③学校はどのような態度をとったか、その意図は
あの事件の中、最も叩かれたところはどこか。それは、学校でした。
「いじめはなかった」「いじめはあった」「意識がもうろうとして」などの言葉が何十回となくテレビで放映されました。
そして、今まで見てきた事件と違って「珍しいな」と思ったのは、事件直後の夜遅くに校長たちが遺族の家に来て話している様子が、ビデオに録画されていることでした。
おそらく、遺族の父親には、いじめにかかわることだと直感し、学校側の対応にごまかしがないかどうか、証拠として残したいと思い、事前にビデオをセットしたのでしょう。
とすれば、そのビデオ本体は、かなりの長時間録画されているはずです。
しかし、テレビで放映された部分は、非常に特徴的なところを、恣意的と思われるほど執拗に流されていたしか思えません。
…と、その前に。
素人の私が言うのもなんですが、私は、あの時の校長らの対応の中で、非常にまずかったと思うのは、いじめの有無について、当時の所感をそれほど重い責任を持たずに口にしたと思われるところです。
事件からあれだけの時間しかたっていないのですから、本来ならば、どれだけ遺族から尋ねられても、「現在調査中です」「現在断言できる状況にありません」を徹底的に通さなければならなかったところです。実際そうだったのですから。
が、「意識がもうろうとし」は事実だったのでしょう。何らかのはずみで個人的な印象を語ってしまった、ように私は想像します。
マスコミがそれを逃すはずがありません。その部分だけを切り取り、全国放送で流します。当然それを見た視聴者は、やれ隠ぺいだ、保身だと叩きます。で、再三再四校長らが記者会見に臨まなければならなくなるわけです。そのたび言葉尻を捕まえたマスコミが、「二転三転」。
この時、視聴者は「ばか」にさせられました。
事件の本質は、学校の責任者を弾圧することで何とかなるものなのか。違うでしょう。
あの時校長側がはじめに「いじめはなかった」発言をしたのには、意図があったと思われるふしもあるのです。
ひとつ目に、確かにあの頃、「いじめがあった」という発言をすれば、猛烈にヒステリックに各方面から、「何というひどいことだ。いじめの存在など、この世で最も許せないことだ。」と言われる時代であったことは間違いありません。あれからたった3年で、ずいぶん世の中、変わったものです。
「いじめがあった」発言は、学校倒産宣言をするのに等しい、極めて最終段階に等しい発言だった時代です。
もうひとつのこと、これが重要です。
校長が保身に走っての「いじめはなかった」発言?その反対です。
もしも、まだ確証のない段階であるにもかかわらず、いじめがあったかどうか、何が何でもイエスかノーかの返事をしなければならないと責められた時、教育者ならばどうするか。
(もちろん本来ならば、どれだけ叩かれようと、「調査中です」が正解なのだが)
やはり、「ノー」と答えるしかなかったでしょう。それはなぜか。
非常に酷な話ですが、自殺した子の人生はそこで終わってしまいました。しかし、関わった生徒たち、または、関わっていない生徒たちも合わせ、こちら側の生徒は、まだ生きているのです。将来があるのです。
まだ確証のないところで、いじめがあった、などとは、どうしても言えないのです。言ってしまったら、その段階で、その子たちの人生は決定してしまいます。当然学校にも来なくなるでしょう。確認してみて、いじめの存在が明らかであったのならば、責任者の校長が後でどれだけでも頭を下げれば済むこと。それまでは、「現在生きている」自分の学校の生徒の人権と、精神の安定を最優先しなければなりません。あの発言は、ギリギリのところで、かろうじて生徒を守った校長の行動です。
しかし、マスコミと被害者家族には、その意図が見抜けなかった。特にマスコミの、「現在生きている」生徒の人権、精神衛生を虫けらほどとも思わぬ傍若無人なスクープ根性は、下劣極まりないものでした。
映像の選択、その報道の仕方、すべてにおいて「現在生きている生徒」に不安と不信をあおるようなことしかしませんでした。事態は、学校が恐れていた、最悪の方向に進んで行きました。
生徒を守れない方向に一直線だったのです。
マスコミはどうするべきであったか。マスコミに本当のジャーナリズム精神があったのならば、「学校の対応」などという安易なところに世論の批判の矛先を向けさせるような報道の仕方をするのではなく、自分の足で稼いで広くいろんな立場の声を集めるべきだったのではないでしょうか。町の声を聞く。保護者の声を聞く。当時の学校の状況を調べる。
それだけのことで、多少は客観的な報道もできたはずです。学校発信の記者会見が信用できないならば、学校を批判する前に、自分たちで真実に迫ればいい。学校を批判したことによって、生徒はどうなるか。ちょっと想像すれば分かりそうなことです。
事実、どこかの学校と違い、この学校の教師たちについて、ひどいと思われる教師像は出てこなかった。
結局マスコミは、安易に情報が入る、被害者家族からの発言、行動のみを頼りに、このあと何年間も一方的な視点しかない報道を続けていくことになりました。
その陰で、現在進行形で人生を送っている生徒たちの実像には、「視聴者であるPTA様から止められているから」という理由だけで、全く迫ろうとしませんでした。
多くの生徒の人生が、ゆがめられてきたのです。マスコミがその責任をとろうとしないというのは、ずいぶん横暴な話です。報道した者勝ち、という姿勢です。何が社会の木鐸なのでしょうか。
あの事件の中、最も叩かれたところはどこか。それは、学校でした。
「いじめはなかった」「いじめはあった」「意識がもうろうとして」などの言葉が何十回となくテレビで放映されました。
そして、今まで見てきた事件と違って「珍しいな」と思ったのは、事件直後の夜遅くに校長たちが遺族の家に来て話している様子が、ビデオに録画されていることでした。
おそらく、遺族の父親には、いじめにかかわることだと直感し、学校側の対応にごまかしがないかどうか、証拠として残したいと思い、事前にビデオをセットしたのでしょう。
とすれば、そのビデオ本体は、かなりの長時間録画されているはずです。
しかし、テレビで放映された部分は、非常に特徴的なところを、恣意的と思われるほど執拗に流されていたしか思えません。
…と、その前に。
素人の私が言うのもなんですが、私は、あの時の校長らの対応の中で、非常にまずかったと思うのは、いじめの有無について、当時の所感をそれほど重い責任を持たずに口にしたと思われるところです。
事件からあれだけの時間しかたっていないのですから、本来ならば、どれだけ遺族から尋ねられても、「現在調査中です」「現在断言できる状況にありません」を徹底的に通さなければならなかったところです。実際そうだったのですから。
が、「意識がもうろうとし」は事実だったのでしょう。何らかのはずみで個人的な印象を語ってしまった、ように私は想像します。
マスコミがそれを逃すはずがありません。その部分だけを切り取り、全国放送で流します。当然それを見た視聴者は、やれ隠ぺいだ、保身だと叩きます。で、再三再四校長らが記者会見に臨まなければならなくなるわけです。そのたび言葉尻を捕まえたマスコミが、「二転三転」。
この時、視聴者は「ばか」にさせられました。
事件の本質は、学校の責任者を弾圧することで何とかなるものなのか。違うでしょう。
あの時校長側がはじめに「いじめはなかった」発言をしたのには、意図があったと思われるふしもあるのです。
ひとつ目に、確かにあの頃、「いじめがあった」という発言をすれば、猛烈にヒステリックに各方面から、「何というひどいことだ。いじめの存在など、この世で最も許せないことだ。」と言われる時代であったことは間違いありません。あれからたった3年で、ずいぶん世の中、変わったものです。
「いじめがあった」発言は、学校倒産宣言をするのに等しい、極めて最終段階に等しい発言だった時代です。
もうひとつのこと、これが重要です。
校長が保身に走っての「いじめはなかった」発言?その反対です。
もしも、まだ確証のない段階であるにもかかわらず、いじめがあったかどうか、何が何でもイエスかノーかの返事をしなければならないと責められた時、教育者ならばどうするか。
(もちろん本来ならば、どれだけ叩かれようと、「調査中です」が正解なのだが)
やはり、「ノー」と答えるしかなかったでしょう。それはなぜか。
非常に酷な話ですが、自殺した子の人生はそこで終わってしまいました。しかし、関わった生徒たち、または、関わっていない生徒たちも合わせ、こちら側の生徒は、まだ生きているのです。将来があるのです。
まだ確証のないところで、いじめがあった、などとは、どうしても言えないのです。言ってしまったら、その段階で、その子たちの人生は決定してしまいます。当然学校にも来なくなるでしょう。確認してみて、いじめの存在が明らかであったのならば、責任者の校長が後でどれだけでも頭を下げれば済むこと。それまでは、「現在生きている」自分の学校の生徒の人権と、精神の安定を最優先しなければなりません。あの発言は、ギリギリのところで、かろうじて生徒を守った校長の行動です。
しかし、マスコミと被害者家族には、その意図が見抜けなかった。特にマスコミの、「現在生きている」生徒の人権、精神衛生を虫けらほどとも思わぬ傍若無人なスクープ根性は、下劣極まりないものでした。
映像の選択、その報道の仕方、すべてにおいて「現在生きている生徒」に不安と不信をあおるようなことしかしませんでした。事態は、学校が恐れていた、最悪の方向に進んで行きました。
生徒を守れない方向に一直線だったのです。
マスコミはどうするべきであったか。マスコミに本当のジャーナリズム精神があったのならば、「学校の対応」などという安易なところに世論の批判の矛先を向けさせるような報道の仕方をするのではなく、自分の足で稼いで広くいろんな立場の声を集めるべきだったのではないでしょうか。町の声を聞く。保護者の声を聞く。当時の学校の状況を調べる。
それだけのことで、多少は客観的な報道もできたはずです。学校発信の記者会見が信用できないならば、学校を批判する前に、自分たちで真実に迫ればいい。学校を批判したことによって、生徒はどうなるか。ちょっと想像すれば分かりそうなことです。
事実、どこかの学校と違い、この学校の教師たちについて、ひどいと思われる教師像は出てこなかった。
結局マスコミは、安易に情報が入る、被害者家族からの発言、行動のみを頼りに、このあと何年間も一方的な視点しかない報道を続けていくことになりました。
その陰で、現在進行形で人生を送っている生徒たちの実像には、「視聴者であるPTA様から止められているから」という理由だけで、全く迫ろうとしませんでした。
多くの生徒の人生が、ゆがめられてきたのです。マスコミがその責任をとろうとしないというのは、ずいぶん横暴な話です。報道した者勝ち、という姿勢です。何が社会の木鐸なのでしょうか。