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sky is blue

言わなければよかったのに日記

UP TO THE WORLD #1

2006-04-25 23:24:20 | ライヴ
気付けば、またまた「時差」がたまってきてるじゃないか。あ、「時差」というのは、「実際の日付と記事の日付の差」のことです。もう7月なのに、まだ4月だもんね。ああ、一体私は、何をやっているのだろう…。

Syrup16g企画のイベント『UP TO THE WORLD #1』に行ってきた。シロップがライヴをやるのは『COUNTDOWN JAPAN 05/06』以来? 私が観るのは『daimasの日記スペシャル』以来。音源としては、2004年9月に発売された『delayedead』が一番最近かな。別にそんなに前じゃないんだよね。

というか、あゆのライヴのすぐ後にこれ……。切り替えが下手な私は、こういうことしない方が良いのかな(笑)。や、実は、切り替え下手ではないのかな。それとも、切り替えスイッチなんてとっくのとうに壊れてしまったのかな(笑)。って、どうでも良いか。私としては、どっちも好きってことでは、根底に流れているものは同じだもんね。

この日の出演者は、Syrup16g/peridots/VOLA & THE ORIENTAL MACHINEの三組。どれも興味あったけど、やはり私の一番のお目当てはシロップ。だったんだけど、この日私が一番「良いなぁ」と思ったのは、一番手のペリドッツかなぁ。まぁ、『daimasの日記スペシャル』で一回だけ観たものの、まだまだ自分にとって未知の存在だったので、新鮮だったっていうのもあったかも知れないけど。声が良いなぁ。聴いてると、食道あたりにグッとヨーグルト(カスピ海のやつ?)が流れ込んでくるような……って何だよそれ。とにかく、5月に発売されたミニアルバム、聴いてみたくなりました。

二番手は、ヴォラ。「YMCA」みたいに、「LOVE」のポーズしてた。尖ってて、楽しそうで、そういうのが伝わってきた。これはちょっと余談になっちゃうんだけど、アレンジって大事だよね。色々と工夫してるバンドは、一杯いると思う。だけど、なんていうのかな、「ああ、アレンジ凝ってるな」とか思うんだけど、そこまでというか、「工夫してるのは分かるんだけど…」っていうような音楽に、最近ときどき出会うような気がする。「いや、それも大事なんだけど…」みたいな。別にヴォラがそうだと言ってるわけじゃないよ。ただ、最近なんとなく思ったことだから、書いてみた。

最後は、シロップ。前からライヴで聴いてみたかった「(I can't)Change the world」が聴けて嬉しかった。「もったいない」とか、ある意味、挑戦的なセットリストだった気がする。逆に、切り札となるような「リアル」とかで、なんだかもどかし~い気持ちになっちゃったんだよなぁ。<実弾にぎりしめてちゃ撃てない>じゃないけどさ……ってよく分かんないなぁそれ。ただ、シロップって人気あるんだなぁって思った。この日のシロップの迎えられ方を見て、みんな全然忘れてないんだなぁって。『Mouth to Mouse』(2004年4月)の頃と、お客さんのテンションが変わってないというか、下がってないというか。もちろん、それはまだシロップファンの間でだけって話かも知れないけど、シロップの音楽が、それだけ一人一人の心に深く刻まれる音楽ってことなんだろうな。って、なんだか他人事のように書いちゃったけど、私自身にとってもそうなわけで。まだまだここで終わるつもりはなさそうな感じがしたし、やっぱりこれからも追いかけていきたいって思いました。(それなのに、『UP TO THE WORLD #2』行けなくてごめんなさい。ま、私なりのペースで…) あ、サポートギター(ヴォラの青木裕さん)が入って、聴き慣れたはずの曲も、結構違って聴こえた。

というわけで、かなり時差ボケた記事でした~。なるべく早く、この時差をうめていきたいなぁ。


(miss)understood TOUR ~2回目~

2006-04-23 16:41:31 | AYU
トップページが全部「AYU」カテゴリの記事になってしまった。それもこれも、『(miss)understood』、並びに、『(miss)understood TOUR』が火種なのであって、あゆが私に火をつけたのだ。ここ最近の記事は、つながってないようで、全部つながっている。

とはいうものの、じっくりコトコト煮込み過ぎた感のある記事が続いたんで、今回はなるべく深く考えないで書いてみよう。時間が経ってるので、既にそうとも言えないかも知れないけど。

1回目に続いて、ツアー中盤にあたる「代々木体育館」での公演に行ってきた。

セットリストは埼玉のときと同じだったが、確実にパワーアップしていた! やはり、「(miss)understood」とか未完成な感じがして、生であの感じを出すのは難しいんだろうな~とつくづく実感。が、その未完成さがやけに生々しく、かえって、「(miss)understood」が伝えようとしていることが伝わってきたように思った。こわいくらいの静けさの中から、徐々に核心に迫ってくるあの感じ……。あゆは、自身で作詞しているからか、歌詞のことを語られることが多い気がするが、じゃあ、あゆの魅力は歌詞だけなのか?と聞かれたら、決してそうではないし、やっぱり私は、“音楽として”あゆの音楽を必要としている。だから、歌詞のことだけ取り出して語ることはなるべく避けたいというのがある。でも、でもね、<君は一体何が欲しいの/君は一体何を願うの/君は一体どこを目指すの/そしてそこへは誰と向かうの>なんていうシンプル過ぎる言葉を、こんなにも突き刺さってくるものとして響かせるのは、やっぱり凄いことだと思うんだよ。で、それには、やっぱり、音楽じゃなきゃダメだったんだ。だって、それは言葉じゃなく、音から伝わってくるんだから。言葉よりも、音がそれを語っているのだから。<君が君で生きられるのは/最初で最後この一度だけ/大きな地図を広げた後は/君だけの道を描けばいい>。最後にこんな言葉を、こわいくらいに響かせて、残していく。音楽だから、あゆだから、持てた説得力。やっぱりあゆはカッコ良い!

アレンジが、なんだかカッコ良くなってた! 埼玉のときとは、変わってたと思う。ギターはヨッちゃんだし、ベースはエンリケさんだし、ドラムは江口信夫さんだし、当たり前と言えば当たり前なんだけど、あゆのライヴは、演奏もカッチョ良いんだよなぁ。カッチョ良いって言っても、バック・バンド的なカッチョ良さじゃなくて、ロック・バンド的?、生きもの的?、そんなカッチョ良さ。あゆみたいなソロ・アーティストだと、どうしても「バック・バンド」って感じになっちゃうと思うんだけど、どう考えても「バック・バンド」じゃないんだよなぁ。皆、「アーティスト」だから当然なんだろうけど、それぞれに魅せてて、生き生きしてるの。「ここで俺がやってやるぞ!」って、一人一人が思ってるような、そういう気迫を感じる。そしてまた、そのことに喜びや誇りを感じてるような。鳴らされる音の裏に、共に歩み育んできたものも感じさせるし。愛だよ、愛。それが素晴らしいグルーヴを生み出してるんだよ。そして、それを呼び起こしてるのは、あゆなんだ! とにかく2回目で、アレンジや演奏に色々工夫を凝らしてるのが分かったし(今までもそうだったけど)、これはどんどん突き進めてって欲しい。CDと変えた大胆なアレンジとか、それによって起こる化学反応とか、色々見てみたいなぁ。それはそのまま、あゆの成長にもつながるだろうし、CDにもつながるだろうしね。あゆと色々な景色を見てみたいんだよ!

そして、この日ビビッたのが「Pride」。物凄かった! 「(miss)understood」では、未完成さに生々しさを感じたと書いたけど、こっちは逆に、完成された世界を感じちゃったな。凄いものを見せられちゃった気がした。何なんだこれは……と呆然としているうちに、ライヴは進み、本編ラスト「Bold & Delicious」へ。いやぁ、やっぱりカッコ良い。『CDL』のときは、ぎこちなかった感じのお客さんのノリも、だんだん掴んできたのか、気持ち良く拳を上げたり手を叩いたりしていたように思う。私の隣が外人だったのだけど、「Bold & Delicious」で踊ってるの、サマになってたな~。

そして、本日最大の収穫はというと……

「Pride」を聴きながら、何なんだこれはって呆然としてたんだけど、「Bold & Delicious」で、ふと友達が言っていた言葉を思い出したんだ。

「あゆって、洋楽好きなイメージ。でも、心は日本、日本人って感じ」

そうか! これか!

以前、「個人主義で決めに行け!」で、あゆのことを「最新型の演歌」って書いたけど、こういうことか? あゆってね、洋楽の影響をモロに感じさせるくせに、ド演歌にも感じられるんだよ。この日、「Pride」を聴いていたら、「モロ洋楽」と「ド演歌」が、両者どっちも譲らずに、バチバチとせめぎ合いながら、複雑に絡み合って、切っても切り離せない形になって、私に襲いかかってきたんだ。それで固まっちゃったのかも知れない。どうして「Bold & Delicious」でその友達の言葉を思い出したかっていうと、「Bold & Delicious」って、あれ、モロ洋楽じゃん。なのに、なのに、洋楽じゃないんだよ。しかも、あれは本当に洋楽であるスウィートボックスのGEOが作曲した曲なんだよ? だっつーのに、ド演歌にも聴こえてきちゃうもんだから。そういや、「Pride」だって、GEO作曲だ…。何なんだこれは! 「何か」が起こってるとしか思えないよ。日本語で歌ってるからとか、日本人だからとか、そんな取って付けたような安い次元じゃなかったんだから。私の中で、「洋楽」とか「演歌」とかそういう色々な概念が、「メリメリ」と剥がれ落ちていく、ぶち破られていく。そんな音が聴こえた気がしたんだよ!

「2005年の音楽」で、私は、「これなら洋楽を聴けば良いや」と思ってしまうような邦楽が増えてきてる気がする、あるいは、「変に邦楽の中に閉じこもってる」ような邦楽もある、と書いた。洋楽なくして、今の邦楽(J-POP)は存在し得ない。だけど、日本人がやる以上、どうやっても洋楽にはなれないと思うし、洋楽になろうとするなら洋楽に敵うわけないと思うし、そもそも日本人がやる必要もなくなってしまう気がする。しかし、だからといって、邦楽の中に閉じこもっていられるような時代ではなくなった(はずだ)。どうやっても洋楽にはなれない、けど、洋楽を知らなかった頃には戻れない。これが実情だと思う。だからこそ、そこの部分で戦って欲しいんだよ、日本のミュージシャンには。そこをぶち破った音を、聴かせて欲しいよ。

こんなことを自問自答するなんて、もう古いって? そうかな。私にはそうは思えない。邦楽の水準が高くなったから洋楽が聴かれなくなった? これがもし本当のことだとしたら、邦楽が「閉じたもの」だと認めざるを得なくなるような気がする。大体、水準が高いとか低いとか、そんなことを言ってるんじゃないんだよ、私は。

あゆは、こんな私に、ガツン!と響いてくる音楽を鳴らしてくれてる気がしたんだよ。この日、私があゆに惹かれる理由に、触れた気がしたんだよ。洋楽と邦楽が戦ってる音楽っていうか。邦楽の中に閉じこもってる音楽でもなく、限りなく洋楽っぽい音楽でもなく、洋楽と邦楽を取って付けただけのような音楽でもなく。あゆは、洋楽からの影響を包み隠さずさらけ出し、それを日本人である自分と戦わせることを忘れずに、常に自問自答してるんだよ! 戦ってるんだよ! やっぱりあゆは、並外れたバランス感覚を持ってるのか!?

やはり、ロックやポップスをやるのなら、洋楽へのリスペクト精神を欠いてはいけないのだと思う。だけど、ただ洋楽っぽいことをやることが、答えだとは思わない。洋楽も邦楽も飲み込んで、自分にしか語れないものを提示する。それがいかに難しいかは、私だってなんとなくは分かる。だけど、この日、あゆからはそれが提示されたような気がした。この得体の知れなさは、洋楽でも邦楽でもない、あゆにしか出せない音楽だと、そう確信せざるを得なかった。

開演前にマドンナをかけたのは、生半可な気持ちじゃなかったんだね。しかし、「Pride」、「Bold & Delicious」で気付かされたなんて、2005年最後のシングルに持ってきただけあるっていうか、今更ながらに象徴的なシングルだったんだなぁ、あれは。

そんなこんなで、呆然としていると、アンコールであゆが出てきた。本編ラスト「Bold & Delicious」での、ボールドでデリシャスでゴージャスなステージから一転、TシャツGパン姿で出てきて、いきなりフランクに話しだすあゆを見て、「(さっきまでと)同じ人かよ!」と突っ込みたくなって、吹き出してしまった。そのあまりの変わり様に、クラクラしてしまった。その余韻は、いつまでもいつまでも私の中に居座り続けた。


時代性の先にあるもの

2006-04-10 22:32:22 | AYU
いんや~、我ながら熱くなってるわぁ。一体どこまで熱くなれば気が済むんだよ! こんな一人で勝手に熱くなってるような文章に、誰が付き合ってくれるんだよ! 大体これ、書いてて「わけ分かんなく」なってるじゃん! いやいや、「分かり切った」ことなら、書く必要ないもん! でもね、これ、一応言っておくと、冷静さがなきゃ書けないんだからね!
……以上、前置きという名の「苦しい言い訳」でした。

*********

前回の記事で、「音楽よ大衆的であれ!」ってなことを書いたわけだが、何も全部が全部そうであれと言っているわけじゃない。何故なら、「大衆を相手にすること」は、誰にでもできることじゃないからだ。実際、ミスチルや宇多田ヒカルのことを「大衆的であろうとしてるとは思えない」とか「開かれてるとは感じられない」と書いた私だが、ミスチルや宇多田ヒカルにも好きな曲があるし、CDも持ってたりする。それに、音楽には、少数派のものがあって然るべきだと思うし、閉じたものにだって意味があると思う。「内輪受け」だろうと何だろうと、その人にとって必要なら、それで良い。

そして、それは、どんな音楽であっても同じはずだ。その音楽が売れてようとなかろうと、「私これ好き!」とか、そういうことがすべての始まりだったはずだ。それがどんどん広まって、大衆を巻き込んでいったのなら、それはとても素晴らしいことではないだろうか。しかし、それ以前のところで、「大衆的」であるということが、変に歪められて捉えられてると感じることがある。売れてるというだけで「売れ線」とか「商業音楽」とかいって本質を見ようとしなかったり、「個性派」とか「本物志向」とかいった聞こえの良い言葉が「大衆を相手にできないことへの言い訳」のように使われてたり。

そういう中で、アーティスト達も、大衆的であることへの魅力を感じなくなったのか、大衆的であろうとしなくなってきている、あるいは、大衆的であろうとすることから逃げている、そんな風に私には感じられていた。誰が悪いわけでもない。私自身、知らない間に、「大衆音楽」というものを諦めかけていたのかも知れない。

だけど、「浜崎あゆみ」に出会って、音楽が持ち得る可能性を、もう一度信じてみようって気になった。音楽は大衆を相手にできるんだと、思い出させてくれた。だから、こんな文章を書いてるのだ。じゃなかったら、前回のような、下手したらJ-POPを全否定しかねない文章、書いてないよ。

「大衆を相手にすること」は、誰にでもできることじゃない。鋭い自己批評や客観性、時代を捉える目、変化していく時代の中から不変(普遍)のものを掬い取り紡ぐ力、その中での自己実現……それらがなければ、できることではない。そう、あゆは、ただ「大衆を相手にする」のではなく、「大衆を相手にクリエイティヴ」であろうとしている。私にはそう感じられる。

例えば、「Humming 7/4」という曲がある。これは、自分のことを世間より一歩も二歩も先に出て捉えようとしていなければ書けない歌詞だし、世間を挑発してもいる。それでいて、サラリと自分を提示してみせ、と思ったら、「皆で一緒に行こうよ!」と言わんばかりのコーラスへと続いていく。「alterna」という最近の曲だってそうだ。あれは、鋭い自己批評の目がなければ書けないし、プロモにもそれが如実に表れている。自分が操り人形となり、スターへの階段を駆け上がり、自分のコピーロボットが“歌うマシーン”として大量生産されていく。ベタと言えばベタだが、これは彼女自身が「浜崎あゆみ」を一回疑ってみなければ持てない発想だし、意外と渦中にいる人はこういう発想を持てなかったりする。持てたとしても、相当の勇気や覚悟、技量や説得力がなければできない。だってこれ、やる人がやったら、笑うに笑えないし、一歩間違えれば本当に「笑いもの」になってしまう。にも関わらず、ちゃんと「楽しめる作品」として成立しているところが凄いわけで、それはつまり、彼女が“操り人形”とか“コピーロボット”とか“歌うマシーン”とかいったパブリック・イメージに負けていない何よりの証だし、これを今やるというタイミングを掴むのにも長けているということだ。第一、撮影中に、「(人形に扮するので)生きてないってバレちゃうね」とか言って笑ったりしているのだ。そう言えば、このプロモ、皮肉たっぷりの凄いことをやっていながら、どこか滑稽だったり笑えたりする。つまり、「笑い」にも昇華できているのだ。

大衆的であるためには、「大衆に対する自分」を大衆よりも先のところで考えていなければいけないし、それでいながら、「自分」を提示してみせなければ人の心は動かせない。そして、それらすべてひっくるめて「楽しめる作品」になっていなければいけない。皆でワーキャー騒ぎたいと言っているのではない。「そこから生まれる何か」を感じられるかどうか。あゆの作品に触れると、少なからず、何かを考えさせられる。こちらに何かを問いかけてくる。彼女自身、何かを考え、何かを問いかけようとしているからだろう。そして、それが「楽しめる作品」になっている。素晴らしいことだと思う。

最近、『ウイダー』のCMにあゆが出た。あれだって、自己批評の目がなきゃできないもんね。あゆ自身による「浜崎あゆみ」のパロディー。しかもそれが、「開き直り」でとどまらず、「挑発」としても機能していたと思う。

要するに、「大衆を相手にクリエイティヴ」であろうとするということは、常に世間や時代を意識し、それと向き合い、時にはそれと戦いながら、その上で自己実現を図り、自分を確立し、それをまた世に問う、その繰り返しなのだと思う。

前回の記事で、「ファンじゃない人も見てる」と書いたのはそういうことで…。そんなことを言うと、「ファン」は寂しく感じるのだろうか。でも、「ファン」って一口に言ったって、一体どこからどこまでを言うのか、そんなこと誰にも決められないよね。「ファン」って言ったって、結局は「顔が見えない」のだ。仮に「ファンらしきゾーン」を定めてみても、それは結局、「私」でも「君」でも「誰」でもない。だから、アーティストにできること、また、すべきことは、「自分を世に問う」。これだと思う。あゆは、「浜崎あゆみを世に問う」ことで、ファンあるいは世間と繋がろうとしている。私にはそう思える。それはとても「面倒くさい」ことかも知れない。でも、だからこその「クリエイティヴ」だと思うのだ。そして、それは、物凄く「真摯」な向き合い方だと思う。それによって、離れていく人が出てきても…。だって、ファンの顔が見えないのと同じで、「答え」なんてどこにもないんだから。「真摯」でありたいなら、「問い続ける」しかない、きっと。

私があゆの作品を聴いて驚いたのは、「この人、同じアルバム出してない!」ってことだ。これは、あゆが「その時その時で浜崎あゆみを世に問うてきた結果」なのだろう。そこには、「狙い」ではなく、「自然な流れ」があった。大衆的であるためには、常に変化し続ける必要があるのかどうか。答えは分からないが、時間の流れとともに世の中だって自分だって変わっていくのだから、常に自分を世に問おうとするのなら、変化は必然のことと思える。簡単に言ってしまえば、「今を生きる」、そういうことだ。

そして、そんな風に変化を見せ、常にその時の自分を世に問いながらも、あゆの作品からは、常に「確固たる芯」の部分が感じられる。だから、私の中の「芯」の部分にも届いてくる。こんな文章を引用させてもらいたい。

何かを学ぶのは本当に難しい。新しい事にいつでも感動できる新鮮な気持ちを持ち、新鮮な事を受け入れられる柔軟な気持ちを持ち、柔軟さを支える、強固な芯のある「自分」を持ってないといけない。自分に芯があるのなら、貪欲に求めるべきだ。そして積極的に変わるべきだ。そして変わらぬ芯の部分の魅力を再確認し、成長のカタルシスを感じるんだ。芯の部分以外は道端に捨ててしまえばいい。それは成長の邪魔なんだからね。

奇しくも、この文章と「alterna」が、私の中でピッタリとリンクしてしまった。

「今を生きる」表現が、「時代性」を帯びるのは当然のことだろう。しかし、その「時代性」の先にこそ、「不変性」もしくは「普遍性」があるのではないか。私はそんな風に思っている。近頃、「普遍的」という言葉が当たり前のように使われている気がするが、何も、当たり障りのない表現が「普遍的」ということではないと思うのだ。「普遍的」という言葉を、「時代と戦えないことへの言い訳」には使わないで欲しい。「時代」と戦ったものだけが勝ち取れる「普遍性」ってのがあるはずだ。

「大衆的であろうとすること」を、「世間に媚びてる」と言う人もいるかも知れない。でも私は、音楽が「世間と向き合うこと」を止めてしまったら、「大衆を相手にすること」を止めてしまったら、音楽は終わりだと思う。「音楽は時代と戦える」、あゆは私に、そう言っているような気がする。

最近ふと思うのは、「あゆ」には、「浜崎あゆみ」のことを完全に忘れてる時間があるのかどうかってことだ。ひょっとしたら、寝てる時以外ないのかも知れない。いや、寝てる時ですら? あゆの作品には、彼女自身がいつもいつも「浜崎あゆみ(音楽)」のことを考えてなきゃ生み出せないであろう「何か」がある。そういや以前、「絵を描いている時だけ絵のことを考えている人間が描いた絵は汚い」というような文章を読んだことがある。「絵を描いていない時も、いつもいつも絵のことを頭のどこかで考えている、そういう人間が描いた絵こそが、美しくなりえるんだ」と。きっと、「問い続ける」ことを止めてしまった人は、どこかで「自分」と「絵」を切り離してしまったんだ。「あゆが描く浜崎あゆみ」は今日も美しい。なんだか泣けてくる。


大衆を転がせ!

2006-04-09 12:21:38 | AYU
「やっぱ大衆音楽っていうかさ、大衆的なものが一番カッコいい」

エレファントカシマシの宮本浩次は言った。宮本氏は浮世絵が好きなのだが、「俺が浮世絵好きだったのとかもさ、あんなものだってやってる人っていうのはすっげえ立場がもう低いんですよね。江戸時代の人ってみんな浮世絵見て喜んでるじゃない? もんのすごい大衆的」。かたや金屏風みたいなものがお芸術だったわけで、「で、今残ってるのはどっちですか、金屏風のお芸術ですか、浮世絵ですか、つったら浮世絵の方がさ、未だに心をつかんでむしろ芸術って言われちゃってるよな、あんなものが」と言っていた。

この話を思い出す度、「浜崎あゆみ」のことと重ねてしまう。

私があゆをカッコ良いなと思う理由のひとつに、「大衆的であろうとしてる」ってのがある。そして、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、「大衆を巻き込むこと」ができるからだ。だって、人種も国籍も年齢も性別も、生活習慣も趣味も価値観も、あらゆるものが違う人達が、ひとつのものに夢中になる。そんなこと、まるで夢みたいじゃないか。国籍どころか、ごく身近な人とだって、些細なことで相容れなかったりするのに、音楽は、そんな夢みたいなことを、時にやってのけたりしてみせるんだ。

だけど最近、どうもそうじゃなくなってきてる気がしてならない。他の国のことはよく分からないから、日本での話をしてみることにする。

近田春夫の『考えるヒット』を読んでいて、ドキッとした言葉があった。日本の音楽(J-POP)について、「日本人にしか通用しない英語的なモノ」とあった。ああ、言われてしまった…と思った。私が抱いている「疑問」を見事に的中された気分。(『考えるヒット』は、あゆの『B & D』評に感激したので読み出したのですが、凄いですね! あゆの『B & D』評はあゆファン必読! あゆにも読んで欲しいな! もう読んでるかな?)

でもね、私は、もっと狭い範囲で同じようなことを感じてしまうのよ。近田氏は「日本人にしか通用しない」って書いてるけど、その「日本人」の中でも、もっと細かく分けられてるような気がしてならない。ジャンルとか年齢だけにとどまらず、「こういう音楽(アーティスト)が好きな人」っていう枠みたいのが知らない間に用意されてて、アーティストもリスナーも、知らない間にその枠におさまってる、おさめられてるって気がしてならない。皆、その上で楽しんでる。ひとつの枠におさまり切らない人もいるだろうけど、その都度、枠に入って楽しんでる感じ? 変に争いごとを好まないというか、枠を飛び出そうとしない感じ? いや、アーティストもリスナーもそんなにバカ(あるいは利口)じゃないとも思うけど、どうにもこうにも日本の音楽に「内輪受け」な匂いを感じてしまうことがあるのは私だけ? もちろん自戒も込めて言ってるよ。なんか、もっともっと「摩擦」があっても良いのになぁって思う。というか、「摩擦」のなさに、なんかおかしいなぁって違和感を感じてしまったりする。私は、日本のアーティストにも大好きな人がいるし、洋楽ファンの人が邦楽を軽視してたりするととても悔しいんだけど、でも、洋楽ファンの人が邦楽を物足りないというのも、分かる気がしてしまう。

簡単に言うと、「閉じてるなぁ」って感じてしまうのよ。さっきも言ったように、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、大衆を巻き込むことができるからで、だから、音楽は「開かれた」ものであって欲しいと思ってる。ただ、ここでハッキリ言っておきたいのは、「大衆的なもの」=「売れてるもの」と言ってるわけじゃないってこと。だから、あゆが「大衆的であろうとしてるからカッコ良い」っていうのは「売れてるからカッコ良い」って言ってるわけじゃない。だって、それなら、他の売れてるアーティスト、例えばB’zとかミスチルとか宇多田ヒカルとかだって、良いわけじゃん。でも私は、彼らを「大衆的であろうとしてる」、つまり、「開かれてる」とは感じられないの。逆に、そういう人達よりは売れてないけれども、「開かれてる」と感じる音楽はある。むしろ、売れれば売れるほど、「開く」のは難しくなってくるんじゃないかと感じてるくらい。だから、「規模」じゃないのよ。セールスがどのくらいであろうと、開かれてる音楽は開かれてるし、閉じてる音楽はやっぱり閉じてるんだと思う。どんなに売れていても、その音楽が閉じてるのであれば、それは規模が大きいだけであって、真の意味で「大衆的である」とは言えないと思う。だから、ここでは、「大衆的」=「開かれてる」ってことで話を進めていきたい。

何をもって「開かれてる」とするか。そこが難しいと思うんだけど、誤解しないで欲しいのは、例えば、シロップなんかは、寒気がするくらいに閉じた内容を歌ってたりする。エレカシだって、強烈に閉じこもったことを歌ってたりする。でも私は、それを聴いて「閉じてるなぁ」とは感じないのよ。あゆだって「大衆的」と書いたけど、閉じこもった心情を歌ってたりするし。だから、インプットは何でも良いと思うんだよね。ただ、それが表現としてアウトプットされるときに、「開かれてる」かどうか。「そこ」なんだと思う。だから、どんなに開かれた内容を歌っていても、閉じてることはあると思うし、逆もまた然りで。そこの判断基準は感覚的なことで、結局は人それぞれってことになってしまうのかな。

でも、例えば、具体的に分かりやすい例で言うと、『紅白』とか『レコード大賞』とか、辞退する人いるじゃん。あれ、私にはよく分からないんだよね。その人なりの考えがあるんだろうし、その人の自由だとは思うよ。それ以外にも色々な事情があるのかも知れない。でも私は、申し訳ないけど、心のどっかに「疑問」が残っちゃうな。別に私は紅白のファンじゃないよ。むしろ、ほとんど見なかったりする。でも、出る側がそれをしてどうする? 辞退する人達の理由とかそれ以外の事情とかよく知らないから、勝手なこと言わせてもらうけど、例えば、もし、紅白に魅力を感じないから出ないというのであれば、お前がそんなこと言ってるから紅白の魅力が減っていくんだろー!って言いたくなるよ。紅白なんてダサいから出てらんないとかだったら、はぁ?って感じ。紅白がダサかろうが何だろうが、お前の音楽はダサくないんだろ? だったら、お前が出ている5分かそこらの時間だけ、紅白を変えてやれば良いじゃないか! なんかね、自信がないのかなって思っちゃうんだよ。コントや芝居をやれってんじゃないんだから、自分の音楽に自信があるなら、出ていけば良いのに。そんなんで「日本の音楽を変えてやる!」とか言われた日には……。

番組の方針に納得がいかないとか、紅白に出る意味を感じないとか、まぁ、気持ちも分からなくもないよ。紅白のために活動してるわけじゃないだろうしね。だけどさぁ、最近、視聴者に「出演して欲しい人」ってアンケートやったじゃん。そういうので選ばれてるのにも関わらず辞退する人ってのは、その「選んでくれた人」に対して、どう思ってんのか聞いてみたい。紅白はどうでも良かったとしても、あなたの音楽はそういう「選んでくれた人」に支えられてるんじゃないの? そういう人達に届けてるんじゃないの? あなたの音楽を求めてる人がそこにいるのに、それよりも先に優先するものって何なんだろう。ああ、私にはやっぱりよく分からないや。

はたして、今の日本で、「音楽」は、「浮世絵」なのか「金屏風」なのか。それとも、そのどちらにもなれないのか――。

というわけで、やっとこさ、「浜崎あゆみ」の話をしたいと思う。

私、あゆの音楽からは、「内輪受け」な匂い、感じないんだよねぇ。それはもう不思議なくらいに。「(miss)understood TOUR ~1回目~」で「開かれてる」って書いたけど、言いたかったのはそういうことで。つまり、私があゆに期待していることは、ズバリそのまま私が音楽に期待していることと同じで、「大衆を巻き込むこと」なの。

例えば、あゆに対して、顔が可愛いからって理由だけで興味を持った人、ファッションとかビジュアル面から興味を持った人、キャラクターや生き方に惹かれた人、歌詞に共感した人、音楽に惹き付けられた人、色々な人がいると思うけど、そのすべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。ミーハーなファンもコアなファンもマニアックなファンも、音楽に詳しい人もそうじゃない人も、ひょっとしたら、あゆ(更には音楽)に特に興味がない人にさえも、すべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。「人を選んでない」っていうか。そして、そこが素晴らしいと思うわけよ。それこそが、音楽だと思うわけよ。

その、あゆの持つ「大衆性」って、日本で第一線で活躍してる人の中では、ちょっと他にいないんじゃないか?って思っちゃうんだよね。例えば、他の多くのアーティストって、外から見てみると、「好きな人は好きだろうね」みたいな感覚があるんだよなぁ。ファンとそうじゃない人との間に距離があるというか。だから、それを楽しむには、こっちから歩み寄らなくてはならないような。自分が「それを楽しむモード」=「ファンモード」に切り替える必要があるっていうか。

でも、あゆの場合、それがゼロとは言わないけれど、限りなくゼロに近いんじゃないか?って思えてくるんだよ。ファンとそうじゃない人との境界が曖昧っていうか。ファンじゃない人も見てるっていうか、ファンじゃない人にもアピールしている「何か」を感じるのよ。それは、ファンじゃない人からすれば、好みじゃないかも知れないし、嫌悪感(摩擦)を感じさせるものかも知れない。実際、私だって、あゆを嫌ってたわけだから。だけど、考えてみると、嫌うということ自体、私にとって珍しいことだったのよ。自分が好きな音楽か、そうじゃない音楽に対しては、嫌いとかじゃなく無関心だったからね。つまり、あゆには、ファンじゃない私にまで何らかの感情を抱かせるだけのものがあったわけだよ。それは、あゆが、ファンじゃない人も見てる、つまり、大衆的であろうとしているからだと思うんだよ(何度も言うけど、それはセールスの問題ではない)。そして、そこに私は強く惹かれたんだと思うんだ。

これは、視野の問題なのかな。なんだか、あゆの音楽を聴いていると、言語や好みの問題はあれど、この音楽が発してるものは、外国人にも伝わるんじゃないか?なんて思っちゃうんだよ。買い被り過ぎかな。夢見過ぎかな。でも、そうだとしても、そのくらいのことを思わせてくれる「何か」があるんだよ。

ああ、これについては、もう少しちゃんと書きたいな。今回は、あゆの話をする前で結構長くなっちゃったから、続きはまた今度にして、今回はこのへんでやめておきたいと思います。熱くなり過ぎててスミマセン(汗)。

もはや、「音楽」が「大衆的」である必要はないのかも知れない。ある程度ファンがいて、その中でやっていければ、「ビジネス」として成立するわけだから。「商業音楽」なのだから、「ビジネス」として成立しなければやっていけないのだし。私は音楽に夢を託し過ぎてるのかも知れない。時代遅れな青臭いことを言ってるのかも知れない。でもね、「ビジネス」として成立させながらも、それをやってのけた人だっていると思うんだ。

近田氏はこう書いていた。「私がこの国の音楽について、音楽をやっている人間についてたったひとつだけハッキリ問いたいのは、閉じようとしているのか、開こうとしているのか、そこだけである」――。「内輪受け」も確かに楽しい。それはそれで良いのかも知れないとも思う。でも私は、それを「ロック」とは呼びたくない。

続き → 「時代性の先にあるもの」


美しきバランス感覚

2006-04-08 20:54:46 | AYU
「1.2.3.4 YOU and ME?」「和な二曲」「ボ~~ルド & デリシャァァス」と、2005年のシングルについて書いてみて、やっぱりあゆは、バランスを重んじるというか、バランス主義というか、バランス感覚の優れている人なんだなぁと、今更ながらに気づかされた。あゆのバランス感覚が顕著なところなんて、探せばいくらでもあるような気がする。

例えば、「HEAVEN」が“作品(映画『SHINOBI』)のために作った曲”だとしたら、そのc/wには“自作(CREA作)の曲”「Will」を持ってくる。「fairyland」で“大掛かり”なPVを作ったと思ったら、その次の「HEAVEN」では“極めてシンプル”なPVを作る。『HEAVEN』がc/w含めて“和”なシングルだとしたら、次の『Bold & Delicious / Pride』では大胆な“洋楽との折衝”を試みる。「Bold & Delicious」一曲の中でも、“ハッピー”と“悲しみ”を混在させる。「fairyland」で<僕達は今最も永遠に近い場所にいる>と“永遠”を歌ってみせたと思ったら、そのc/w「alterna」では<変化を恐れるのなら 離れたとこで見ててよ>と“変化”を歌ってみせる。また、「alterna」や「Will」なんかは、浜崎あゆみのより“コア”な部分が感じられる曲のように思うが、対して、「fairyland」や「HEAVEN」は、浜崎あゆみのより“ポップ”な部分が出ているように思える。

こんな風に、2005年のシングルだけ考えてみても、あゆの作品には、常に、徹底して貫かれている「バランス感覚」を感じる。これは、前から感じる部分であったし、今にはじまった話ではない。探せばいくらでも語れる要素があるように思う。最先端でありながら古風である、とかね。

例えば、あゆのことを、「アイドル」と捉える人もいれば、「アーティスト」と捉える人もいる。「アイドルとアーティストの良いとこどり」だなんて文章も見かけたことがある。それが「中途半端な感じがして嫌だ」という人もいるみたいだ。私なんかは、「アイドル」とか「アーティスト」って言葉は抜きにしても、一体、あゆのどこをどう捉えたら「中途半端」になるのか聞いてみたいくらいなのだが…。

とはいえ、8年も活動してるってのに(2006年4月8日で8周年、オメデトー!)、未だに、「アイドル」という人もいれば「アーティスト」という人もいるっていうのは、それはそれで凄いことだと思うんだけど、どうでしょ? 別に、「名前」としての「アイドル」とか「アーティスト」にこだわりたいわけではない。ただ、あゆが、そうやって、「アイドル」とも「アーティスト」ともつかない存在で捉えられているのだとしたら、どうしてそうなっているのか。そこが重要なんじゃないかなと思ったわけです。で、それには、あゆの「バランス感覚」が大きく関わっているんじゃないかと。

あゆのことを「アイドル」と捉える人は、どうしてそう捉えるのだろう。衣装とかメイクとかPVとか、見た目が派手だから? う~ん。「アーティスト」と呼ばれてる人にだって、ビジュアル面で大きく訴えてくる人はたくさんいる。自分で作曲しないから? まぁ、あゆはCREA名義で作曲もするのだけど、これはファンじゃない人は知らない人もいるだろうから、作曲しないからって理由も考えられる。でも、じゃあ、UAとかはどうなるの? UAも、最近は自分で作曲もするようになったけど、最初はずっと人が作曲した曲を歌っていたし、今だって全部自分で作曲しているわけではない。「作詞は自分、作曲は他人」という点では、UAだってあゆだって同じでしょ。でも、UAのことを「アイドル」って捉えてる人はほとんどいないような気がする。これは、売り出し方の問題なのか?

「自分で考えてやってる(感じがする)」のがアーティスト、「他人が考えたものをやってる(感じがする)」のがアイドル、ってことなのかな? う~ん。よく分からないねぇ。だって、あゆは、「他人が考えたものをやってる」って感じしないもの。それとも、あゆのことをアイドルって捉えてる人は、そう思ってんのかね? 「音楽面は人任せにしてそう」とか? レコーディングでもプロデューサー的役割をこなし、CMJKに「彼女は自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い」とまで言わせる「音楽家」なのにねぇ。他人の手を借りるのは、アイドルだってアーティストだって同じだし。「思想」とか「意志」が感じられるかどうかってことなのかな? あゆの作品からは、「思想」とか「意志」、感じられるけどね。「音楽が最優先(大前提)にあるかどうか」とか? う~ん。あゆは「音楽を最優先(大前提)にしている」と思うけどね。

まぁ、あゆについては、最初のイメージってのが根強いのかな。スカウトされて歌手になったとか、売り出し方とか、エイベックスとか、そういう背景によるところが大きいかもね(UAもスカウトじゃなかったっけ?)。あと、インタビューとか語る場があまり与えられてないってのもあるかも(とはいえ、あんまり語りすぎるのもどうかと思うんだよね。アーティストなら、まず作品で語って欲しい! その点、あゆは凄いかも…)。

ちょっと言っておきますと、私は、アイドルもアーティストも「表現」においては「同等」だと思ってます。他人が考えたものであれ、自分が考えたものであれ、最終的にはその「表現者」の手に委ねられるわけだから。もちろん、「同じ」と言ってるわけではないですよ。「それぞれの魅力」があるって言ってるんです。ただ、私、日本でホントに「アイドル」っていえる存在って、減ってきてると思うんだけどなぁ。ジャニーズとかハロプロとかしかいなくなってる気が。もう、「アイドル/アーティスト」って分けること自体、時代遅れになっちゃってる気が。それが良い悪いじゃなくね。

以上のことを踏まえた上で、私は、あゆがやっていることは、「アーティスト」なんじゃないかなと思っています(正確に言うと『Duty』ぐらいから)。でも、あゆに「アイドル」的要素があるというのもよく分かります。そして、それはものすごーーーく素晴らしいことだと思うのですが、どうでしょ? ビートルズだってクイーンだって、アーティストでありながら、アイドルでもあったわけで、そこが破格だったというか、素晴らしかったと思うのですが。だからこそできることがあると思うし、誰にでもできることじゃないでしょうに。ま、あゆを、ビートルズやクイーンと比べるなって声も聞こえてきそうですがね。それも分かるんだけど、ま、ある面ではってことですよ。

あゆ自身はどう考えているのかな。私が読んだことのあるインタビューの範囲で拾ってみると、2002年にこんなことを言っています。「前はアーティストとは何か?みたいなことに、ヘンに固執してるところがあったのね。どこからがアイドルで、どこからがタレントでと分けたりしてて。でも、私はあくまでアーティストだ!みたいな(笑)。そういうのはすごくあった。でも、それってすごく自分で自分の視野を狭めてたと思うの」~「アーティストと見てほしいという気持ちが強かったから、誰かに“アナタは誰ですか?”と聞かれたら、“私は浜崎あゆみという歌手です”ってすごく言いたかった。でも今は、“私は浜崎あゆみだ”と思ってるんです」。

誰だってそうだと思うけど、やっぱ色々葛藤があるんだろうね。『ayu ready?』をやるときだって、最初、「私がバラエティ番組をやる意味が分からない」とか言ってたって話を聞いたことがあるような気がする(不確かな情報ですが)。

私、思うんだけど、あゆが「アーティストとして見てもらおう!」ってことに本気で取り組んでたら、結構、皆が皆「アーティスト」って捉えるような存在になること、実現できてたと思うんだよねぇ。分かんないけど。でも、あゆは、そんなこと(アーティストとして見てもらおうとすること)止めたんだよね、きっと。そんなことより、「浜崎あゆみ」であろうとしたんだよ。「浜崎あゆみであろうとすること」を選んだんだよ、きっと。

どこにもない場所で 私は私のままで立ってるよ

「SURREAL」という曲で、あゆはこう歌っている。本当にそういうことなんじゃないかな。アイドルともアーティストともつかない「どこにもない場所」は、「中途半端」って捉えられるかも知れない。でも、「どこにもない場所」に「浜崎あゆみ」のまま立ち続けるって、容易なことじゃないと思うな。たくさんの「自問自答」が必要とされる気がする。「良いとこどり」っていうけど、それはちょっと違う気がするな。いや、ま、「良いとこどり」でも良いけどね、なんちゅーか、「自由であろうとしてる」って気がする。アイドルにもアーティストにも寄りかからず、アイドルからもアーティストからも自由になって、「浜崎あゆみ」を獲得しようとしてるっていうか。アイドル/アーティストってことだけに限らず、常に「自由であるために戦ってる」って気がするな。私があゆに「ロック」を感じるのは、そういうとこからきてる気がする。つまり、「ロック」っていうのは「自由へのあくなき追及」だと、そんな風に思うわけですよ私は。

もちろん、ただ「アイドル」からも「アーティスト」からも逃げるだけじゃ(良いとこどりするだけじゃ)、何も確立されないし、何も残らないと思う。それこそ、「どっちつかず」で終わってしまう危険性がある。ここで重要なのは、あゆは、「アイドル」とか「アーティスト」とかいったものと一旦向き合った上で(インタビューにある通り)、「浜崎あゆみ」を確立させてるってことなんだよな。

で、そのためには、物凄い「バランス感覚」がないとできないと思うんだよ。じゃなきゃ、すぐにバランスを崩しちゃうはずだよ。「どこにもない場所に立ち続ける」なんて。だから、2005年のシングルで挙げたようなこともそうだし、あゆの表現から常に「バランス感覚」が感じられるのは、当然といえば当然のことなんだな。その「バランス感覚」が、その瞬間その瞬間で、「自由」へと向かっていて、そしてその先で、「浜崎あゆみ」へと向かっているから、美しく輝いて伝わってくるんだろうな。

だってね、作品から伝わってくる「バランス」が、それこそ「良いとこどり」のような、ただ取って付けただけのような「バランス」じゃないんだもの。あらゆる要素を寄せ集めただけの「バランス」じゃなくて、それらが複雑に絡み合った上での「バランス」、あらゆる要素が切っても切り離せないところまできてる「バランス」なんだもの。つまりそれは、「浜崎あゆみ」というフィルターを通しての「バランス」になってるってことだと思うのよ。だから、「浜崎あゆみ独自のもの」になってると思うんだよな。

「バランス感覚」か。さすが「天秤座」だね! ってそういう問題かよ! いやいや、天秤ってバランスって感じするからさぁ、ただ言ってみただけだよぉ。でも、そう考えると、あゆの歌詞には「二元論」も感じられるし。その点、UAとも共通してるんだよなぁ。あ、UAは「魚座」です。ってどーでも良い!

2002年のインタビューは、こう締めくくられていた。

「最近つくづく思うんです。どこにいても、何をやってても、結局私の職業は死ぬまで浜崎あゆみなんだなって」

あゆ、カッコ良すぎます。