそうです。
徒歩でも渡る事が出来るので、地元の方の新しい散歩コースとして良く利用されているそうですよ。
緩やかに大きなカーブを描いて牛深港を迂回する美しい姿は、牛深の新しい観光名所にもなっています。
この橋、途中に信号機のある交差点があるのです。
左折すると、牛深の街中、もしくは下須島へ降りることが出来ます。
下須島の一番南には、熊本県内でも最も美しいビーチの一つと言われている“砂月海水浴場”があります。
この日は残念ながら黄砂の影響と、天気が良くなかったので景色は余りよくありませんでした。
ただ、ここの砂浜の美しさは折り紙つきで、2003年に放映されたNHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」で、そのクライマックス、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いはこの地で撮影されました。
砂月海水浴場を後にして次に向かったのが、“何コレ?珍百景”に出てきそうな風景です。
そのSF映画に出てきそうな不思議な風景がコレだぁ。。。(・・・って違うか?)
ちょっと解り難いので少しアップしてみました。
すると。。。海の真ん中の無人島にポッカリと空いた大きな穴。。。
地下に続いていて、まるでどこかの組織の秘密基地のようです。
これは一体?。。。
実はこの不思議なトンネルは、“烏帽子坑”という明治時代に掘られた海底炭田の坑口跡なんです。
詳しくはこちらを参照して下さい
それにしても不思議な光景でしょう?
加えてこの烏帽子坑が遠望できる場所は、“日本の夕日百選”に選ばれるほど美しい夕日を眺めることが出来ます。
ただし、それも“晴れたら・・・”の条件が付きますが。。。
この日は黄砂と雨天のために眺望は全く駄目でした。
ところで、砂月海水浴場からココまでの道路はかなり細い上にカーブも多いので3ナンバー車は結構気を使います。出来ることならリッターカー、もしくは軽自動車かバイクで訪れる事をお薦めします。
さて、次回は、子どもたち念願の潮干狩りについてレポートしたいと思います。
コメント
- 宮ちゃんNO1 [2011年5月7日 18:57]
- こんばんは~ 宮ちゃんで~す!
生憎の天候で・・・予定変更?
でも・・・チャンと計画されて居た様で(笑)
宮ちゃんは生簀の魚が気になりましたが・・
まめ八さんは・・軍艦長良記念館
確かに・・・戦争の歴史って後世に伝えないとね! - EP82-SW20 [2011年5月7日 22:21]
- こんばんは。
黄砂が酷いですねぇ・・・
これは見える事は見えますが、ドライバーにはかなりプレッシャーがかかる視界に感じます(^^;)
おお、まめ八さんの主目的は、やはりかつての大戦の・・・。
お母さんが魚雷を受けた船の様子を目撃されているとは・・・。
多くの人の血が流された結果、今の平和がある日本。
我々は「生かされている」という感謝の気持ちを時々は思い出さなくてはならないと思いますね・・・。
最後は、某ホラーゲームに出てきそうな遺構ですねw - まめ八 [2011年5月8日 19:38]
- 宮ちゃん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、ありがとうございます。
今回の“軍艦長良記念館”行きは、きちんとした計画ではなく、タマタマ思い出した苦肉の策でした。天草の実家はとにかく何にも無い田舎で、晴れた日には海で遊ぶことが出来るのですが雨が降るとTVを見る事以外にやることが無いので、朝から雨が降ると大変なんです。(;^_^A
先の大戦が終わって66年の月日が流れてしまいましたが、軍人軍属だけで390万人もの尊い命が失われた日本にとってはとても大切な歴史的教訓ですから風化させてしまってはいけないと思います。 - まめ八 [2011年5月8日 19:54]
- EP82-SW20さん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。
中国に近い分、こちらでは2日から黄砂が酷く、3日に渡って視界が酷く悪い状態が続きました。
交通機関には影響は無かったのですが、車の窓を開けることが出来ず、エアコンを内気循環にしてのドライブとなりました。
天草は長崎に近いこともあって、私の母は長良に魚雷が命中した水柱を目撃したほか、原子爆弾が投下された直後にきのこ雲が上空に上がっていく様子も見ていたそうです。
B29による空襲は勿論、米軍戦闘機からの機銃掃射から逃げ回ったり、不時着した日本軍戦闘機を見に行ったり、防空壕の周辺に米軍戦闘機が終戦を伝えるビラを蒔いた際にそれを拾いに行って親から怒られた話とか、とにかくいろいろな戦争体験を聞かせてくれました。
烏帽子坑の跡はちょっと不気味でしょう?
今から20年ほど前に、釣りの帰りに始めてみた時にはコレが何かわからず、友人とアレコレ想像を巡らしたことが懐かしく思い出されます。(^_^)
あなたのブログにコメント投稿されたものです。