カミングアウトもしちゃったし、ここからはバシバシ書くぞぉ。考えすぎると台無しになることもあるだろうから、これからは勢い重視で書こうかな。でも、誰も読んでくれなかったらどうしよう(笑)。あゆについてはね、カテゴリーを専用に分けようかとも思ったくらいなんだけど、カテゴリーを分けることでなくて、それをぶち壊す(笑)ことが目的のようなもんなんだから、分けるのはおかしいだろと。潜伏期間(笑)が長かったもんで(って程でもないか)、書きたいこと溜まりすぎ。それプラス、取り扱う存在が大きいもんで、それなりに労力も要るわけですよ。誰も知らないアーティストについて書くことほど簡単なことはない。ビートルズや浜崎あゆみについて書くことがどれくらい難しいことか。
とりあえず今回は、「嫌い」から「好き」に、どのように変わっていったかを書ければ良いなと思っています。まぁ、あゆに興味がなくても読んでやって下さい。私のバカっぷりを笑ってくれれば。キモヲタ文章なのはご勘弁を(笑)。
私は浜崎あゆみが嫌いだった。こういうのが売れるんだろうというのをやってるだけな気がして。ちょっと前にブームだった、小室系、特にglobeの真似ごとみたいな感じがしたし(globeが嫌いなわけではない。真似ごとな感じが嫌だったのだ)。最初に彼女の存在を知ったのがいつだったのか覚えてないが、新聞に「浜崎あゆみはバカじゃない」とかいうキャッチフレーズの広告が載っていたのは覚えている。「は? “バカじゃない”も何もあなたのこと知らないんですけど?」みたいな(笑)。そんなこんなで、特に気にとめていなかったが、彼女の名が世間に知れ渡ってきて、その音楽も耳にするようになり、テレビで歌っているところも見かけるようになった(その頃、仕事が忙しくてあまり記憶にないんだけどね)。が、やっぱり、私の感想は「こんなの、こういうのが売れるだろうっていうのをやってるだけじゃん!」だった。第一、生意気そう! 何あの鼻にかかった喋り方! こいつ、完全に世の中を舐めとる~!だった(笑)。生意気なのはどっちだ?っちゅう話なのだが(笑)。そう言えば、よくよく思い返してみれば、私は椎名林檎に対しても、「生意気そう」という第一印象を持っていたのだった。「ここでキスして。」や『無罪モラトリアム』を最初に聴いたとき、「うわぁ~、生意気そう」って。それが今や……ねぇ? 林檎ちゃんについてはその後す~ぐ好きになってしまったのでそんな風に思っていたことさえ忘れかけていたが、基本的に今でも林檎ちゃんもあゆも生意気だと思っている。「何こいつ?」という第一印象のままだ。つまり、悔しいくらい大好き(笑)。
当時私が勤めていた会社でも、彼女の話題が出て、「浜崎あゆみって歌詞には英語を使わないことにしてるんだって。対して、タイトルは曲に対する先入観やイメージの束縛をできるだけなくすために英語なんだって。衣装とかネイルとかビジュアル面も全部自分で考えてやってるんだって」、「へぇ、意外としっかり考えてるんだ~」というような会話が交わされたりしたが、心の中で「な~にが、そんなこと」と思っていた(うわぁ、私こそ嫌な奴!)。数年後にはその中の誰よりも……(笑)。というわけで、彼女の何も聴かず見ずして、私の中で彼女への扉は最初から閉ざされていたようなものだった。その後、人気はウナギのぼり。好き嫌いに関わらず、彼女の情報がどんどんどんどん流れ込んできた。3枚目『Duty』(2000年9月)あたりから音楽性や作風が変化してきたのは、その頃の私も何とな~くは感じていたのだが、最初の印象は簡単には払拭されず、そのような彼女の変化や意志を受け止めることはできなかった。コテコテというかベッタベタなロック・サウンドに乗せて、<wow yeah wow yeah wow yeah>と歌われた日には、ロックのロの字も知らないで<wow yeah>なんて気やすく歌うんじゃない!と思っていたし、<いつか永遠の眠りにつく日まで>と歌われたときには、たやすく死を匂わせるような歌を歌うんじゃない!と思っていた。<自由を右手に 愛なら左手に>では私でも書けるわい!と思ったりしていた。うわー、私ってば本格的に嫌な奴。サイテーだよ。お前は何様だよ。我ながら笑える話だ。というか笑うしかない。ああ恥ずかしい。分かってないのはどっちだ? 気やすく言ってるのはどっちだ? ロックのロの字も知らないのはどっちだ? いつからロックを知ったんだ? 音楽は誰のものでもないのにねぇ。そうやって何かにつけ気にしてることもおかしい。いちいち文句つけたりしてさ。その時点でおかしいんだよね。パワー使ってんだから。私って、大体、好きか何とも思ってないかのどちらかだから、こんな風に過剰に反応していること自体、おかしい。そんでもって、それをちゃんと覚えているんだから。『恋のから騒ぎ』に彼女が出たときも、さんまさんから「どんな音楽が好きか」という質問がレギュラー女性陣に投げかけられ、「リンプ・ビズキット」と答えた女性に対して、「ハード・コアな人達ですよね」と彼女が返していて、「ふーん。知ってるんだ」とか思ってた気がする。ぐわあ~、つくづく私、嫌な奴。ほんと、どっちが生意気だよ!
多分、私は、嫌いと言うより、何かが怖かったんだと思う。その理由は色々あると思うけど、例えば、すごい機械っぽい気がした。サイボーグみたいな気がした。どんな表情で歌っていても、無表情な気がした。彼女は、衣装とかネイルとかメイクとかビジュアル面を語られることが多いけど、そうやって着飾れば着飾るほど、彼女の心の中の空っぽさみたいなものが迫ってくるようだった。曲もなんか、好き嫌いは別として、機械みたいというか計算されたというか、どんなに良くできていても、機械的で記号的な感じがした。それが、ただただ売れるものを作ってるだけという印象に繋がったんだろうし、その空虚さが怖かったんだと思う。よく分かんないけど、これを認めてしまったらいけないような気がした。彼女の前では、音楽すら無意味なんだっていうか。音楽がそこにあるはずなのに、空っぽ。音楽でさえ、それを埋められないんだ、みたいなね。だから、それを認めてしまったら、音楽の負けのような気がしたのかも知れない。だから、認めたくなかったのかも知れない。怖かったのかも知れない。それがまぁデビュー(1998年)から1~2年くらいの印象で、その最初の印象が植え付けられちゃったから、それ以降、聴こうとも見ようともしなかったんだろうなぁ。
それから何年かたったある日――。あれは年末だったかなぁ。ボーッとテレビを見るともなく見ていたら、もうそれが何の番組だったかとか忘れてしまったのだけど、多分年末によくある特別番組で、色んなアーティストが出てたんだよね。で、あゆも出てきたわけよ。「浜崎あゆみさんです」とか司会の人が言って、で、彼女が出てきて歌ったわけ。なんか野外だったような気がするな。お客さんもいた。で、なんの歌だか分かんないんだけど、多分「Voyage」って歌で(歌ったのは1曲じゃなくて2曲目にこれを歌ったような気がする…)、まぁ、歌ったわけよ。で、そのときにドキッっていうかゾクッっていうか、この人もしや?!って思ってしまって、まぁ、それが大きなキッカケだったわけだけど、その衝撃は今でも覚えてるんだけど、それを言葉で説明するのは非常に難しいんだよなぁ。とてももどかしい。何だったんだろうなぁ、あれは(もう1回見たいよー)。それまで彼女のことをずっと見ていたわけじゃないからこんなことは言えないんだけど、今までにない優しさを感じた気がしたんだよなぁ。今まで私が彼女に抱いていた感情がすべて引っくり返されてしまうような。そのときに何が起こったのか今でもよく分からないけど、「本当のような嘘」だと思っていたものが「嘘のような本当」だったのかも知れないと気付かされた瞬間って感じかなぁ。あの日、私の中の何かが引っくり返されたのだけは確かかも知れない。私はロックのロの字も知らないけれど、価値観を覆すものをロックだとかパンクだとか言うのならば、浜崎あゆみは私にとってロックでありパンクなのかも知れないとさえ……。
こんなことを言ったら語弊があるかも知れないけど、とりあえず、そのときは、曲も歌詞も、衣装だとかのビジュアルも、私にとってはどーでも良かったの。ただただ、彼女の歌声や表情に、なんていうか、「きた」のだ。なんでこの人はこんなに満たされたような表情(声)をして歌えているんだろう。彼女の周りだけ、ぽわわ~んって特別な空気があって、その中で彼女は確かに生きている。そんな感じだった。そしてそれは確かに「音楽」の中で、音楽に囲まれて、だった。音楽の中で自分を確立しようとしていたというか、その音楽がどんなものであろうと、彼女にとってはそこがまぎれもなく自分の「居場所」だったんだというか。彼女が本当に伝えたかったのはこれだったんじゃないかみたいな。それを見てしまった。そんな気がした。できれば気付きたくなかったような、そんな気さえする。私は彼女の99%が嫌いだったのかも知れない。でも、残りの1%。それをその瞬間に見せ付けられたのかも知れない。その1%はきっとずっと最初からあった。機械のような99%の空虚さの中でも、その1%はかろうじて死なずにいた。その1%を守り抜いてきた。すべてはその1%のためにあった――きっとそのとき私の中で何かが逆転してしまったんだ。
すべてはその歌声であり歌ってる姿から感じたこと。私にとっては、浜崎あゆみとは、その歌詞でも曲でもなく、ましてや衣装だとかビジュアルでもなく、言動なんかでもなく、「歌声」や「歌ってる姿」にあるのかも知れない。逆に言えば、そういった色々な面のすべてが「歌声」であり「歌ってる姿」に集約されている。私にはそんな気がしてならない。
と言いつつも、ちゃんと(?)好きになるのはまだ先の話で……。第一印象の呪縛は根強いのです(笑)。つづきはまた今度。
ああ、キモくて熱くて長くてゴメンなさい。やっぱり最初だから真面目に書こうと思ったらこんなに……。不真面目(?)にも書きたいところだけれども。笑いも入れたつもりなんだけれども。続きはもっと軽く書けるかと。
続き → 「ワインディング・ロード」
とりあえず今回は、「嫌い」から「好き」に、どのように変わっていったかを書ければ良いなと思っています。まぁ、あゆに興味がなくても読んでやって下さい。私のバカっぷりを笑ってくれれば。キモヲタ文章なのはご勘弁を(笑)。
私は浜崎あゆみが嫌いだった。こういうのが売れるんだろうというのをやってるだけな気がして。ちょっと前にブームだった、小室系、特にglobeの真似ごとみたいな感じがしたし(globeが嫌いなわけではない。真似ごとな感じが嫌だったのだ)。最初に彼女の存在を知ったのがいつだったのか覚えてないが、新聞に「浜崎あゆみはバカじゃない」とかいうキャッチフレーズの広告が載っていたのは覚えている。「は? “バカじゃない”も何もあなたのこと知らないんですけど?」みたいな(笑)。そんなこんなで、特に気にとめていなかったが、彼女の名が世間に知れ渡ってきて、その音楽も耳にするようになり、テレビで歌っているところも見かけるようになった(その頃、仕事が忙しくてあまり記憶にないんだけどね)。が、やっぱり、私の感想は「こんなの、こういうのが売れるだろうっていうのをやってるだけじゃん!」だった。第一、生意気そう! 何あの鼻にかかった喋り方! こいつ、完全に世の中を舐めとる~!だった(笑)。生意気なのはどっちだ?っちゅう話なのだが(笑)。そう言えば、よくよく思い返してみれば、私は椎名林檎に対しても、「生意気そう」という第一印象を持っていたのだった。「ここでキスして。」や『無罪モラトリアム』を最初に聴いたとき、「うわぁ~、生意気そう」って。それが今や……ねぇ? 林檎ちゃんについてはその後す~ぐ好きになってしまったのでそんな風に思っていたことさえ忘れかけていたが、基本的に今でも林檎ちゃんもあゆも生意気だと思っている。「何こいつ?」という第一印象のままだ。つまり、悔しいくらい大好き(笑)。
当時私が勤めていた会社でも、彼女の話題が出て、「浜崎あゆみって歌詞には英語を使わないことにしてるんだって。対して、タイトルは曲に対する先入観やイメージの束縛をできるだけなくすために英語なんだって。衣装とかネイルとかビジュアル面も全部自分で考えてやってるんだって」、「へぇ、意外としっかり考えてるんだ~」というような会話が交わされたりしたが、心の中で「な~にが、そんなこと」と思っていた(うわぁ、私こそ嫌な奴!)。数年後にはその中の誰よりも……(笑)。というわけで、彼女の何も聴かず見ずして、私の中で彼女への扉は最初から閉ざされていたようなものだった。その後、人気はウナギのぼり。好き嫌いに関わらず、彼女の情報がどんどんどんどん流れ込んできた。3枚目『Duty』(2000年9月)あたりから音楽性や作風が変化してきたのは、その頃の私も何とな~くは感じていたのだが、最初の印象は簡単には払拭されず、そのような彼女の変化や意志を受け止めることはできなかった。コテコテというかベッタベタなロック・サウンドに乗せて、<wow yeah wow yeah wow yeah>と歌われた日には、ロックのロの字も知らないで<wow yeah>なんて気やすく歌うんじゃない!と思っていたし、<いつか永遠の眠りにつく日まで>と歌われたときには、たやすく死を匂わせるような歌を歌うんじゃない!と思っていた。<自由を右手に 愛なら左手に>では私でも書けるわい!と思ったりしていた。うわー、私ってば本格的に嫌な奴。サイテーだよ。お前は何様だよ。我ながら笑える話だ。というか笑うしかない。ああ恥ずかしい。分かってないのはどっちだ? 気やすく言ってるのはどっちだ? ロックのロの字も知らないのはどっちだ? いつからロックを知ったんだ? 音楽は誰のものでもないのにねぇ。そうやって何かにつけ気にしてることもおかしい。いちいち文句つけたりしてさ。その時点でおかしいんだよね。パワー使ってんだから。私って、大体、好きか何とも思ってないかのどちらかだから、こんな風に過剰に反応していること自体、おかしい。そんでもって、それをちゃんと覚えているんだから。『恋のから騒ぎ』に彼女が出たときも、さんまさんから「どんな音楽が好きか」という質問がレギュラー女性陣に投げかけられ、「リンプ・ビズキット」と答えた女性に対して、「ハード・コアな人達ですよね」と彼女が返していて、「ふーん。知ってるんだ」とか思ってた気がする。ぐわあ~、つくづく私、嫌な奴。ほんと、どっちが生意気だよ!
多分、私は、嫌いと言うより、何かが怖かったんだと思う。その理由は色々あると思うけど、例えば、すごい機械っぽい気がした。サイボーグみたいな気がした。どんな表情で歌っていても、無表情な気がした。彼女は、衣装とかネイルとかメイクとかビジュアル面を語られることが多いけど、そうやって着飾れば着飾るほど、彼女の心の中の空っぽさみたいなものが迫ってくるようだった。曲もなんか、好き嫌いは別として、機械みたいというか計算されたというか、どんなに良くできていても、機械的で記号的な感じがした。それが、ただただ売れるものを作ってるだけという印象に繋がったんだろうし、その空虚さが怖かったんだと思う。よく分かんないけど、これを認めてしまったらいけないような気がした。彼女の前では、音楽すら無意味なんだっていうか。音楽がそこにあるはずなのに、空っぽ。音楽でさえ、それを埋められないんだ、みたいなね。だから、それを認めてしまったら、音楽の負けのような気がしたのかも知れない。だから、認めたくなかったのかも知れない。怖かったのかも知れない。それがまぁデビュー(1998年)から1~2年くらいの印象で、その最初の印象が植え付けられちゃったから、それ以降、聴こうとも見ようともしなかったんだろうなぁ。
それから何年かたったある日――。あれは年末だったかなぁ。ボーッとテレビを見るともなく見ていたら、もうそれが何の番組だったかとか忘れてしまったのだけど、多分年末によくある特別番組で、色んなアーティストが出てたんだよね。で、あゆも出てきたわけよ。「浜崎あゆみさんです」とか司会の人が言って、で、彼女が出てきて歌ったわけ。なんか野外だったような気がするな。お客さんもいた。で、なんの歌だか分かんないんだけど、多分「Voyage」って歌で(歌ったのは1曲じゃなくて2曲目にこれを歌ったような気がする…)、まぁ、歌ったわけよ。で、そのときにドキッっていうかゾクッっていうか、この人もしや?!って思ってしまって、まぁ、それが大きなキッカケだったわけだけど、その衝撃は今でも覚えてるんだけど、それを言葉で説明するのは非常に難しいんだよなぁ。とてももどかしい。何だったんだろうなぁ、あれは(もう1回見たいよー)。それまで彼女のことをずっと見ていたわけじゃないからこんなことは言えないんだけど、今までにない優しさを感じた気がしたんだよなぁ。今まで私が彼女に抱いていた感情がすべて引っくり返されてしまうような。そのときに何が起こったのか今でもよく分からないけど、「本当のような嘘」だと思っていたものが「嘘のような本当」だったのかも知れないと気付かされた瞬間って感じかなぁ。あの日、私の中の何かが引っくり返されたのだけは確かかも知れない。私はロックのロの字も知らないけれど、価値観を覆すものをロックだとかパンクだとか言うのならば、浜崎あゆみは私にとってロックでありパンクなのかも知れないとさえ……。
こんなことを言ったら語弊があるかも知れないけど、とりあえず、そのときは、曲も歌詞も、衣装だとかのビジュアルも、私にとってはどーでも良かったの。ただただ、彼女の歌声や表情に、なんていうか、「きた」のだ。なんでこの人はこんなに満たされたような表情(声)をして歌えているんだろう。彼女の周りだけ、ぽわわ~んって特別な空気があって、その中で彼女は確かに生きている。そんな感じだった。そしてそれは確かに「音楽」の中で、音楽に囲まれて、だった。音楽の中で自分を確立しようとしていたというか、その音楽がどんなものであろうと、彼女にとってはそこがまぎれもなく自分の「居場所」だったんだというか。彼女が本当に伝えたかったのはこれだったんじゃないかみたいな。それを見てしまった。そんな気がした。できれば気付きたくなかったような、そんな気さえする。私は彼女の99%が嫌いだったのかも知れない。でも、残りの1%。それをその瞬間に見せ付けられたのかも知れない。その1%はきっとずっと最初からあった。機械のような99%の空虚さの中でも、その1%はかろうじて死なずにいた。その1%を守り抜いてきた。すべてはその1%のためにあった――きっとそのとき私の中で何かが逆転してしまったんだ。
すべてはその歌声であり歌ってる姿から感じたこと。私にとっては、浜崎あゆみとは、その歌詞でも曲でもなく、ましてや衣装だとかビジュアルでもなく、言動なんかでもなく、「歌声」や「歌ってる姿」にあるのかも知れない。逆に言えば、そういった色々な面のすべてが「歌声」であり「歌ってる姿」に集約されている。私にはそんな気がしてならない。
と言いつつも、ちゃんと(?)好きになるのはまだ先の話で……。第一印象の呪縛は根強いのです(笑)。つづきはまた今度。
ああ、キモくて熱くて長くてゴメンなさい。やっぱり最初だから真面目に書こうと思ったらこんなに……。不真面目(?)にも書きたいところだけれども。笑いも入れたつもりなんだけれども。続きはもっと軽く書けるかと。
続き → 「ワインディング・ロード」