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sky is blue

言わなければよかったのに日記

熱くなり過ぎた後に…

2005-11-30 22:17:12 | 音楽コラム
いやぁ、熱くなり過ぎちゃったかなぁ。そりゃ、世の中、色々な人がいるのだから、色々な考え方があって当然だよね。もちろん私は、自分が正しいとか、どれが正しくてどれが間違ってるとか言いたいわけじゃない。ただ、今の世の中、油断してると、大きな波に、大事な何かも一緒に流されていってしまいそうでさ。私なりに「これはあんまりだよ…」と思ってしまうこともあったりして。もちろん、誰が何をどう思ったって良い。でもそれは、すべての人間一人一人に言えることだよね? 誰かが正しいと思うことは、誰かにとっては正しくないかも知れない。誰かにとっては取るに足らないことであっても、誰かにとっては物凄く大切なことかも知れない。だから、思うのは、皆、そんな至極当然のことを踏まえた上で、ブログなりホームページなりをやっているのかなぁ?ってこと。もちろん、自戒もこめて。たかが個人ブログでそんなに気張らなくても良いじゃんとも思うけど、実は、(見せかけの)表現の自由が、(本物の)表現の自由を奪うことになってるんじゃないか?とか思ってしまうときもある。

……いけないいけない。また熱くなりかけてるよ。今回は軽めって決めたんだから。というか、ここはあゆブログか?っちゅうくらい、あゆのことばっか書いててスミマセン(引かれてないかなぁ?引かれてないよね!)。いやぁ、色々たまってるみたいね(笑)。「人間として生きてやれ」の最後の方で、「これでやっと、今のあゆの『マイ・ストーリー』に追い付けるかな?」って書いてたくせに、まだ『マイ・ストーリー』以前のことを書いてるし。どうしてあゆのことばかり、こうも長くなってしまうのかと言うと、それは、あゆが有名だからなのかなぁ。いや、ただ単に「有名だから」ってんでもないな。あゆのこと、みんな知ってるのに、みんな知らないって感じかな。もちろん、自分も含めて。あゆの最新アルバムのタイトルじゃないけど、『理解と誤解』っていうか。もしかしたら、あゆって、先駆者なのかもよ!? いや、少なくとも私は、そう信じてみることにするよ。だから、笑われたって良いから、「あゆは先駆者!!」とか、どんどん大風呂敷広げて言ってみることにしよっと♪ 先駆者のファンなら、自分も先駆者にならなきゃね☆

それと、あゆについては、(私が)孤独だからってのもある(笑)。誰か同志がいれば、語り合えたり分け合えたりして、こんなに長々書かなくて済んでるかもね。だから、私の孤独と文章の長さは比例します!(笑) ってお前は何をそんなに、一体何と戦ってんだよ!って感じだよね(笑)。でもなぁ、あゆのことを書こうとするとき、好きだからってのももちろんあるけど、そうじゃなくても、物凄いパワーを使うんだよね。その度に、あゆってすげーなぁって思います。これだけのものと向き合ってるんだなぁって。漠然と。そしてそれは、私の想像の範囲を超えると思うし。

というわけで、いい加減、あゆについては『記事カテゴリ』を作ってみました。その方が分かりやすいかなと思って。でも、専用カテゴリにしちゃうと、誰も読んでくれなくなっちゃうかなって心配したんだけど(笑)、そんなの内容見ればすぐ分かるんだから、同じことかと思って。とりあえず試しにカテゴリ作ってみました。気が変わったらまた戻すかも知れないけど。

さて、前回で熱くなり過ぎちゃったわけだけど、あれから、もう私が言いたかったことを全部言ってくれた!とまで思ってしまった言葉に出会いました。勝手に引用するのは申し訳ないと思うけど、とっても素晴らしい言葉だと思ったので、許して~! それはこんな言葉――。「どんな作品でもその創作の根底にあるのは、『先人への尊敬と、それを超えようとする意志』だと思う」~「それを理解するどころか、肌で感じる事なく、作品や仕事に関わってる人は不幸だ。そして、そういう人は、『超える』事が出来ない」。

ジーーーン。これは、作り手だけでなく、受け手にも言えることだと思う。それ(前回で言うところの「流れ」かな)を理解しようとしたり、肌で感じる事のない人は、あらゆる作品を楽しむ能力に欠けていると。そして、そういう人は「超える」意志を感じることが出来ないし、「超える」事が出来ないと。受け手にはそんな必要ないって思うかも知れないけど、そんなことないと思う。全員が全員そうである必要はないし、全員がそうだったらそれはそれでおかしいと思うけど、やっぱ、切磋琢磨だもん。だから私は「共犯者」でいたいって、そう書いたんだよな。で、その人は続けて、「俺は『超える』意志のある人が好きだし、『超える』意志のあるアーティストと、その作品が好き」と書いていて、だからカニエ・ウェストが好きなんだと言っていた。よし! カニエ・ウェスト聴いてみよう! 友達の間でも評判良いし♪ あゆがカッコ良い~と呟いていたJAY-Zのプロデュースもしてるし♪ で、その人は更に、「同時代の先端に立ち、さらに一歩何かを押し進めるためには、必ず無数の有名無名の先人達の遺した財産の上に立たなければ、不可能な事だ」とも書いていた。いやぁ、あんだけ長々書いてた私がバカみたいだ(笑)。

というわけで気を取り直して、さっき、あゆについて「まだ『マイ・ストーリー』以前のことを書いてる」って書いたけど、いい加減、リアルタイムに近づこうかなと。だから今回は、2005年に発売されたあゆのシングルについて書いてみようかな……と思ったんだけど、この時点で結構な量書いてしまったんで、それはまたの機会にしたいと思います。ここでそれも書いちゃおうとするから、長文になる&更新ペースが遅くなると気付いたんで(気付くの遅っ!)。というか、ひとつの記事に入り切らないと判断したので(笑)。

ちなみに、この日、『北斎展』に行ってきました。凄い混んででゆっくりは観れなかったんだけど、圧倒されました。詳しいことは知らない私でも、絵が好きで好きでたまらなかったんだな~、描きたくて描きたくてたまらなかったんだな~、描かずにはいられなかったんだな~ってのが伝わってきて、なんだかパワーをもらいました。


音楽と音楽の間に流れる音楽を感じろ!

2005-11-29 22:40:50 | 音楽コラム
グループ魂に「新しいロック」という曲がある。<新しいロックがやりたい♪>とご機嫌に歌いだすのだが、こう続く。

<俺の考えた新しいロックは 残念ながら もう誰かがやっていた>

音楽の世界でも「パクリ」という概念はあるけど、一体どこからどこまでがパクリなのかというのは、人によって捉え方や感じ方が違ったり、結局は作り手側にしか分からないところであったりして、ものすご~く曖昧だ。「愛があれば良い」という意見もあるが、愛し方や愛情表現は人それぞれだし、愛を感じるかどうかも人それぞれだから、一概には言えない。それに、愛がなきゃダメだとは思うけど、愛があればそれで良いのかと問われると、そうとも言い切れない気がする。また、パクリというか引用というかインスパイアというか…言い方は何でも良いのだけど、それを自覚している場合としていない場合とがある。分かっててワザとやる場合と無意識のうちに出てしまった場合と…色々あると思うが、どれもアリだと思うし、そこがパクリかどうかの判断基準だとは思えない。とにかく、すごく曖昧だ。

だからと言って、「違う人がやれば違うものになる」だなんて、簡単には言い切りたくない。そりゃそうかも知れないけど、だったら、誰が何やっても良いの?ってことになる。で。うん。そうなんだよ。「誰が何やっても良い」んだよ。音楽は「自由」であるべきなんだから。でも、その「自由」に、ホントにちゃんと立ち向かっているのか? 自由には、責任や覚悟がともなうものだと聞くけれど…。

音楽が自由であり続ける限り、この「どこからどこまでがパクリなのか」といったテーマは、永遠になくならないものだと思うし、また、なくなってはならないものだとも思う。自由を求め続ける限り、向き合い続けなければならない永遠のテーマなのだろう。

「みんな誰かに影響された」

NHK衛星でやっていた『ロック誕生50年』という番組で出てきた言葉。何ものにも影響されなかった人なんていない。仮にいたとしても、何かからの影響を感じ取れないような人に、音楽なんて生み出せるだろうか。生み出せたとして、そういう音楽に心打たれるだろうか。何かに影響されるから音楽が生まれて、また、その音楽に影響されるんじゃないだろうか。そこを否定してしまえば、音楽そのものを否定してしまう気がする。音楽じゃなくったって、例えば私だって、自分の住んでる環境や今まで出会ってきた人や経験に影響されてるに決まってるわけで、それを含めて私なわけで、そこを否定してしまったら、私なんてどこにもいなくなってしまう。

だから、何かからの影響は当然あるとして、そこからどうするか、だよね。大体、簡単にパクリパクリって言ってるのを聞くと、じゃあ、パクリって言われないような曲を作ることが作曲なの?って聞きたくなるよ。音楽がそんなツマラナイものなってしまったら嫌だよ。さっきも言ったけど、音楽には自由であって欲しいんだ。それがそんなビクビクしたものだったりしたら嫌だよ。かと言って、何でも良いわけじゃないけどね。だから、何かからの影響はあるとして、そこからどうするかだから、そこは避けて通れないものだし、逆に、そこを避けて通ったものなんて、ツマラナクナイ?ってことが言いたいわけよ。だってさ、私が何かを表現する場合、自分が色んなもんから受けた影響を出せなかったらツマラナイし、そもそもそんなことしたら何も表現できなくなっちゃうし、仮にできたとしても、それは自分にとって全くリアリティのないものであって、まぁ全然「自由」じゃないよね。

でね。そうやって、何かからの影響が何かを生みだして……って、そこが面白いんじゃないの!って言いたいわけよ。それが音楽というものだろ?って言いたくなるくらいだよ。たっっくさんのアーティストが守り抜いてきたものだろ?って。「パクリ」だと切り捨てるのは簡単。「違う人がやれば違うものになる」と切り離すのも簡単。だけど、ひとつの音楽から別の音楽が聴こえてきて、その別の音楽に最初に聴いた音楽を見つけて。そういうのを感じたときの幸せったらないよ。コール&レスポンスっていうか、点が線になるっていうか、ひとつの音楽の背景に、大きな大きな何か(流れ)を感じて、何て言葉にしたら良いのか分からない、至福のひとときだよ。だからさ、音楽と音楽の間に流れる音楽を聴け!ってことなんだよ。そこにも音楽が流れているんだぞ!って。それに、不思議なことも起こるんだ。例えば、音楽Aと音楽Bに繋がりを感じたとするよね。時系列で言えば、音楽Aの方が先に生まれているはずなのに、どっちが先か分からなくなったり、音楽Bの方が先なんじゃないか?って思えたり。もしくは、音楽Cと音楽Dに強い繋がりを感じたとして、でもそれぞれはそれぞれの存在を全く知らないまま生み出されたとか。そういうの、ドキドキするよね~。

でも、さっきも言ったように、何でも良いわけじゃない。私が思うに、例えば、○○から影響を受けた音楽があるとして、それを聴いたとき、「これなら○○を聴けば良いや」と思わせてしまったら、負けなのかな。点が線になる大きな流れって書いたけど、何かから影響を受けて、それを何らかの形で還元して、その大きな流れに還すというか。色んなものからの影響で作られてるのが自分だとして、それを受け止めて咀嚼して、自分なりの何かを生みだすというかさ。受動が能動に変わる瞬間に、人は感動するんじゃなかろうか。「生かされてる」が「生きている」に変わる瞬間っていうかね。う~ん、話が広がり過ぎてるかぁ。とにかく、「何かが生まれる音」が聴きたいわけよ! その音楽にしかない何か。その音楽が生まれる前と後とでは、何かが確かに違う音。そこに何らかの「流れ(グルーヴ)」を感じるわけだよ。もしかしたら、後続のミュージシャンであればあるほど、ハードルは高くなっていくのかも知れないね。でも、同時に、恵まれてもいるんだから、それに負けないでいこうよ! たっっくさんのアーティストが守り抜いてきた「流れ」を止めるようなことだけはやめようよ! 私たちはその「流れ」に身を委ねたいだけであって、それをどっちが先だ後だと、まるで自分が生み出したもののように、どうのこうの言う人もいるけど、この「流れ」だけは止めさせないよ! あ、誤解のないように言っておくけど、その「どうのこうの言う」っていうのと、「流れ」がどっからどうきて~と研究することとは全然違うよ。その「流れ」を汲み取ろうともしないで、先か後かとか好き嫌いとかイメージとかだけで判断する人を言ってるだけだから。とにかく、「流れ」は止めさせないし、止まらないよ! 心配しなくても、「流れ」にのらない「パクリ」なんてものは、放っておいても、「流れ」からは自然にこぼれ落ちていくんだから。

って、私は何もの?って感じですが(笑)、影響と言えば、単純にその人のルーツや嗜好が分かって楽しいってのもあるよね。まぁ、パクリパクリって騒がれるのは大体有名アーティストと相場が決まっていますので、ここでは、あゆの話をしようかな(笑)。あゆがどんな音楽的嗜好なのかというのは、どのくらい知られているのか謎ですが、その理由のひとつに、そういうのがあまり語られてないってのがあると思う。正確に言えば、語る場が与えられてないってことかな。ファンなら熱心にチェックもするだろうけど、一般的なレベルではあまり語られてないよなぁ。で、私が知る範囲で言うと、スマパンはかなり好きらしい。あゆの曲に、モロ影響出てる曲あるし。あと、雑誌の「今日持ってるCD」っていうので、レッチリ、ファットボーイ・スリムだったことがあったはず。それと、最近聴いてるのは?って聞かれて、ジョーン・オズボーンって答えてたときもあった。あと、ノー・ダウトがライヴ前にかかってたとか。ニルヴァーナやレディオヘッドも好きと言っていたって話も聞いたことあるんですけど、どうなんでしょ。また、小さいころは、ツェッペリンやディープ・パープルを聴いていたとか。ホントかよ!(笑) ベイビーフェイスやアン・ヴォーグなどのブラック系も好きっていうのは聞いたことある。あと、マドンナは大好きに決まってるしぃ♪ って、あゆはナンデモ屋かよ!(笑) ま、良いじゃないか。私もナンデモ屋だし(笑)。まぁ、あまり語られてないのもあって、私も、実際はどうなんだろって疑ってたんだけど、MTVにあゆが出たときに、「本当にちゃんと聴いてるんだなぁ」って感じたんだよなぁ(私エラそう)。世界のチャートを見ていく番組で、司会者に話振られても、自然に普通に答えてたもんなぁ。普通に知ってそうだったもん。「気になるのありました?」って聞かれたら、「JAY-Zカッコ良い~」とか言ってたし。私より詳しいじゃん!(笑) そういや、『恋のから騒ぎ』に出たときだって、リンプ・ビズキット知ってたしなぁ。

どれも有名どころばかりじゃん!って言うかも知れませんがねぇ、この前ですよ、たまたまMTVつけたら、大○愛が出ていたわけですよ。同じく世界のチャートを見ていく番組だったんですけど、司会者が「気になるのあります?」って言ったら、彼女なんて答えたと思います? 「何言ってるか分からん」ですよ!(歌詞がってことでしょうか) で、司会者が「洋楽はあまり聴かないですか?」みたく聞いたら、「そうですねぇ」みたいに適当に答えてましたけど。そのときはマドンナが1位だったのですけど、かろうじて「レオタード凄いなぁ」ですよ! いや別にね、洋楽がエラいと言いたいわけじゃないんです。洋楽を知ってる知ってないでどうのこうの言いたいわけじゃないんです。ただ、あなたは、少なくとも音楽を志す者だろう? じゃったら、「何言ってるか分からん」は無いだろ。他に言い様はないのか? 言葉が分からなくったって、音楽は音楽だろう? ミュージシャンが音楽に対して「何言ってるか分からん」って言ってるわけですよ? 向上心とかプライドとか勉強しようとか敬意とかそういうのはないのですか? いやね、知らないのは知らないで良いんですよ。私だって、知らないの一杯あるし、知らない方が多いに決まってるし。だけど、その発言と態度はあんまりじゃ? 分かってて開き直って敢えて言ってるのなら良いんですけど、素っぽかったからなぁ。

と、随分イヤな感じで書いちゃいましたが(ごめん)、あゆの話に戻すと、気づくのは、上に挙げてるアーティスト、全部、洋楽なんだよね。だからあゆは、かなりの洋楽嗜好(志向)であると思われます。実際、雑誌とかで名前挙げるの洋楽ばっかだしなぁ。だからと言って、「私、本当はこういうのが好きなんです!」とかって“変に”アピールしないところが素敵! そんでもって、サザンとかユーミンとかも大好きで、『Mステ』で「オレンジレンジ好きで」とかあっけらかんと言えちゃうあゆちゃんは素敵すぎる! んもう大好き! な~んだ、私の言いたいことって結局それかぁ(笑)。

まぁね、何が言いたいのかといいますと、「パクリはとにかく犯罪」で「犯人探し」をするよりも、「違う人がやれば違うものになる」と「無関心」でいるよりも、私は「共犯者」でいたいって、そういうことなんですよ!

自由には、責任や覚悟がともなう。だったら、だまし通せ! 信じ通せ! きっとその先に、自由(音楽)はある!

熱くなり過ぎた後に…


本気で鳴らす音楽だけが持ち得る普遍性 【後編】

2005-11-28 13:05:22 | AYU
【前編】の続き。

その後、『I am...』の荒々しさを癒すかのような5thアルバム『RAINBOW』(02/12/18)を出す。『I am...』では、ほとんどがCREA作だったが、『RAINBOW』では、CREA作と他の人が作った曲を混ぜ、英語詞にも挑戦し、『I am...』では追い付かなかった、音楽的クオリティを目指した。ゴリゴリのロック・サウンドで押し通すのではなく、音楽性の幅も広がっている。曲調も明るくなっていて、『RAINBOW』という今までになく明るいタイトルもそうだし、それまでの荒い道のりを癒そうとするかのようなアルバムに感じられた。この頃の、ビブラートを多用するようになった歌い方も、音楽的クオリティを獲得しようという気持ちと癒しを求めた結果なのかも知れない。

で、ミニアルバム『Memorial address』(03/12/17)~6thアルバム『MY STORY』(04/12/15)へと続いていくわけだが、この辺であゆが「叫ばなくなった」とか言う人もいる。確かにそうなのだが、私が思うに、あゆにはまだやっていないことがあったんだよ。それはもう単純に「自分が納得できる作品を作ること」。生まれ変わるための荒々しい叫びでもなく、それに対する癒しでもなく、ただ単に「音楽」として「作品」として「自分の納得できる作品」を作ること。叫びや癒しが音楽になることもある。けど、そうではなく、もっと自由に自然体で「音楽」と向き合うこと。それこそ、あゆのまだやっていないことだったんだよ。この辺から、歌い方も、ビブラートを多用したりせず、自然体な感じになっている(その代わりと言うわけじゃないけど、歌い方が表情豊かになってきた)。それを「守りに入った」とか言う人もいるけれど、無意味に叫ぶフリをしたり、癒すフリをしても、それこそ「守りに入ってる」んじゃないの? 何しろ、そんなの「不健康」だ。むしろ私は、あゆが、ここにきて、叫びとか癒しとかいったもので押し切るんじゃなく、フラットな状態で「音楽」と向き合おうとしたことを嬉しく思ったし、逆に、「本気なんだな」って思ったよ。きっと、「足元」を固めようとしたんじゃないかな。何にしても、「足元」って大事だから。

……と、『MY STORY』までの軌跡を辿ってみたわけだけど(最後の方かなり駆け足)、思うのは、これは、エイベックスとの戦いでもあったんだろうなぁってこと。あゆ自身、【前編】で書いた「ザ・エイベックス!を壊す勇気が~」とか、「組織と戦ってやれ」という名言(笑)まで残してるわけだけど(「自分が属してる組織なのに」って自ら突っ込んでたけど)、エイベックスにはねぇ、ほんと、言いたいことはある(笑)。あゆの話はここでは省くとして、例えば、最近の倖田來未の12週連続リリースとか、何なのあれ。ああいうの見てると、自分んとこのアーティストを信用してないのか?って疑いたくなるよ。あんなに“安売り”しなくても良いのにって。私はファンじゃないし、詳しくは知らないけど、そんな“安売り”しなくても、結構彼女、歌上手いんじゃないの? もっとゆっくりじっくりアーティストやファンや音楽を育てていこう!ってのがないのかね。エンタテインメントを届けよう!って気持ちは分かるけど、それだから「流行りもの」とかってイメージが付いちゃうんだよ。あれじゃあ、彼女のせっかくの才能や可能性を殺しかねないと思うんだけど。そりゃ、それで成長する場合もあるだろうけど、そんな“賭け事”みたいにしなくてもさぁ。そりゃ、“賭け”が必要な場面もあるだろうけどさぁ。第一、肝心の「音楽」を聴かせよう!って意志があんまり見えてこないんだけど。それで良いと言うのなら問題外だけど。自分んとこのアーティストの寿命を短くしてるのは、そして、過小評価してるのは、他でもない自分達じゃないの? 何でも叩き上げれば良いってもんでもないと思うんだけど。

そう考えると、あゆは、よくそのエイベックスに負けないでここまできたよな~って、心底思うよ。凄いよ、あゆ。で、あゆが偉いのは、そうやってエイベックスと戦いながらも、同時に愛してもいるってとこなんだよね。そりゃ、松浦氏がいなけりゃ浜崎あゆみという歌手は生まれなかったわけだから、当然っちゃ当然なんだけどさ。エイベックスに飲み込まれもしないし、突き放しもしない。偉いよ、あゆ。これは女性的な感覚なのかも知れないけど、愛がなきゃ、本当の意味で戦えないってことだよなぁ。愛のある戦い――。これは何かを変えると信じたいけど、そんなことよりあゆにはあゆの活動をして欲しいし、一ファンである私はそこまで考えてられません(笑)。でも、あゆがそのエイベックスとともにあることも事実なわけで。も~、頼むよ、エイベックス!

というわけで、【前編】からかなり長くなってしまいましたが、ここで最初の「古くさい/古くさくない」の話に戻るわけです(長すぎてスミマセン)。やっぱり、『Duty』から「古くささ」がなくなっているってことを考えると、本気で音楽と向き合うそのパワーってのが、時代を超えるのかな~とか思っちゃうよね。結局、そのパワーが、流行とか技術とかそういうのを、超えちゃう気がするんだよね。無論、「一生懸命やれば良い」だなんていう根性論を掲げるつもりはないし、それだけでは決してないと思うけど、少なくとも、「普遍性」を持ち得た音楽の中に、「本気じゃない」音楽なんてないと思うもんなぁ。姿勢が「ダサい」と、やっぱりどこかで「ダサい」ってバレちゃうのかな。あゆの1stを「古くさい」だなんて言っちゃったけど、その中でも「A Song for ××」って曲だけは異様なくらい今でも「古くさくない」し「普遍性」を持ち得ていることに、ヒントが隠されてる気がするんだよなぁ。だって、1stにして、あの曲だけは、彼女の心の奥底からの叫びを感じるんだもの。やっぱ、どんなジャンルやスタイルであっても、本気でやるしかないのよ。魂込めろ!って、結局そういうことなのかな。あゆが魂込めて本気で音楽を鳴らしてくれたからこそ、1stとか2ndの音楽も、ダサいながらも「ピュア」なものとして、光り輝いて聴こえてくるんだもん。

だからさ、今こそ「SIGNAL」、歌ってよ!?(笑)


冒険的で懐古的? あゆのイビツな音楽性 【前編】

2005-11-27 22:30:53 | AYU
浜崎あゆみの1stアルバム『A Song for ××』(99/1/1)に「SIGNAL」という曲がある。これがもう笑っちゃうくらいに……ダサい。今となっては、「あゆ、こんな曲歌ってたのぉ?!」って感じだ。歌詞もすごいし、そんな風にキメられてもぉって感じで、もう私なんかは大好き!?(笑) もちろんそれは「今のあゆ」があるからなんだけど。イントロがはじまった瞬間、吹き出しちゃうし、笑いなしには聴けない。私の、今こそあゆに歌って欲しい曲No.1である(絶対無理だろうなぁ)。だけど、この「SIGNAL」に限らず、「Hana」とか他の曲も、やっぱりちょっとダサい。やはりこれは「今聴くと」なのかな。

このある種の「ダサさ」は、2ndアルバム『LOVEppears』(99/11/10)でも、1st程ではないにしろ、やっぱりどこか残っている。だけど、3rdアルバム『Duty』(00/9/27)からは、これが不思議となくなっている。今聴いても「古くさい」と感じないのだ。あゆに対して(もしくはエイベックスに対して)、「流行りもの」というイメージを持っている人も少なくないかも知れないが、この頃からのあゆの楽曲が、そのイメージとは裏腹に「普遍性」を持ち得ていることはどのように評価されているのだろうか。まぁ、そんなこと言っても、5~6年しか経ってない判断ではあるけれど。

音楽において、この「古くさい/古くさくない」の基準は、よく分からないことだったりする。その時の流行やサウンド面の技術、ジャンル的なことなどが関係してくるのだろうが、結局は曖昧である。その答えがハッキリ分かるんだったら、誰も苦労しないよ!って話である。

ただ、一つだけ言えるのは、この『Duty』あたりから、あゆの音楽に対する意識が明確に変わったということだ。それまでは“用意された楽曲を歌っているだけ”という印象が拭えないが、『Duty』は、もう最初っから明らかに気迫が違う。曲調もサウンドの方向性も、そして、あゆの歌い方も、それまでと全然違う。何だかクドいし、何かを背負ってる感じがする。それまでは、ダンサブルな曲にしても、バラードにしても、爽やかで軽快だった曲調も、重々しく暗い感じになっている。歌詞もそれまでと違っていて、前の“何となく思ったことを書いている”という感じではなく、自分が“歌いたいこと、歌うべきこと”を模索して書いているような感じだ。生みの苦しみである“もがき”を感じる。要は、音楽に意識的になった、自らの表現方法として音楽と向き合いだしたってことなんだろう。

当然、「前の方が好きだった」という人も出てきただろう。前の方が「ピュア」だったと。それはある意味では当たっているのかも知れない。意識的になるということで、ピュアではなくなるという見方もできる。でも、それによって、彼女が“自分が本当にやりたいこと”をやるのなら、それが彼女の「本性」なのではないだろうか。そして、「本性」が出れば出る程、その表現は“純度が高い”ということになるのではないだろうか。

『Duty』から音楽に意識的になったと書いたけど、順番が逆だろ!とか遅いよ!って声も聞こえてきそうだ。それについては彼女自身が一番自覚していることだろうし、色々と葛藤もあったみたいだ。もっと違う音がやりたいとか、そういう欲が出てきたにも拘らず、怖くてなかなか踏み切れなかったらしい。「ザ・エイベックス!みたいなものを壊しちゃいけないんだって。その勇気もなかった」と語っている。そんな彼女を目覚めさせたのは、他でもないお客さんだったようだ。はじめてのツアーでお客さんのパワーを目の当たりにして、そういう自分に引け目があった分、「負けると思った、お客さんに」と語っている。その辺から、もし「違うな」と思われても、「それを振り向かせる事に、自分は生きる喜びを見るんじゃないか」と思えたとのことだ。

そして、あゆの音楽性は急速に変化していった。遂には、CREA名義で作曲までするようになる(幽霊説はここでは無視でお願いします…笑)。はじめて作曲した曲が「M」なのだが、やはりどこか歪で、未完成って感じで、強引な展開をする変な曲だった。だけど、それを歌うときに発せられる彼女のエネルギーは、確かにそれまでにないものだった。だから、音楽的にどうのと言うよりも、曲を作るという行為自体が、「浜崎あゆみ」という“アーティスト”が真の意味で産声をあげるために、必要なことだったんだと思う。そう。『Duty』から予兆はあったものの、アーティスト「浜崎あゆみ」が本当の意味で誕生したのは、「M」であり、後の4thアルバム『I am...』(02/1/1)であったと私は捉えている。はじめて「浜崎あゆみ」が全貌を現し、裸になり、剥き出しになったのは『I am...』だったと(産声のようなアルバムかな)。

「M」はミリオン行ったらしいが、それについての彼女の発言で印象的なのがある。「あの曲は、そんなに売れる感じじゃなかったと今でも思ってる」「あんなに売れちゃいけないと思ってた」と言っている。「浜崎あゆみのCDをただみんなが買っただけ? だから聴いた事ない人、バラードなのかアップなのかなんだかわかんないけど、なんでもいいから『あっ、あゆ新曲出したんだ。買わなきゃ!』っていう人が、凄く今、日本にいるっていう事だと思ってる」とまで言っている。なんて生意気なんだ!(笑) 買った人に失礼じゃないか!(笑) でもなぁ、正直だよなぁ。だってこれ、他でもない「音楽」で自分を評価して欲しいって気持ちの表れでしょ。それを誤魔化しではなくちゃんと伝えたいってことでしょ。音楽に対しても、ファンに対しても、真摯でいたいってことじゃん。自分で作曲するようになって、尚更その気持ちに気付けたのかな。それにしても、「凄く今、日本にいるっていう事だと思ってる」なんて、なかなか言えないよ?(笑) でもそれが現実だったりするんだから、カッコ良いよなぁ(笑)。

肝心のサウンドがどのように変化していったかと言うと、簡単に言えば、どんどん「ロック」になっていったのだ。もう十分、「ザ・エイベックス」(笑)は壊している。

こういうことを言うと、こういう変化自体「流行を読んでる」とか言う人もいる。でも、果たしてそうだろうか。別に私は「流行を読む」ことが悪いことだと思っているわけじゃないし、歌は世につれるものなのだから、「流行」や「時代」の影響を受けることは当然のことだと思っている。けど、あゆのこの変化はそれとは別次元な気がしてならない。客観的に見れば、むしろ、この変化は「冒険的」だったのではないだろうか。もし本当に「流行を読む」んだったら、もっと言えば「売れる音楽」を作りたいだけだったら、自ら作曲までしてこんな冒険しなくったって、「ザ・エイベックス」な音楽に、その時その時の流行りの音を上手く取り混ぜてやってりゃ、それなりに人気もあったんだから、それで良かったはずだ(と思う)。だけど、こんな荒々しいまでの変化――。やはりこれは、「流行」のためでも「売れる」ためでもなく、他でもない「浜崎あゆみ」というアーティストが真に生まれるために必要なことだったんだと思う。

大体、流行を読むんだったら、もっと違う方向にシフトしてたような気がする。だって、「ロック」って流行ってた?(笑) 仮に流行ってたとしても、あんなコッテコテのベッタベタなロック・サウンド全然“流行り”じゃないよね? そもそも、あゆがロックをやる必要なんてあったのかな?(世間的に) むしろレトロな方向というか、変化自体は「冒険的」ではあったけれど、サウンドの方向性としては「懐古的」というか、そんな気がするんだけど。更に、あゆが作曲したことによって「未熟」な面も露わになっちゃったし。そういった複雑な側面が、あゆの音楽に対する人々の理解をややこしいものにしている気がしないでもない(いや、私もまだよく分かってませんけど)。実際は、分かりやす過ぎるくらいバカ正直なのにね。

いずれにせよ、結果的には、2~3年の「流行」で終わらず、デビューから7年以上経った今でも第一線で活躍しているわけだけど(これ、どのくらいの人が予想できてたんだ?)、それは結果論であって、「流行を読んで」そうなったのではないと思う。そもそも、「流行」ってそんな単純で簡単なものでもないと思うし、結局は「伝わるもんは伝わる」ってことなんだと思うし、思いたい。だって、「音楽」を通してあゆのその「姿勢」が評価されたのだとしたら、それはもはや「流行」とかそういうものではないよね? 大体、彼女の「音楽」を聴いてみれば、そんなことすぐに分かるはずなんだけど。それなりの結果を築いた今だからこそ、敢えて言うのだとしたら、「流行を読んだ」のではなく、「流行を作った」と言えるのではないだろうか。敢えて言うのだとしたら、ね。

【後編】に続く。


ブラックホールの中心で、愛をさけぶ

2005-11-26 00:44:24 | AYU
随分前の話になるけれど、菊地成孔の『CDは株券ではない』で、浜崎あゆみの『Moments』(2004/3/31発売)が取り上げられた。『CDは株券ではない』は、“bounce.com”で連載されていた、JポップのCD売り上げ枚数を発売前に予想するというもの(そして毎回外れるというのがウリ?笑)。やはりというか当然というか、いつかあゆも取り上げられるんだろうな、いや、取り上げられないわけがない! と、ワクワク、そして、ビクビク(笑)しながら待っていたのだが、遂にキタ! ああ、あゆが菊地さんに斬られてしまう。いや、あゆも菊地さんに斬られる日が来たのね。立派になったじゃん!(笑)

で、これがなかなか面白痛かったので(面白く、かつ、痛いところを突かれたという意味…笑)、せっかくだから、それを受けて私も真面目(?)に語ってみようかなと。

菊地さんは、「僕が最もその肉体を愛する女性」と、あゆの肉体的な魅力を十分認めた上で(「天上界に君臨する事は変わりません」とまで表現してたのには笑った)、誹謗にならないことを祈りながら、「僕は彼女の歌が、死ぬほど聴いたのにもかかわらず、全く区別が付かないのです」と書いていた。

これは、、、、、、分かるなぁ(オイ!)。

いやいや、違うんですよ。本当は決して「同じではない」し、少なくとも私は「区別付くよ!」って胸を張って言えるんです。それどころか、あゆの「音楽性の変化」についてだって語れます。だけど、ここで言っている「区別が付かない」というのも、何となく分かるのよ。まぁ、菊地さんが言ってることと私が言ってることは必ずしも一致するわけではないだろうけど、話を進めます。

菊地さんはここで、「エルヴィス・プレスリーだって、初期ビートルズだって、大スターというものは、多かれ少なかれそういう物でしょう」とフォロー(?)を入れている。そうなんだよね。例えば、サザン、ユーミン(クリスマスの特番『松任谷由実のオールナイトニッポンTV』でユーミンとあゆ対談しますね!必見!)、矢沢永吉。もしくは、奥田民生、ドリカムなんかでも良い。そういう人たちも、私の中では、少なからず「同じに聴こえる」って側面、あると思う。これは、それが良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかとは別の話。でも、本当は「同じではない」ってことも頭の別の部分では分かっている(つもり)。それどころか、むしろ、今挙げたような人たちは、音楽性の幅が広い方ではないだろうか。色々と革新的なこともやられている人たちだとも思う。それなのに、「同じように聴こえてしまう」という現実もまた、私の中にあるのだ。金太郎飴みたいな。それは、多分、例えばサザンなら、もう「サザン(とそれを取り巻く漠然としたイメージ)」って存在が大きすぎて、まっさらな状態で触れることが極めて困難な状態に陥ってるからっていうのがあると思う。それだけ、「サザン(あるいは桑田佳祐)」っていうブランドというかネームというかキャラクターというか看板というかが、確立されているってことだと思うし、悪く言えば「一人歩きしている」ということになるのだろうけど、そんなのある程度有名になってしまえば避けられないことであって、それだって強烈な個性として、自らが築き上げたものの一つとして、誇りに思って良いものだと私は思う(裏を返せば、一貫した「何か」があるってことだからね)。大衆芸術というものは多かれ少なかれそういうものだしね。そして、そういう中でも「自分」を失くさないでいられる人だけが(かつ、「自分の殻」をぶち破ることもできる人だったら最強!)、「大スター」でいられるのだ。

洋楽の例だと、例えばクイーンなんか、あれだけ音楽的に多方面のことをやっていながら、フレディという強烈な個性の塊によって、「同じに聴こえる」って側面、あると思う(言っときますけど、私、クイーン大好きですからね)。

今話題のRAM RIDER(浜崎あゆみのリミックスや片瀬那奈への楽曲提供などもしつつ、自らの活動も行い、ジャパン・フェスやサマソニへのDJ出演などもしている)が、インタビューでこんなことを言っていた。彼は、TM NETWORKに強く影響を受けたらしいが、「TK(小室哲哉)全盛期で、曲が量産されてくあの感じがおもしろくて。『小室哲哉の曲はぜんぶ同じじゃん』って誰かが言ってるの聞くたびにうれしかった。むしろぼくも『RAM RIDERの曲はぜんぶ同じ』って言われたいくらい。サビだけちょっと聴いて誰が作ったかわかるっていうのはすごいことですよ。ポップスってそうやって大量生産されて、スポイルされてもいいからどんどん供給して、みんな同じだと思われても何年か経って聴いたらちゃんといいものが残ってるっていう、そこがポップスのいいところだと思うんですよ。――中略――いま聴くと、あの熱かった時期には見えなかったものがちゃんと見えてきますね」。

そんなこんなで、菊地さんが言う、あゆの歌が「区別が付かない」というのはよく分かる。ただ、一つだけ苦言を言わせてもらえば、取り上げたのが『Moments』ってところにも問題はあったと思う。あれは、それまでの集大成的な曲だったから、既視感ばかりが目立つのは仕方ないっていうか、そういう曲だからってのがあるからなぁ。ま、そうだとしても、あゆも、それくらい「浜崎あゆみ」という強烈な個性を放っているってことに間違いはないだろう。何事にも、良い面と悪い面がある。その強烈な個性は、武器にもなれば足枷にもなる。その強烈な個性ゆえにアピールできるものもあれば、それゆえに「区別が付かない」ということもある。そういうことなんだろう。そして、菊地さんは、それゆえに「彼女の歌を聴けば聴くほど、乖離してゆく」と書いていた。うーん。これも、悔しいけど分かるなぁ(オイ!)。さっき、武器にも足枷にもなるって書いたけど、そういう、同じに聴こえてしまうビッグネームの人たちって、それが良い悪いとか好き嫌いとかじゃなく、どこか敬遠しがちになってしまうところ、私にもあるもの。それが同じ国の人だったら尚更。なんかもう、聴く前から「お腹一杯です」みたいな。こればっかりは、どうしようもないなぁ。何かのキッカケで扉が開くのを待つしか。私だって、好きになる前は、あゆのこと「全部似たような曲じゃん!」とか思ってたもん(笑)。だけど、扉は開かれてしまったんだよね。開かれたら最後、あゆの曲が決して「同じではない」ことも分かってしまうし、その「変化」も嗅ぎ取ってしまう。だから、それ(扉が開いたこと)は、あゆの実力であると素直に認めたい。だって、菊地さんと同じように「区別が付かない」って思っていた私を、それどころか嫌っていた、これまた菊地さんと同じように乖離していた私を、巻き込んでしまったんだもの。私の扉をこじ開けたのは、他でもないあゆなんだもの。いや、あゆがノックをして、私が開けたのか。どちらにしろ、あゆにそれだけの力があったってことだよ。って、私、エラそうですけど(笑)。

ついでに、菊地さんは、最後の方にこう書いていた。「この歌を真摯な意味で必要とする人々の心と、彼女の肉体をどこまでも愛してゆく僕の心と。全盛期のマドンナに匹敵するほどの〈ボディが持つメッセージ性〉を彼女が持っていることを、この歌を必要としている人々にはどれぐらい届いているのか?」。

うおぉぉぉぉ! 分かるよ、分かるよ、これ~!

そりゃ私は、あゆの「歌」が大好きだけどね。でもね、この彼女が持つ「ボディが持つメッセージ性」ってのも分かるの! あゆってさ、バレリーナみたいっていうか、アニメのキャラクターでも良いんだけど(笑)、こう「ただそこにいる」だけで、なんらかのメッセージを発しているような、そういうオーラ、あるんだよなぁ。体全体で何かを発しているっていうかさ。またまたフレディを例に挙げちゃうけど、フレディって、なんかもう「そこに立っている」だけで、何か発してるじゃん。ルックスとかスタイルとか動きとか表情とか眼力とか、もうすべてで、なんか発してるのよ! そういうの、あゆからも感じるな~。クラクラしちゃいます。「ボディが持つメッセージ性」。うんうん、分かるぅ~! 体全体で表現してるっていうか、表現になっちゃってるっていうか。単純に言うと、ビジュアルの部分で訴えかけてくる部分ってのも、あゆ、大きいよねってこと。誰にでもできる芸当(才能)じゃないですよ、これ。で、菊地さんは、「彼女の歌を真摯な意味で必要とする人々の心」と「彼女の肉体をどこまでも愛してゆく僕の心」との狭間に広がったブラックホールみたいんを見てるのかなぁ? だとしたら私は、その両方に共感してしまうっていう、そういう立場だなぁ。ううーん、それはそれで、なんとやら…って感じだなぁ。引き裂かれていくっていうか。もしかして、狭間のブラックホールにハマッた一人?(笑)

まぁ、何でも良いや! だってさ、どうであれ、菊地さんは、あゆを語るときに、あろうことか、「エルヴィス・プレスリー」と「ビートルズ」と「マドンナ」の名前を挙げて語ってくれたんだよ? その意図がどうであれ。もう一回書いちゃうよ? 「エルヴィス・プレスリー」と「ビートルズ」と「マドンナ」だよ? そんな名前を挙げてあゆを語ってくれたこと自体、超嬉しいし、あゆだって、超嬉しいでしょ? ほら、あゆ、喜びなさいよ! ここ、喜ぶところよ!

……にしても私、あゆ、べた褒め(惚れ)だなぁ。とほほ。