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sky is blue

言わなければよかったのに日記

カボチャの重さは思い出の重さ

2005-03-22 23:06:27 | その他
出会いってのは、本当にいつどこでどんな風に訪れるか分からないもんだなぁ。誘われなければ見に行くこともなかったであろうラーメンズの舞台に行って、興味が沸いたから映像作品を見てみようとレンタルへ行って、そしたら、あいにくラーメンズ単独は全て貸し出し中。でも、何だかどうしても見たくて、単独じゃなくてもラーメンズが出てるの何かないかなと探していたら、おぎやはぎとバナナマンと一緒にやったという『君の席』というDVDならあった。しかも、返却されたばっかのケースなしのがドサッとランダムに積んであるところで見つけた。1~3とライヴというのがあって、とりあえず1~3を借りてみた。

ラーメンズを見るために借りたんだから、当然、私の注意もラーメンズに集中するわけです。しかし、私の心はだんだんとじわじわと……このバナナマンって人達、気になる~~~!!

ラーメンズもおぎやはぎも良かったんだけど、バナナマンの引力に負けてしまったぁ。バナナマン。名前しか知らなかったですよ。お笑い全然詳しくないし。どうやら、設楽統(したらおさむ)と日村勇紀(ひむらゆうき)の男性2人組らしい。とにかく、なんか、気になる~! ラーメンズを見るつもりが、こっちに引っかかるとは…。『君の席』でのバナナマンがどうだったかと言うと、まず、演技が上手い! いや、ラーメンズも上手いんですけど(おぎやはぎも味が出てた)、こちらはなんて言うか人間離れした上手さ(笑)で、それに対してバナナマンは、ハートで演じる(笑)っていうか、ハートをくすぐるんですよぉ、私のハートを!(私のツボに合うのかも) 人情味があるというか温かいんですよねぇ。でも、クサくはなくて(ちょびっとクサいのかも)、爽快なんだよなぁ。

『君の席』では、ラーメンズはちょっと控え目だったのかも。でも、一緒に入ってた単独コントの「デジャビュ」のやつとか凄かったな~やっぱり。短い中に色んなもんが入ってて、短時間で長時間を描く! そこにあるものでそこにないものを描く!みたいな。単独コントは、バナナマンのも良かったよ。しかし一番得体の知れないのはラーメンズ小林賢太郎かも…?

そんなこんなで、バナナマン単独の『ペポカボチャ』を借りてみたんです(『君の席』のライヴのやつも)。やっぱりイイ! 設楽さんも日村さんも、こういう人いるよなぁって思うんだけど、でも、いそうでいない。お笑い詳しくないけど、設楽さんみたいな雰囲気の人って珍しいんじゃない? っていうか、日村さんラヴ!(笑) もー、カワイイー! ちなみに、変な顔…いやいや、特徴のある顔の方が日村さんです(笑)。コントの中で設楽さんに「日村って純粋じゃん」って言われてたけど、うん、なんか純粋な気がするー!

で、日村さんは『君の席』でもギターを弾きながら歌を披露してたけど、『ペポカボチャ』では、2人でフォークデュオ「赤えんぴつ」に扮したコントをやっていて、これがまた、設楽さんが良い声してるんだよねぇ。日村さん、ギターお得意なのね。「出たところに僕達のカセットテープが売ってます」って言ってたけど、本当に売ったらしい。そして完売したらしい。「買ってくれた人、ごめんなさい」ってコメントに書いてあった(笑)。というか、ライヴ見たい。

大まかにどういう感じかっていうと、ラーメンズが頭を使う知的な笑いだとすると、バナナマンは心で笑う笑い、かなぁ。ラーメンズは考える余韻を残していくけど、バナナマンは人間って良いなっていうか見る前より人間が好きになってそうな余韻(別にラーメンズと比較して言う必要もないんだけど)。お笑いについて何かを言えるほど、全然お笑いに詳しくないし考えてみたこともないんだけど。とりあえず、分かりづらいってことはないかな。分かりやすいと思う。日常の盲点っていうか灯台下暗しっていうか、ここから拾ってきたか! でも、こういうことある気がするー!って面白さ? 取り上げたのが「カボチャ」ってところにも特徴出てるかも。思いつきそうで思いつかない。身近なようでいてちょっと飛んでいる。野菜なんだけどお菓子みたいに甘い(?)。で、演技が上手い。ほとんど内容のないのもあるけど、ストーリー仕立てのやつは、日常のほんの小さな一場面なんだけど、ストーリーがちゃんとしてるし(そういうのがメインだと思う)。お芝居見るつもりで見てもいけるかも。でね~、とにかくキャラが良いんだよねぇ。さっきも言ったけど、こういう人いるいるー!って面白さなんだけど、でも、いそうでいないかもという。見る前より人間が好きになってそうな、そんな人間お笑い劇。まだ1本しか見てなくて情報もほとんど知らないけど、とりあえずそう思いました。

でもまだ『君の席』と『ペポカボチャ』しか見てないし、他のも見てみようっと♪ おぎやはぎやラーメンズと他にも一緒にやってるみたいだし。日村さんは『Jam Films』とか映画にも出てるみたい(ラーメンズも出てる。小林さんは脚本も手がけている)。あの演技力ならいけると思うわ。『Jam Films』って最新作ではスネオヘアーとかも出てるんだよね確か。見なきゃ~。いやぁ、未開の地ですわ。これも、ラーメンズに誘われなければ、かつ、レンタルでラーメンズが全部貸し出し中で『君の席』を見つけなければ、出会えなかったかも知れないんだから、出会いに感謝ですね。いつどこでどんな風に訪れるか分からないもんではあるけど、春は出会いの季節だと言うし。


スター不在

2005-03-06 15:18:34 | AYU
あゆが、3月24日に行われる『愛・地球博』の開会式でオーケストラをバックに「A Song is born」を歌うんだってよ! 天皇・皇后両陛下、小泉首相の前で歌うんだってよ! すげー。なんだよー! 勝手に出世しやがってー!(笑)

考えてもみれば、あゆ、『ゴールドディスク大賞』のときだって、ジミー・ペイジを差し置いて大トリだったもんな。レッド・ツェッペリンだよ? 三大ギタリストだよ? ツェッペリンがいなかったら、エレカシもナンバガもデリコも生まれてなかったかもだよ。それを差し置いて大トリ! ジミー・ペイジの横で笑顔で手なんか振っちゃって。あゆ、すげー。あんときは、あゆとジミー・ペイジの2ショットに興奮したなぁ(私だけ?)。女子十二楽坊、邪魔! 面積とりすぎ!ってね(笑)。この興奮をぶつけたくて側にいた親に向かって、「いや、だからジミー・ペイジだよ? レッド・ツェッペリンだよ?」って、「エリック・クラプトンとジェフ・ベックで云々かんぬん…」って、私はスクール・オブ・ロックか!っちゅう勢いで(笑)。いやぁ、あゆ最高!

というわけで、開会式、みんな見てね(笑)。あゆは第三部らしい。そう言えば、「A Song is born」は、911のチャリティーで作られたと思うんだけど、小室哲哉作曲(作詞はあゆ。KEIKOとデュエットしてたなぁ)。でも、小室色に染まり切ってないのよねぇ。そういや、つんく♂もあゆに「LOVE~Destiney~」書いたけど、これもまた、つんく♂色に染まり切ってないんだよねぇ。どちらも強力プロデューサーなのにね。あゆは、自己プロデュース派なのね!

ということで、いきなり変なテンションでごめんなさい。それを記念して、ちょっと考え(過ぎ)てみたことを――。

私はどうしてあゆの音楽に惹かれてしまうのだろう。エレカシや椎名林檎、ビートルズやクイーン、シロップ、ブランキー、ビョーク……他の好きなアーティストについてなら、どうして惹かれるのか何となく分かるのに。

どうして惹かれるのかは、案外、どうして嫌っていたのかを考えると分かるかも知れない(最初は嫌ってたから)。最初、彼女は音楽なんてどうでも良いんだろうなって感じがして嫌だった。でも、それだけだったらそこで終わる。彼女が違ったのは、音楽なんてどうでも良いって風なくせして、歌いだすと、急に命を吹き込まれたかのように感極まってんだもん。それには、ただちょっと演じる(感情移入する)のが上手いだけってのでは片付けられないものがあった。ただ音楽なんてどうでも良いんだろうなって人だったら、その人はそうなんだなってそこまでで、別に何とも思わないけど、彼女は、音楽なんてお構いなしって風なくせして、歌いだすと、音楽に囲まれると、急に感情が溢れ出して感極まってんだもん。それなのに、音楽なんてお構いなしって感じ。それが私にはシャクに触ったんだと思う。要は、嫉妬してたんだ。私はこんなに音楽が好きなのに、コイツは、音楽なんて知らないって感じのくせして、音楽から選ばれてる~! しかも本人それに気付いてない!?って。

幸か不幸か、彼女は、彼女自身が音楽に出会う前から、音楽に選ばれてしまったのだろう。もともと歌手になりたかったわけではなく、スカウトされてなったわけだし、実際のところ、音楽を舐めていたのかも知れない。音楽について、あまりにも無知で無防備で無自覚だったかも知れない。でもそれは、裏を返せば、あまりにも丸裸で純粋な音楽との向き合い方だったとも言えるのかも。宇多田ヒカルや椎名林檎が持っていたものを浜崎あゆみは持っていなかったかも知れないが、宇多田ヒカルや椎名林檎がどう転んでも持ち得ないものを浜崎あゆみは持っていたのかも知れない。

しかし、それだけだったら、そのままだったら、そこで終わっていただろう。少なくとも私の中では。

確かに、私にとってあゆの音楽は、それまで聴いたことなかった新しさをくれるわけでも、特別に自分好みの音楽ってわけでもなかった。でも、そんなこと、どうでも良くなってしまう。あれ? ってことは、これは、音楽なんてどうでも良くなってしまう音楽? 何それ? いよいよ私は音楽なんてどうでも良くなってしまったの? いや……

つまり、彼女の音楽は、音楽のための音楽ではなかったということだろう。だから、音楽が好きな私には拒否反応が出てしまったのかも知れない。でも、どうだろう。音楽は、音楽のための音楽であって良いのだろうか。無論、そういう音楽もあるのだろう。でも、音楽なんて、そのままじゃただの空気の振動だ。私には、音楽より大切なものがたくさんあって、それに比べたら、音楽なんてなんて小っぽけなものなんだろう。音楽なんてなくて済むのなら、ない方が良いのかもね。でも、おかしいかな。そういう大切なものを思えば思うほど、音楽を呼び寄せてしまう。また、音楽によって、大切なものを取り戻したりもする。それがなければ、音楽なんてちっとも大切に感じられないかも知れないよ。結局、私はそういう聴き方しかできないのかな。あゆは、そういう私にとって、音楽が好き故に陥りがちな盲点をちょうどタイミング良く突く存在だったのかも。

確かに、あゆの音楽は、音楽のための音楽ではなかったかも知れない。乱暴な言い方かも知れないけど、彼女は最初、音楽なんてどうでも良かったのだろう。けれど、皮肉なのか何なのか、彼女が歌い出したときの姿(歌声)は、私にとっては「音楽そのもの」だった。音楽という概念すら生まれる前の、根源的な何かだった。『歌は歌のないところから聴こえてくる』――早川義夫のアルバムにこんなタイトルがある。歌が歌のないところから聴こえてくるのであれば、彼女の姿(歌声)は、その歌のないところ、つまり、歌の出どころそのものだったのではないか。それはきっと、「生きている」とか「私はここにいる」とか、そんな単純なことだ。それが、ひどく形式的で機械的で記号的な音楽の中に、ぽこっと存在している。音楽が機械的であればあるほど、その歌の出どころだけが生々しく丸裸になっていく。その図式。99%の中の1%。「歌」さえ知らないまま剥き出しになった「歌の出どころ」。私は無意識のうちにそれに惹きつけられていたのか。それとも、その「歌のないところ」が「歌」に辿り着いて欲しいと密かに願っていたのか。

少し話は変わるが、椎名林檎が、自分達の世代のことを聞かれて「スター不在」と答えていた。それ故、「自由」で「不謹慎」だと。そう。私は、エルヴィス・プレスリーもビートルズも三大ギタリストも日本語ロック論争も知らない。後から知ってその音楽に感動することはできても、それをリアルタイムで体験した人のようには知ることはできない。私はビートルズが大好きだけど、きっとリアルタイムの人のようには絶対的な存在として感じられてはいない。ポップ・ミュージックはもともと外国のものだったと言われても、頭では理解できても心では理解できない。生まれたときから音楽は街中に溢れていたし、レコードではなくCD世代で、アルバムが高くて買えなかったわけではない(最近じゃiPodとかもあって場所さえもとらない)。それどころか、レンタルというものまであり、品揃えも豊富で、録音だって簡単にできてしまう。そして、次から次へと新しい音楽が生まれてくる。それでも自分は音楽が好きだから音楽を大切に思っている!と言いたいところだけど、やっぱり昔の人が持っていた音楽に対する有り難みや重さに比べたら、随分と軽くなってしまったのだと思う。だからと言って、それを悲観しているわけではない。それだけ音楽が生活に浸透し、発展したということだし、現に今も音楽は消えずに街に溢れているのだから。ただ、それを認識することによって見えてくること、認識しなければ見えなくなってしまうこともあるかも知れないってことだ。

例えば、今じゃ、ドーン!としたビートルズのような存在がいるわけでもなく、様々な音楽が溢れ、音楽に対する接し方も人それぞれだ。音楽を手放せない人もいるだろうし、ときどき聴くくらいの人もいるだろうし、音楽なんて特に興味ない人もいるだろう。そして、その誰に対しても、音楽は平等に開かれている。こんな風に街に溢れ、色々な音楽がある中で、それは特別な人達だけの特別なものではなくなった。それはある意味、自由とも言えるけれど、「スター不在」とか「神不在」とも言えるのかも知れない。私にとっての音楽と他の人にとっての音楽は違っているし、一つの正しい答えなんてのも見当たらない。宗教のように、絶対的な何かがあったら楽なのかも知れない。でも、「神不在」。もはや音楽は、エルヴィスのものでもビートルズのものでもなくなり、誰のものでもなくなった。だから、ある意味では自由に、ある意味では不謹慎にもなれる。しかし同時に、自分の手で音楽を見つけなくてはならなくなったのではないか。音楽は決して誰のものにもならないけれど、だからこそ、誰のものにもなる。スターも神も不在になったのに、なぜ音楽はなくならないのか。人は音楽に何を求めているのか。音楽は宗教じゃなくなったかも知れないけど、自分の宗教を鳴らすものとして今も私達の側にあるのかも知れない。

そして、椎名林檎と浜崎あゆみ。どちらも大きな現象となり、もう本当に色んなことを言われまくったであろう両者だが、林檎ちゃんがそれにダメージを受け、「三枚で辞める」発言とか、妊娠ということはあったものの一時期表舞台から姿を消す必要があったのは、彼女には守るものがあったからだと思う。守るものっていうのは「音楽」だ。それに対して、あゆには、それすらなかったんだと思う。だから、突き進むしかなかったんだと。そして私には、そのどちらもが正しいと思えるのです。

あゆは、自分なりに「音楽」と向き合い、自分なりに「音楽」を見つけたんだと思う(『Duty』あたりから全然違うもんね)。私は音楽が大好きだけど、それが誰のものにもならないことも、誰のものにもなることも知っている。音楽は自分で見つけるしかない。彼女の音楽からは、それが彼女にとっては自分が見つけた音楽なんだってことが伝わってくるから、グッときてしまう。それは、自分で作曲したとかしないとか、そういうことでは計り切れなくて…(それを私に最初に教えてくれたのはあゆかも)。宗教としての音楽を失ってしまったら、そこにしか音楽が残されていないのかも知れない。けど、そこに立ち返ったとき、歌が歌のないところから聴こえてくるのかも。今じゃ、彼女の音楽にも、その音である必然性をちゃんと感じるよ。音に対しても驚くほど自覚的だし。何も持っていない、音楽と出会ってもいないところからスタートして、音楽を見つけ、音楽である必然性まで獲得したあゆの道のりは、感動的ですらあるよ。それに、音楽が好きになればなるほどぶち当たる、音楽が単なる空気の振動でしかないこと。それも彼女はちゃんと知っている。

って、偉そうに勝手なことばっか言っててすみません!(汗) もちろん、あくまで私が思ったことで。そりゃ、本当のところは分からないけどさ~。でも、とりあえず今は、こんなこと思ったんです。だから書いてみました。でも多分、言いたいことは、「あゆの何が好きかって、歌声が好きなんだよね」って、ただそれだけのような気もします(笑)。これだけ書いておきながら(笑)。あ、あと、開会式見てね、か(笑)。いやぁ~、ここまで読んでくれた人、ありがとです!