私は、十字架を背負って生きていかなくてはならないのかもしれない、と考えております。
前々回にも記したとおり、オリンピック、やると決まったのだから精いっぱい選手も応援して、見ました。すごく感激もしました。
これに関わったすさまじい人たちの思いの一端も知ることができ、学び、感動は今も新しい情報として入ってきます。
世界中のいろんな思い、情勢も知ることができました。考えさせられました。
もしも書くことができれば、紹介したいものがいくつもあります。
でも、やはり、決行したことによるしわ寄せ、後始末、負の遺産も明らかになりつつあるわけで、これが、「事前にわかっていた」私の背負うべき十字架なのです。
たとえは違いますが、先の大戦で戦争が終わった後、「だから私は最初から戦争は止めろと言っていたんだ」とか、
「みんなの責任だから、誰も責められるものではない。仕方がなかったのだ」とか、「私は正義を貫いたのだ。人に危険人物扱いされようと、私は戦争に反対していたというのに。」とか
そういうたぐいの人間にはなりたくありません。
どれだけ叫んでいても、決行を止めることはできなかったわけですから、また、そこまで命がけではなかったのですから、やることが決まった時点で、十字架を背負いつつ、頑張る人にエールを送る以外に手はないと思ったのです。
さて、私はどんな十字架を背負ったのか。
1.一番心配された、「感染症の拡大について」。確かに現在、予想された通りの感染の広がりがあり、危険です。しかし、この拡がりと、オリンピック開催との因果関係については、立証が難しい。
個人的には、現在猛烈に広がっている「デルタ株」よりも、さらに強力な「ラムダ株」の原因が、オリンピックにあるような、嫌な予感がしております。
いやな予感ほどよく当たるのが、今回のコロナウイルスなのが、さらに嫌なのですけどね。
2.続いて、お金の問題
観客が入らなかったことをはじめとする、数多くの損失を、私たち日本や、東京が負うということは、わかっていましたよね。
これがじわじわと、我々を苦しめていくであろうことは容易に想像できます。
コロナ対策を含め、現在の政府は、まるで元寇が去った後の鎌倉幕府になってしまうのではないか、という状況です。
なぜ、IOCは損失がないのでしょう?手を差し伸べてくれないのでしょうか?
アメリカのテレビ局は、なんだか、思ったほどの視聴率を稼げなかったとのことですが、私に言わせれば、ざまあみろでございます。
3.ほら見ろ暑いじゃないか IOCの正体を拡散せよ
前回にも触れたとおり、これについては日本側の責任もかなりあることが分かったので恥ずかしい限りで、申し訳ない。
しかし、こういっちゃなんだが、IOCだって知らないはずはなかったと思いますよ。日本の7,8月の不快指数。特に湿度。
「ほかの大会だって暑かった」「アスリートならばそのぐらい乗り越えられて当然」という意見もありましたが笑止千万
日本には、秋という、スポーツには最も良いパフォーマンスができる季節があり、その時期にアスリートを招けば、気持ちよく過ごしてもらえるし、
何よりも最高のパフォーマンスができる。
何度も触れますが、これも、アメリカのテレビ局の都合で勝手に決められた、「絶対のおきて」によって、時期をずらせなかったこと
早期に日本人の多くがこの鉄のおきてを知っていたら、東京誘致にそれほど積極的にはなれなかったはずです。
私たちがすべきは、このたわけたおきてがアメリカの視聴率のわがままで決められているということを世界中に知らしめること
IOCは、アスリートや開催地ファーストなどでは、決してない団体であり、金もうけ至上主義、資本を持っている機関の犬である、ということを知らしめることなのです。
若い世代には嘲笑されますが、我々年配の世代にとって、再び東京にオリンピックを呼ぶことは、悲願でありました。1964年の大会だって一筋縄ではいかない多くの苦難を抱えながらの開催だったとは聞いていますが、
それでも、開催できたことによる国民の喜び、国にもたらされた恩恵、オリンピック後のの日本の元気と国の成長は、すさまじいものがあったのです。
オリンピックって、すごいんだ。ある程度以上の年代の人たちが、共通でもっている感情です。って、私はそこよりは下の世代なんですけどね。伝わってくるんですもん。その思い。
しかし、今回のオリンピックが終わって(すみません、パラリンピックはまだではありますが)、国民が再びそのような思いになることは、考えられません。
時節柄不謹慎だからと、「復興五輪」は前面に押し出せなかった?
日本はあの震災の時、世界中からありがたい支援をいただきました。完全な復興には遠いとしても、このオリンピックで、ことあるごとに感謝の意を発信すればよかったじゃないですか。
復興を「誇る」のではなく、復興への「感謝」を前面に出していけばよかったのです。決して格好つける必要はない。
4.図らずも今回の東京オリンピックの特徴を瞬時にあぶりだしてしまったパリの映像
日本のメダリストたちがコメントをする際、口をそろえて「まず、この大会を開催させていただいた多くの関係者の皆さんへのご理解ご協力に感謝いたします」から始まるコメント
心の美しさに頭が下がりました。しかし、意地悪な言い方をすれば、これが、勝利を手放しで喜べない今回のオリンピックの状況を端的に表していたともいえます。
このコロナ禍は、世界中今まで経験したことのない状況です。閉会式で次回開催地:パリのパイロット映像が流れました。
凱旋門で、エッフェル塔で。街のみんなが気軽に足を運べるようなところがオリンピックの競技の会場になる。
私にはこの映像が、すごく魅力的に見えました。そしてその原因がすぐにわかりました。
「開放されているんだ」街に溶け込んだ、開かれた会場。なんて魅力的なのだろう。そしてこれが、パリが提示する、(悪意はないのでしょうが)東京へのアンチテーゼとして
見事なコントラストをなしていたのです。東京は、「in」。パリは、「out」。
そう、東京オリンピックは、一言でまとめれば、「閉鎖空間の中のオリンピック」でした。もちろん意図したものではありませんでしたが。
5.思いもよらぬところで騒がれた、IOCの無力さ
ベラルーシ陸上のティマノフスカヤ選手が、ポーランドに亡命したことはニュースでもよく取り上げられました。
代表チームの運営に疑問を持っていることを発信したところ、強制帰国を命じられた、ということで身の危険を感じ、亡命へ。
ティマノフスカヤ選手は、IOCの介入を要求し、現在、調査中とのことです。ベラルーシはここ数年、独裁の横暴さがとみに顕著になってきていると報じられております。
独裁のために選手の人権が危険にさらされるとしたら、オリンピック精神に最も外れたものとなります。
IOCは調査を開始すると言っておりますが、確かにここには政治、内政不干渉、などややこしい側面が立ちはだかることでしょう。
それでも、こういった選手を救うためにこそ、IOCは存在するのだと思います。
国の事情なんかより、一人のアスリートを尊重せよ
これが進まなかったら、いよいよIOCも、形だけの存在ということになってしまいます。
いくつか話は飛びましたが、感動をたくさんいただいたものの、いろんな疑問が残り、こんなことでは、日本の都市は今後一切、オリンピックを招致しようとは考えないでしょう。
アスリートを否定するつもりは毛頭ないですが、常に後味の悪い思いが付きまとったオリンピックでした。
以前私は、「今のIOCは、ノルマントン号だ。エルトゥールル号であるべきなのだ」と述べてきました。
IOCが、謙虚さをもち、金のある資本元の圧力に屈せず、アスリートの健康を考えて開催時期を柔軟に考え、開催地が感染症で困っているのを見たら少しは身銭を切ってワクチン供給や、その費用を捻出して寄付したり、
観客が入れない状態で財政がひっ迫するほどの赤字になりそうだと知ったのならば、同じく身銭を切るなり、オリンピック基金か何かで世界中から援助を求めるなど、開催地とともに力を合わせて困難を乗り越えてくれようとする姿勢を見せてくれていたら、私たちもこの団体を支持し、「いつか、街が元気になったらまた東京へ」ぐらい信頼もしたかもしれません。
でも今のIOCには、裏切られたという思いしかありません。「自分たちの団体さえ赤字にならなければいい」と公言しているのです。
恩は、何年たっても忘れることはありません。しかし、その逆もまたしかり、なのです。
前々回にも記したとおり、オリンピック、やると決まったのだから精いっぱい選手も応援して、見ました。すごく感激もしました。
これに関わったすさまじい人たちの思いの一端も知ることができ、学び、感動は今も新しい情報として入ってきます。
世界中のいろんな思い、情勢も知ることができました。考えさせられました。
もしも書くことができれば、紹介したいものがいくつもあります。
でも、やはり、決行したことによるしわ寄せ、後始末、負の遺産も明らかになりつつあるわけで、これが、「事前にわかっていた」私の背負うべき十字架なのです。
たとえは違いますが、先の大戦で戦争が終わった後、「だから私は最初から戦争は止めろと言っていたんだ」とか、
「みんなの責任だから、誰も責められるものではない。仕方がなかったのだ」とか、「私は正義を貫いたのだ。人に危険人物扱いされようと、私は戦争に反対していたというのに。」とか
そういうたぐいの人間にはなりたくありません。
どれだけ叫んでいても、決行を止めることはできなかったわけですから、また、そこまで命がけではなかったのですから、やることが決まった時点で、十字架を背負いつつ、頑張る人にエールを送る以外に手はないと思ったのです。
さて、私はどんな十字架を背負ったのか。
1.一番心配された、「感染症の拡大について」。確かに現在、予想された通りの感染の広がりがあり、危険です。しかし、この拡がりと、オリンピック開催との因果関係については、立証が難しい。
個人的には、現在猛烈に広がっている「デルタ株」よりも、さらに強力な「ラムダ株」の原因が、オリンピックにあるような、嫌な予感がしております。
いやな予感ほどよく当たるのが、今回のコロナウイルスなのが、さらに嫌なのですけどね。
2.続いて、お金の問題
観客が入らなかったことをはじめとする、数多くの損失を、私たち日本や、東京が負うということは、わかっていましたよね。
これがじわじわと、我々を苦しめていくであろうことは容易に想像できます。
コロナ対策を含め、現在の政府は、まるで元寇が去った後の鎌倉幕府になってしまうのではないか、という状況です。
なぜ、IOCは損失がないのでしょう?手を差し伸べてくれないのでしょうか?
アメリカのテレビ局は、なんだか、思ったほどの視聴率を稼げなかったとのことですが、私に言わせれば、ざまあみろでございます。
3.ほら見ろ暑いじゃないか IOCの正体を拡散せよ
前回にも触れたとおり、これについては日本側の責任もかなりあることが分かったので恥ずかしい限りで、申し訳ない。
しかし、こういっちゃなんだが、IOCだって知らないはずはなかったと思いますよ。日本の7,8月の不快指数。特に湿度。
「ほかの大会だって暑かった」「アスリートならばそのぐらい乗り越えられて当然」という意見もありましたが笑止千万
日本には、秋という、スポーツには最も良いパフォーマンスができる季節があり、その時期にアスリートを招けば、気持ちよく過ごしてもらえるし、
何よりも最高のパフォーマンスができる。
何度も触れますが、これも、アメリカのテレビ局の都合で勝手に決められた、「絶対のおきて」によって、時期をずらせなかったこと
早期に日本人の多くがこの鉄のおきてを知っていたら、東京誘致にそれほど積極的にはなれなかったはずです。
私たちがすべきは、このたわけたおきてがアメリカの視聴率のわがままで決められているということを世界中に知らしめること
IOCは、アスリートや開催地ファーストなどでは、決してない団体であり、金もうけ至上主義、資本を持っている機関の犬である、ということを知らしめることなのです。
若い世代には嘲笑されますが、我々年配の世代にとって、再び東京にオリンピックを呼ぶことは、悲願でありました。1964年の大会だって一筋縄ではいかない多くの苦難を抱えながらの開催だったとは聞いていますが、
それでも、開催できたことによる国民の喜び、国にもたらされた恩恵、オリンピック後のの日本の元気と国の成長は、すさまじいものがあったのです。
オリンピックって、すごいんだ。ある程度以上の年代の人たちが、共通でもっている感情です。って、私はそこよりは下の世代なんですけどね。伝わってくるんですもん。その思い。
しかし、今回のオリンピックが終わって(すみません、パラリンピックはまだではありますが)、国民が再びそのような思いになることは、考えられません。
時節柄不謹慎だからと、「復興五輪」は前面に押し出せなかった?
日本はあの震災の時、世界中からありがたい支援をいただきました。完全な復興には遠いとしても、このオリンピックで、ことあるごとに感謝の意を発信すればよかったじゃないですか。
復興を「誇る」のではなく、復興への「感謝」を前面に出していけばよかったのです。決して格好つける必要はない。
4.図らずも今回の東京オリンピックの特徴を瞬時にあぶりだしてしまったパリの映像
日本のメダリストたちがコメントをする際、口をそろえて「まず、この大会を開催させていただいた多くの関係者の皆さんへのご理解ご協力に感謝いたします」から始まるコメント
心の美しさに頭が下がりました。しかし、意地悪な言い方をすれば、これが、勝利を手放しで喜べない今回のオリンピックの状況を端的に表していたともいえます。
このコロナ禍は、世界中今まで経験したことのない状況です。閉会式で次回開催地:パリのパイロット映像が流れました。
凱旋門で、エッフェル塔で。街のみんなが気軽に足を運べるようなところがオリンピックの競技の会場になる。
私にはこの映像が、すごく魅力的に見えました。そしてその原因がすぐにわかりました。
「開放されているんだ」街に溶け込んだ、開かれた会場。なんて魅力的なのだろう。そしてこれが、パリが提示する、(悪意はないのでしょうが)東京へのアンチテーゼとして
見事なコントラストをなしていたのです。東京は、「in」。パリは、「out」。
そう、東京オリンピックは、一言でまとめれば、「閉鎖空間の中のオリンピック」でした。もちろん意図したものではありませんでしたが。
5.思いもよらぬところで騒がれた、IOCの無力さ
ベラルーシ陸上のティマノフスカヤ選手が、ポーランドに亡命したことはニュースでもよく取り上げられました。
代表チームの運営に疑問を持っていることを発信したところ、強制帰国を命じられた、ということで身の危険を感じ、亡命へ。
ティマノフスカヤ選手は、IOCの介入を要求し、現在、調査中とのことです。ベラルーシはここ数年、独裁の横暴さがとみに顕著になってきていると報じられております。
独裁のために選手の人権が危険にさらされるとしたら、オリンピック精神に最も外れたものとなります。
IOCは調査を開始すると言っておりますが、確かにここには政治、内政不干渉、などややこしい側面が立ちはだかることでしょう。
それでも、こういった選手を救うためにこそ、IOCは存在するのだと思います。
国の事情なんかより、一人のアスリートを尊重せよ
これが進まなかったら、いよいよIOCも、形だけの存在ということになってしまいます。
いくつか話は飛びましたが、感動をたくさんいただいたものの、いろんな疑問が残り、こんなことでは、日本の都市は今後一切、オリンピックを招致しようとは考えないでしょう。
アスリートを否定するつもりは毛頭ないですが、常に後味の悪い思いが付きまとったオリンピックでした。
以前私は、「今のIOCは、ノルマントン号だ。エルトゥールル号であるべきなのだ」と述べてきました。
IOCが、謙虚さをもち、金のある資本元の圧力に屈せず、アスリートの健康を考えて開催時期を柔軟に考え、開催地が感染症で困っているのを見たら少しは身銭を切ってワクチン供給や、その費用を捻出して寄付したり、
観客が入れない状態で財政がひっ迫するほどの赤字になりそうだと知ったのならば、同じく身銭を切るなり、オリンピック基金か何かで世界中から援助を求めるなど、開催地とともに力を合わせて困難を乗り越えてくれようとする姿勢を見せてくれていたら、私たちもこの団体を支持し、「いつか、街が元気になったらまた東京へ」ぐらい信頼もしたかもしれません。
でも今のIOCには、裏切られたという思いしかありません。「自分たちの団体さえ赤字にならなければいい」と公言しているのです。
恩は、何年たっても忘れることはありません。しかし、その逆もまたしかり、なのです。