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sky is blue

言わなければよかったのに日記

あれから2年

2006-07-23 20:14:13 | コラム
2006年7月23日で、このブログを始めてから「2年」が経った(これを書いてるのは9月だけど)。「もう2年」なのか「まだ2年」なのかは分からないけど、こんな個人ブログ一つとっても、何かを続けるということは、とても大変なことなんだなぁと実感している。

そんなとき、こんな文章に出会った。
(私が愛読している、元スーパーカーのいしわたり淳治さんのブログより)

ねぇ、自分の無知を知ることはとても大事だけど、それによって、夢や希望まで奪われてどうする?
いや、夢や希望なんてものじゃなくっても良い。そんなものなくったって良い。
けど、自分まで奪われてどうする?
知識だけあったって、そこに自分がいなければ、意味がないじゃないか。

いきなりジョン・レノンが生まれたわけじゃない。
いきなりボブ・マーリィが生まれたわけじゃない。
いきなり山下達郎が生まれたわけでも、いきなり松任谷由実が生まれたわけでもない。
そんなこと、知らなくても、想像できるでしょう?

知りたくなかったと思うような出来事に出会ったら、それを知る前に持っていたものを思い出してみよう。
それは今も自分の中に生きてるか、探してみよう。
それは形を変えているかも知れないし、色が変わっているかも知れない。
けど、それを探すことができるのは、自分だけ。

あ~あ、「情報を捨ててバカになる才能」でもって、「情報の海」を泳ぎきって、「夢」や「自分」を描きたいなぁ。

きっと、本当に知りたいことは、教科書にもどこにも載っていない。

*********

いしわたり淳治と言えば、『bounce』(2001/04)で、「浜崎あゆみ」についてこんな風に書いてくれている。なかなかどうして素敵なので引用させてください。

 世界中のあくびの数ほどある「わたしとあなた」の歌の中で彼女が今日もトップランナーとして走りつづけていることを称賛したい!
 どうやら彼女という人は、なぜか必要以上に痛い昔話を聞かせてくれたり、軽い絶望をプレゼントしてくれたり、カジュアルな感じのしない孤独を告白してくれたりするのか。と、気づいて以来、で、そこを彼女自身の放つ輝きでぎりぎり湿っぽく見せないのは、なるほどアートだなとも思えて、彼女の月並みな言葉は乙女のエチケットよろしく奥歯にものがはさまってないし、堂々とオブラートに包み忘れましたよ、といった様子で、なんだかどうも気になるのです。
 でも彼女が描く世界観は暗く狭く固く閉じた世界なのに、こんなたくさんの女の子たちが彼女に共感しているんだから最近の女の子はつくづく怖いな、とも思いながら、
嗚呼、いろいろな問題に問題のある考え方で挑む青春!
 という感じで、世界中のニキビの数ほどある「わたしとあなた」の歌の中で彼女はトップランナーの孤独と戦いながら走りつづけていることをも、私はとにかく称賛したいと思っているのです。
(いしわたり淳治――『bounce』(2001/04)より)

同じく、KREVA(KICK THE CAN CREW)も語ってくれているが、彼は、「性別を超えて共感できるところがある」と述べている。

この記事は、『A BEST』(2001/03/28)が発売された時期のもの。だから、今だったら、もうちょっと違う文章になってたかも知れない――。で、そこでピンときた貴方! そう、あゆは、次のベストって考えてるのかなぁってこと。単純に作品数的に考えれば、もう十分ベストを作れる状態だ。話が出ててもおかしくはない。けど、第一弾である『A BEST』が半ば強引な形で発売することになったみたいだから、第二段は慎重に考えているのかも知れない。本当は私、こういう風な具体的な予想ってあんまり書きたくないんだけど、デビュー10周年の年にドドーンと出しちゃったりなんかして? ドキドキ。

つい最近も、「そう言えば、くるりってベスト出してないなぁ」とか考えていたら、結成10周年で出してきたし! で、買いましたよ! やっぱり、くるりは良い! 驚いたのは、あれだけ音楽性を変化させ続けてきたバンドなのに、見事に一貫性があること。伝えたいことの芯がブレてないっていうか。私ちょっと感動してしまいました。やっぱり信念がある者は強いね。

あゆが、デビュー10周年のときにベストを出すのかどうかは分からないけれども、そんときはドドーンって、なんかすごいことになるような気がするね。いや、すごいことになんかならなくったって良いの。ただ、今回のくるりのベストで体験したような感動がそこに待っているかどうか。私はそれを確かめてみたいだけ。


選ばれた人? 選んだ人?

2004-10-20 10:17:25 | コラム
バンプ・オブ・チキンの「オンリー ロンリー グローリー」という曲に、こんな一節があった。

“選ばれなかったなら 選びにいけ”

なるほどー。
世の中には、「選ばれた人」ってのと「選んだ人」ってのがいるかも知れない。

――アイツは好きでそれをやってるわけじゃない。たまたま選ばれちゃったからやってる。だからいけ好かない。

――あの人は選ばれた人なのよ。私達とは違うのよ。

――アイツは好きなことやってるかも知れない。でも、好きだけじゃね。あれじゃあ、趣味やお遊びだよ。

なんか、どーだって良い、そんなの。

ミュージシャン、俳優、芸人、スポーツ選手……なんだって良い。輝いている人を見ていると、その人が「選ばれた人」なのか「選んだ人」なのか分からなくなるときがある。そんなときその人は、本当に、本当に、輝いている。


才能は隠せない

2004-09-28 21:03:15 | コラム
『0724 YAMABIKARI』の感動、再び。
7月24日に行われた『0724 YAMABIKARI』のことを書いた日記で、エレカシのライヴを受けて「林檎ちゃんもエレカシに、ミヤジに痺れちゃったに違いない!」って書いたけれど、本当にそうだったみたい。

椎名林檎のホームページで、ファンクラブ会員だけが見ることのできるページというのがあって、そこには、林檎ちゃんによる日記が載っている。まぁ、私は、見てるわけなんですが、そこでこの日の日記がアップされたわけです。そしたら、もう号泣!興奮!感動!

でもこれ、転載するわけにもいかないよね~、やっぱり。すっごい載せたいんだけど…。もう林檎ちゃん、エレカシのこと(というかミヤジのこと)、べったべった誉め誉め惚れ惚れ。この日は、東京事変、フジファブリック、エレファントカシマシ、ユダが出演したわけだけど、エレカシだけ超文(長文)! 林檎ちゃんの衝撃度は、私の想像を遥かに凌いだようだ。

もう、ここまで言うか!ってほどの誉め&惚れこみっぷり。でも、それを大げさとも思わず、「そうだよね。そうだよね」と興奮しながら読んでしまう私もまた同類。よくぞ言ってくれた!(←オマエはナニモノ?) それはちょっと、切なくも苦しくも泣きたくもなってしまうほどに…。

自分のことじゃないのにさ~、ぜんぜん自分は関係ないのにさ~、本当にヴァカだけどさ~、やっぱり、嬉しーーーい!!!

しかも、他でもない林檎ちゃんが書いたわけだから。自分にとって特別な存在である人のことを、同じく特別な存在である人が語るというだけでも嬉しいのに、ああも……。こんな嬉しいことってあるでしょうか。

確かに突っ込みどころはある(あなたも出演者でしょ!みたいな…笑)。しかしそれは良い。東京事変の音は、あの日あの時あの場所で確かに聴かせてくれたのだから。それを私はちゃんと覚えているから。

嗚呼、これでまた、宮本浩次様に惚れてしまいます。心酔。

「その気持ち、解る。」と唸りながら、何度も何度も読みたくなってしまう。そんな林檎ちゃんの文章もまた素晴らしい。味わい尽くしたくなるような文章。そのくせ、いつまで経っても味わい尽くしてしまうことのない文章。

ここにそれを転載することができないのなら、せめて私なりに何か話を。

宮本浩次の書く文章のことを、「宮本くんのあの文章からはすごくメロディが聴こえてくる」と言ったナイスな人がいるのだけど、本当そうなんだよねぇ。うまいこと言うな。椎名林檎の文章からも何かメロディが聴こえてくる。矢沢永吉に取材した糸井重里は、「彼が喋りはじめると、ステージに負けぬほどの迫力で輝きはじめる。立ち上がり、歩きまわり、笑い、泣き、怒る。そんな様子は、そのまま彼の歌だった」と書いていた。ビョークにインタビューした鹿野淳は、「こうやってあなたが喋ってるのを聞いてると、まるで歌を歌っているように言葉が返ってくるので、僕だけのためのコンサートを開いてもらっているような錯覚に陥ってしまって、すごく贅沢な気分を味わわせてもらいました」と言っていた。

もうさ~、何してても、才能って隠せないのよ!
(by 桃井かおり @「夢・音楽館 ~ゲスト:矢沢永吉~」)

爪は隠せてもさ、才能は隠せないよ、きっと。
隠せないから、隠れてくれないから、厄介なんだよね、きっと。

自分はどうなんだ?

思いっきり、笑わせてくれて、泣かせてくれた林檎ちゃんの文章は、彼女の音楽そのものだった。どうりで、何度も味わいたくなるわけだ。合点。


人魚

2004-09-21 01:09:14 | コラム
『全国ウォーターボーイズ選手権』やら『ウォーターボーイズ2(最終回)』やらで、ウォーターな人たち周辺が騒がしいので思い出した……ってわけじゃなく、以前から書かなくちゃ書かなくちゃと思っていた話を。

『アテネオリンピック』が終わってしばらく経った後のインタビューで、「オリンピックが終わってから泳ぎましたか?」と聞かれたシンクロの武田美保選手。「泳いでないんですよ。だから足がむくんできちゃって…(云々)」 続いてこう一言…

「陸の生活に慣れてないんで」

おまえは人魚かっ!!

後日、『ワールドグランプリ』や『シンクロ・最高の銀メダル 井村と立花&武田限界に挑んだ9ヶ月』などを見た。

……。

人魚、かも知れない。


You say yes, I say no 【後編】

2004-09-20 12:32:21 | コラム
【前編】のつづき

そんな風に色々と考えていたら、「そんなこと言ってたら、何も言えなくなっちゃうじゃん!」と自分に対して思ってしまった。こういう考え方もある、こういう考え方もある…、結局その人次第って言ってたら、何も言えなくなってしまう。そして、ハタッと気付いた。これって、あの文章に書かれていた「あれもNO、これもNOと言っているうちに出口がなくなって閉じちゃって」ってのと結局同じじゃない?って。「あれもYES、これもYESと言っているうちに何も言えなくなっちゃう」。結局、同じなのかも知れない。「あれもNO、これもNO」というのと「あれもYES、これもYES」というのは。

結局、私は、何が言いたいのだろう。私には、何が言えるのだろう。だんだん分からなくなってきた。こういう考え方もあるし、こういう考え方もある。じゃあ、あなたの考えは?って聞かれたら、正直よく分からなかったりすることもある。だから、私ってポリシーとかこだわりとかないのかなぁって思ったりして、よく落ち込んだりする。あれもこれも否定ってのも大変だけど、あれもこれも肯定ってのも疲れるんだよなぁ。でも……。実は、私は、肯定も否定もしてないんじゃないかって思ったりもする。誰かがNOと言ったらYES、誰かがYESと言ったらNO、みたいな(笑)。YESもNOもない、肯定も否定もないところで言いたい、みたいな。

例の文章では、「あれもNO、これもNO」というのを「世代独特の屈折メンタリティー」だと言っていた。世代を気にしたことはほとんどないが、YESともNOともつかない私のメンタリティーが世代独特のものだとしたならば、私の世代ってのは、肯定も否定もできなくなった世代ということなのかも知れない。真っ直ぐにYESと言い続けることも、屈折してNOと言い続けることもできなくなってしまった世代。「物事に対して懐疑的」なのがさらに突き進められ、「YES」に対しても「NO」に対しても懐疑的になってしまった、また、ならざるを得なかった世代。「あれもNO、これもNO」も「あれもYES、これもYES」も結局は同じということに気付いてしまった世代。結果、YESともNOとも言えない(あるいは言える)、肯定も否定もない(あるいは含んだ)メンタリティーを持った世代と言えるのかも知れない。ただ単に私があまのじゃくなだけかも知れないけど(笑)。でも、そう考えてみて、くるりやラヴ・サイケデリコ等の同年代ミュージシャンを見回してみると、そういったメンタリティーが色濃く感じられることに、驚くとともに、やはり!と思ってしまった。YESかNOか、肯定か否定か、どちらかに振り切れてしまうのではなく、どちらも内包しながら、色んなものが交錯しては、揺れ動いているメンタリティー。筆者にならって言ってみるなら、「世代独特の曖昧メンタリティー」とでも言うべきか。

でも、それはそれで、自分の考えがどこにあるのか、そもそもあるのかどうかも分からなくなっちゃって、結局私は何でも良いの?どうだって良いの?と虚しい気持ちになったりして、それはそれで落ち込むし、YESかNOかに振り切れてしまいたいという衝動に駆られたりもする。けど、「世代独特の曖昧メンタリティー」だか何だか知らないが、「いやいや、こういう考え方もあるよ」というもう一人の自分の声が聴こえてきてしまうのだ。果たして私には、ポリシーも自分の意志や考え方もないのだろうか。なんか情けない…。でも、YESにもNOにも寄りかからないところに、本当の自由とか確信みたいなもんがあるのかも知れないなーとも思ったりする。

これは、もはや時代が、YESとかNOとかでは割り切れないところまで来てしまったということではないだろうか。アメリカとイラクどちらにも、100%賛成もできないし、100%反対もできないことのように。世の中は、YESだけでもNOだけでも解決できない、YESもNOも混在している矛盾を抱えた複雑な世界なのだろう。だから、私に何らかのポリシーや考え方があるとしたら、それは、YESでもNOでもない、いや、YESでもNOでもある、そういう、YESもNOも混在した複雑に絡み合ったものなのかも知れない。

YESともNOとも言わない(あるいは言う)ことは、ズルく思われるかも知れない。でも、YESにもNOにも寄りかからないっていうのは、結構大変なことだったりする。自由と孤独が表裏一体であるように(大げさ?)。YESにもNOにも寄りかからないで、何かを掴めるだろうか。YESともNOとも言わずに(あるいは言いながら)、何かを言えるだろうか。結局、何も掴めなくて何も言えなかったらどうしよう…。でも、YESかNOかしか言えないのだろうか。何かを否定しなければ、何かを肯定できないのだろうか。何かを肯定することは、何かを否定することになってしまうのだろうか。そうでなければ、何も言えなくなってしまうのだろうか。それとも、YESもNOも肯定も否定も混在した中に「確信に満ちた何か」があるのだろうか。はたまた、いつかは最終的な「YES/NO」にたどり着くのだろうか。

例の文章では、筆者にとって相田みつをや『世界の中心で、愛を叫ぶ』が「三流のYES」でしかないことが述べられ、「ガス抜き」であり、「何も変わらない」と切り捨てられている。その代わり、モリッシーやキュアーの「屈折メンタリティー」が獲得した肯定性は「確信に満ちたYES」だと言い、「NO」が「戦うための唯一の武器である」と言っている。しかし、そうじゃない考えも確実にある。そんなこと言ったら、何も言えなくなってしまう? いや。戦うための唯一の武器がNOであるなら、誰よりも先にまず自分自身にそれを向けるべきなんじゃないだろうか。筆者にとって相田みつをや『世界の中心で、愛を叫ぶ』が「三流のYES」でしかないのなら、なぜ筆者にはそれが「三流のYES」としてしか響かなかったのか。「そのままでいいがな」と言っても何も変わらないのはなぜなのか(「そのままでいいがな」と言われて何かが変わる人だっている)。筆者にとって「何も変わらない」ことはなぜ絶望的なのか。なぜ「NO」だけが武器となり得て、「NO」という武器でどのように戦い、どのように「確信に満ちたYES」へと近づいていくのか。そもそも筆者にとって「確信に満ちたYES」とは何なのか。その他モロモロ。すべては筆者の中にあること。それを言えば良いのだと思う。それが筆者の「自分の領域」であり、そこでなら何を言っても良いと思うし、思いっきり言うべきだと思う。そのためには武器をまず自分に向ける、自分と向き合う、それしかないと思う。逆に、作り手やその他の受け手、つまり、自分以外の人間にとっては「三流のYES」であるとか「何も変わらない」なんてことは言えないはずなのだ。それは「他人の領域」なんだから。

なんだか、偶然見かけた雑誌の文章の話から、随分遠くまで来てしまったような気もしなくもないが(苦笑)、たぶん、私が言いたいのは、YESかNOか、そして、そのYES/NOが確信に満ちているものなのか三流なのかっていうのは、誰かに決めてもらうものでも、決めつけられるものでもないってことだ。もはや、そういうことは誰かが決めてくれる時代ではなくて、自分でしか決められない時代になったんだと思う。時代はそこまで来ている。たぶん。てか、とっく?(笑)

ちなみに私は、自分にとって嘘のない表現ならば、キュアーだろうと、相田みつをだろうと、「この世はクソだー!」って叫んでるものでも、「夢はかなうよ」と甘く囁くものでも、何でも良いと思っている。それを、そのときの自分が必要とするかどうかは、また別の話だ(それが私にとっての「自分の領域」であり、それを表現すれば良いのだと思う)。自分にとって嘘のない表現かどうかっていうのは、どれだけ自分と向き合えたかにもよるんだろうなぁ。自分と向き合えなかったら、人ともちゃんと向き合えないんだろうなぁ。自分にとって嘘のない表現かどうか――そこにおいてなら、肯定も否定もできる。そんな気がする。

ああ、ここまで読んでくれた人、本当にありがとう。
偉そうだし、痛々しいし(苦笑)。私、疲れてるのかなぁ(苦笑)。
相田みつをも『世界の中心で、愛を叫ぶ』もちゃんと読んでないのに言ってるし(爆)。
本当にごめんなさい。でも、ありがとう。
こういうのは、男と女とでも、また違うのだろうか…。
次はもっと軽~い内容にしたいと思います!

では、こんな文章を最後まで読んでくれたあなたに、この歌(?)を捧げます!
嗚呼、ややこしや!

『ややこしや』
ややこしや ややこしや
わたしがそなたで そなたがわたし
そも わたしとは なんじゃいな
ややこしや ややこしや
おもてがござれば うらがござる
かげがござれば ひかりがござる
ややこしや ややこしや
ふたりでひとり ひとりでふたり
うそがまことで まことがうそか
ややこしや ややこしや
ややこしや!