gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

加藤清正と熊本城 その1(二の丸・西出丸など)

2009-12-30 12:22:59 | 熊本の歴史遺構を訪ねて

一週間ぶりの更新です。

最近、ネタが尽きてきた事とモチベーションの低下(公私共にやることが多すぎる・・・というか、これまでサボっていたのがいけなかったのですが・・・)に陥っています。

 

そこで今回は、“熊本=熊本城”というベタな発想で、熊本城と加藤清正をシリーズものでご紹介していきたいと思います。

 

さて、先日、明治神宮の清正井が幸運をもたらすパワースポットとしてTVで紹介されてから、これまで歴史の表舞台に登場することが少なかった加藤清正が注目されるようになりました。

戦国時代後期の武将として、伊達政宗なんかよりずっと活躍し、しかもたくさんのエピソードをもった加藤清正なのですが、朝鮮出兵の際の活躍?が災いして、国際問題化することを恐れるNHKの思惑によって大河ドラマにも取り上げられることがありません。

その加藤清正についてのお話は別に機会に譲るとして、今回は清正が自らの居城として築いた“熊本城”をご紹介します。

 

熊本城は、熊本市のほぼ中心部にあり目抜き通りの通町から天守閣と最近再建された本丸御殿を真正面に臨むことが出来ます。

ここは熊本市のシンボル的なロケーションの一つだと思います。

 

 

三の丸駐車場に車を止めて二の丸に向かいます。

熊本城といえば、優雅な曲線を描くこの“武者返し”と呼ばれる石垣が有名ですね。

基部はなだらかな曲線で上部に行くほど垂直になる“武者返し”の石垣は、清正が朝鮮出兵の際に築いた難攻不落の蔚山城の石垣で使った建築技法を継承しています。元々はヨーロッパのアーチ構造を学んで作られたと言われています。

この“武者返し”は、西南戦争の際に大いにその威力を発揮し、西郷軍を苦しめたといわれています。

 

 

二の丸に上がってきました。

江戸時代には、この二の丸には藩校“時習館”や重臣達の屋敷が置かれていました。

 

明治時代の廃藩置県の際にここに初代熊本県庁が置かれました。その後、陸軍の鎮台となり、第二次世界大戦の終結まで第六師団の兵営が置かれる事になります。

戦後は、熊本県立第二高等学校が開設されたり(現在は東町に移転)しましたが、現在は、熊本県立美術館が一角に作られるなど、広大な芝生の公園として整備されています。

写真の大きな立木の根元には、明治初頭に発生した“神風連の乱”の「将士奮戦之跡」の石碑が立っています。

 

なお、地元ではここでデートをしたカップルは必ず別れるという都市伝説があります。

 

 

二の丸から西出丸~本丸を望みます。

石垣の上部が新しくなっているのは、明治時代に熊本鎮台の司令官になった桐野利秋が西出丸を取り壊したためです。

画面下はかなり大きな空堀になっています。

 

 

ここが城内の中心部であった二の丸であることを考えると、熊本城の巨大さが実感できます。

明治時代の西南戦争の際でさえ、西郷軍の砲弾が本丸には一発も届かなかったという話も頷けます。

 

 

南大手門を外側から見ます。

ここも明治以降、取り壊されていましたが、近年、石垣ともども復元したものです。

 

 

同じく南大手門を今度は城内から見ます。

 

 

西出丸の長塀を内側から見ます。

たくさんの銃眼が設けられていました。

ここから鉄砲を突き出して場外の敵を撃つわけですね。

 

 

西出丸からいよいよ本丸に向かいます。

正面に天守閣・宇土櫓が望めます。

二の丸に一番大きな駐車場が置かれている関係で、他県から熊本城を訪れる観光客は殆どがここを通って天守閣に登ります。

右下の門が“頬当て御門”。

ここに料金所があって大人500円、こども200円を払わなければなりません。

ただし、熊本市内在住の小中学生は名札か生徒手帳を提示すればタダになります。

 

ところで、写真中、車が走っている道が旧薩摩街道です。

なんと、熊本城は本丸と二の丸の間に薩摩街道が通っていたのです。

その為、江戸時代初期にはここを通る薩摩藩の参勤交代の隊列とちょっとしたトラブルがあったということが伝えられています。(以下、Wikiから抜粋)

 

~江戸時代の最初期には島津家の大名行列もこの街道を利用していた。隣地とのこともあり加藤家と何かと反目していた当時の薩摩藩主、島津家久は他藩である熊本城内を鑓を立てて通る示威行為を行った。すると、すかさず街道沿いのすべての銃眼を開き、銃口を向けて鑓を伏せさせたという話が残っている。島津家の大名行列は、後に領内より船で大阪へ渡るルートへと変更されたのでこの後、互いの領内でのトラブルはなくなったが、関ヶ原の戦い後の緊張感と熊本城の主な目的が伝わる逸話である。~

 

 

“頬当て御門”に入る前に、本丸のすぐ脇にある“加藤神社”入り口から宇土櫓、天守閣を臨みます。ここから見る熊本城の姿が一番カッコいいとまめ八は思います。

 

 

さて、“頬当て御門”を抜けていよいよ本丸へ・・・

目指すは天守閣・・・。

 

 

・・・ということで、次回は本丸を中心にご紹介させていただきます。

 

 


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

きなこ [2009年12月30日 15:38]
初めまして!
熊本城って訪れたことがないですが、とても黒くてカッコイイお城ですね。
白漆喰で塗り固めた城が多い中、少し珍しい気がします。建てられた時代によって
特徴があるのでしょうか?
まめ八 [2009年12月30日 23:14]
きなこさん、こんばんわ。初めまして。
これからも宜しくお願い致します。

熊本城が黒色で塗られている理由ですが、正直なところ解りません。(済みません(;^_^A)
ただ、当時の歴史的な背景から予想すれば城の役割は一に戦闘に備えることと、二に権力の誇示という側面があったと思われます。
ですから、戦闘本位なら威圧的でカムフラージュの役割を果たす事が出来る黒、権力の象徴であれば目立つ白を用いたのではないでしょうか?
熊本城の場合、薩摩と徳川に備えるという二つの側面を有していましたから戦闘本位の城でした。
従って黒色に塗られていたものと思われます。