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sky is blue

言わなければよかったのに日記

邦楽をもっと聴かせて!

2006-09-23 23:07:41 | AYU
邦楽を積極的に聴くようになる大きなキッカケを私にくれたのは「椎名林檎」だった。それ以前にも、ミッシェル・ガン・エレファント、ホフディラン、トライセラトップス、ブリリアント・グリーンなど聴いてはいたが、やはり私の中心は洋楽だった。(そのもっともっと前まで遡れば、L⇔Rだったりしますがね)

椎名林檎の何がそんなに自分にとって斬新だったのか、今でもよく分からない。しかし、あれから何年かの月日が経った。その間に私は、椎名林檎の対極、もっと言えば敵(笑)ぐらいに思っていた「浜崎あゆみ」を好きになり、そのことによって、自分がどうして椎名林檎にあんなにも惹かれたのかが、当時よりは分かってきたような気がしているのだ。浜崎あゆみ、おそるべし。

それまで洋楽中心だった自分が言えるのは、椎名林檎が洋楽に近かったから夢中になったのでは決してないということだ。もしかしたら、ミッシェル・ガン・エレファントやトライセラトップスなどには、洋楽に近いものを求めていたのかも知れない。つまり、「洋楽ありき」で聴いていたのだ。しかし、椎名林檎は違った(実はここに「エレファントカシマシ」も入る)。彼女の音楽は、私に洋楽を忘れさせるほどの輝きを放っていた。だから私は、実際に洋楽を忘れかけたんだと思う。『ロッキング・オン』(洋楽専門誌)ばかり読んでいたのが『ロッキング・オン・ジャパン』(邦楽専門誌)ばかり読むようになり、(椎名林檎の影響がバレバレですが)ブランキー・ジェット・シティ、くるり、中村一義、UAなどの邦楽を一気に聴くようになった。

もちろん、本当に洋楽を忘れたわけではなかった。クーラ・シェイカーが来日すればライヴに行ったし、レディオヘッドが来日すればライヴに行った。

そうこうしているうちに、転機が訪れた。あれほど嫌っていた、心のどこかでバカにさえしていた「浜崎あゆみ」に、ガツンとやられてしまったのだ。私は、まったく意味が分からなかった。どうして浜崎あゆみなんかに惹かれてしまうのだ? 自分が一番バカにしていた「商業音楽」じゃないのか? 浜崎あゆみはそれを最も象徴する存在じゃないのか? 一体全体これはどういうことなんだ!?

そして、それだけではない「変化」が自分の中で起こっていることに気がついた。自分が盛り上がっていた邦楽のいくつかに盛り上がれなくなり、再び洋楽への興味が増しているということだ(これは逆もあるんだけど)。浜崎あゆみと言えば、「J-POP(邦楽)」を象徴するような存在だと思っていたのに、これはなんとも、不思議な話だなぁ。洋楽への興味は、以前から変わらないと言えば変わらないので、それほど問題ではない。一番の変化は、邦楽を聴くようになったキッカケである椎名林檎(今の)に、以前のように盛り上がれなくなってしまったということだろう。

もしかしたら、浜崎あゆみを好きになっていなければ、私は今も椎名林檎を追いかけていたのかも知れない。何も、浜崎あゆみが椎名林檎に取って代わったと言いたいわけではない。あゆはあゆ、林檎ちゃんは林檎ちゃんだ。椎名林檎に盛り上がれなくなったことと、浜崎あゆみに夢中になっていることは、無関係であろう。

しかし、私が浜崎あゆみの表現に興奮するとき、「私がかつて椎名林檎に求めていたのはこのことだったのかも知れない…」と思う自分がいるのも確かなのだ。それは、音楽性というよりも、「大衆的であろうとする」という姿勢の面でのことだと思っていた。しかし、そもそも、「音楽性」と「スタンス」というのはハッキリ分けられるものなのだろうか。いや、仮に分けて考えることが可能であっても、「スタンス」だけで済むのなら、「浜崎あゆみ」じゃなくたって良かったはずだし、「音楽性」だけで済むのなら、「椎名林檎」で良かったはずだ。もちろん、誤解のないように言っておくが、私は浜崎あゆみに椎名林檎の幻影を見ているわけではない。何度も言うが、あゆはあゆ、林檎ちゃんは林檎ちゃんだ。

では何故、「浜崎あゆみ」を追いかけていくことによって、「椎名林檎」の何に夢中になったのかが分かってきたのか。そう、私は、「椎名林檎」の何に夢中になったのかが分かってきたのではなく、「邦楽」の何に夢中になったのかが分かってきたのではないか。「椎名林檎」は、私にとって「邦楽を聴くようになったキッカケ」の存在である。

近田春夫は、「椎名林檎」についてこう評していた。
「日本語のロックとは何なのか、いつの間にか難しすぎて、ほとんどのアーティストが考えもしなくなった、しかしやはり絶対に曖昧に出来る筈もないその問題に対して、このヒトは真正面からぶつかっている気がする」
(『考えるヒット』1999.11.18より)

私が今、この文章を読んだとき、真っ先に思い浮かべたのは「浜崎あゆみ」だった。だって私は、こんな風に書いていたんだもの。
「日本語のロックに出来ることは何なのか? そんなことをこんなにバカみたいに真剣に考えさせられたアーティストは、私にとって、おそらく、『あゆ』が初めてだよ。あゆを聴いてると、日本語ロックとは何なのか?って、そういうことに向き合わざるを得なくなるんだよ」
「sweetbox "ADDICTED" to "(miss)understood"」より)

そしてそれは、前回の「流行歌手で悪いかぁ!」で書いたようなことに繋がっていった。

つづく。
(そう言えば、林檎ちゃんとあゆの「今度会おうね」は実現したんですかねぇ)

******

え~、こんなことを書いているうちに、2006年から2007年に変わってしまいました。あゆの最新の動向、ちゃんとチェックしていますよ。色々書きたいこともありすぎるくらいありすぎます。もうちょっと何とかなんないかなと対策も考えております。現在と過去を行ったり来たりして書いても良いじゃないか、とか。でも、やっぱり、変わらないかも知れません(笑)。今回の記事も結局「つづく」になってしまったし、どうなることやら…。こんなブログですが、もう少し更新ペースを上げていきたいと思っていますので、2007年も何卒よろしくお願いいたします。


流行歌手で悪いかぁ!

2006-09-22 18:55:59 | AYU
「上から物を言うのが文学なら、我輩は文学者ではない。流行作家で十分だ」
(TBS『我輩は主婦である』より)

さてさて、、、

マドンナの作品をいくつか聴いて、幸運にも13年ぶりの来日公演があってライヴを観て、あゆがマドンナから大いに影響を受けていることがよく分かった。うん。確かによく分かった。けど、それと同じくらいに、いや、もしかしたらそれ以上に、こうも感じてしまった。

マドンナとあゆ、全然違うじゃん!!

「MADONNA Confessions Tour」でも書いた通り、あゆがマドンナから影響を受けてることは紛れもない事実だろうと、それはライヴを観てより確信に変わったのだけど、同時に、全然違うじゃん!とも思った。「なるほど似てるな」とも思ったし、「いや全然違うな」とも思った。それが私を混乱させた。マドンナのライヴを観たらあゆのことがもっともっと分かるかと思ったら、ますます分からなくなってしまったという感じ。

あゆがマドンナから影響を受けていることは分かったが、では、何故、何がどうなって、あゆの表現がああいう風になっているのかが分からない――。

やっぱりあゆはマドンナが好きなんだな!こういう風になりたいんだな!ってだけ思えたら、それで楽だったのかも知れない。それ以上考えないで済んだのかも知れない。しかし、あゆはそれで終わりにはさせてくれなかった。もちろん、違う人なのだから違って当たり前だし、マドンナと比べなくたって良いわけだが、私の、その、喉の奥に引っかかってしまったような「違和感」は、考えずにはいられない「謎」として、どうしても無視することができなくなってしまった。そして、ようやく、やっとこさ、こんな考えが浮かんできた。

この「違和感」こそが、あゆの凄さだったりして!?

むしろ、倖田來未や安室奈美恵なんかの方が、分かりやすいのではないか?と思ってしまった。いや、安室ちゃんはマドンナよりもジャネット・ジャクソンだとか、倖田來未は……とか色々あるかも知れないが、ここで言いたいのはそういうことではなく、例に挙げるのはYUKIとか他の人だって良いのだけれど、影響の受け方というか出し方というか。例えば、倖田來未とかは、解釈の仕方や理解度はともかく(はい、エラそうなこと言ってます…笑)、マドンナとか好きなんだろうなっていうのが何となく分かるというか。マドンナ・チルドレンとして、捉えやすいというか。

しかし、あゆの場合、「マドンナからの影響」を確かに感じさせながらも、それが、マドンナから影響を受けてこうなったとは俄かには思えないような「何だかよく分からない形」になっているような気がする。それでいて、前述したどのアーティストよりも、感じさせる「マドンナからの影響」が根深い。つまり、より深くマドンナから影響を受けていながら、マドンナからより遠い表現をしているといった印象なのだ。マドンナだけで考えなくても良い。マドンナのライヴを観て違和感を感じた私は、マドンナよりもスマパンとか、そういう方にあゆは近いんじゃないか?とも考えたりしたが、それでも結局、同じことだった。「スマパンからの影響」を感じさせながらも、それが、「何だかよく分からない形」になっている。

結局、マドンナ(やスマパン)からの影響は、あゆの中の一要素にしか過ぎなかったということなのだろう。だから、「マドンナからの影響」だけで語り切れるわけがない。世の中たくさんの音楽があるのだからそんなの当たり前だと思うかも知れないが、果たしてそうだろうか。

これは、私が、あゆについてはある程度詳しいからなのかも知れないとも思った。先ほど例に挙げた倖田來未などは、よく知らないから、マドンナ・チルドレンの一言だけで片付けられてしまうのだと。それもあるとは思う。しかし、それだけで説明できてしまうなら、私のこの「混乱」は何だったんだ?という感じだ。それほど、私が感じた「違和感」は強烈だった。そしてまた、私にとって、そういう「何だかよく分からない形」であるとか「強烈な違和感」とかいったものを感じさせるアーティストは、非常に少ないことに気付いた。そしてそこに、どうしようもなく惹かれている自分がいることにも。

私は、この「違和感」を表現する言葉を探していた。そのとき、たまたま読んでいた小林信彦の『日本人は笑わない』で、「美空ひばり」について書かれていた文章に出会った。そこに、古川ロッパが、初めて見た美空ひばりの印象を次のようにしるしたとあった。

「美空ひばりといふ笠置(シヅ子)の真似して歌ふ十二歳の少女、まことに鮮やかであり、気味わるし。」

この文章に、特に、「まことに鮮やかであり、気味わるし」って表現に、今の自分があゆに対して抱いている感情をズバッと言い当てられたような気がして、そこからは一気に読んでしまった。

古川ロッパが「気味わるし」と感じたものは、ここでは、「とっくに否定されたはずの<古い日本>であり、<湿った感情>だった」とされている。

小林氏は、美空ひばりのことを「外来のリズムを強引に自分の世界に結びつけてきた歌手」とし、「とにかく形容しがたい和洋折衷」であり、「美空ひばりのオリジナリティは、こういう<えたいの知れぬ和洋折衷ぶり>にある」としていた。「ジャズが流行すれば『A列車で行こう』をうたい、ロカビリー・ブームとなれば『ロカビリー剣法』をうたった美空ひばり」とし、あくまで「流行歌手」として捉えている。<えたいの知れないアナーキーな和洋折衷>があくまで華やかに明るくうたい上げられているのを見て、「どうして<演歌の女王>なんだ?」と疑問を投げかけている。「もし美空ひばりが<日本的>であろうとするならば、こうした和洋折衷のごった煮でありつづけるしかない。一見、非日本的に見えるけれども、日本語と原語でうたわれたあの「シェリト・リンド」こそ、<今の日本>そのものじゃないか……」。

いやはや、引用ばかりしてしまって申し訳ない&お恥ずかしい限りですが、こんな文章、自分では書けそうにないので許して下さい。

そう、私は、これらの表現にイチイチ「これだ!」と興奮してしまったのです。もちろん、「美空ひばり」と「浜崎あゆみ」では、時代も違いますし、「美空ひばり」について詳しくない私が言えることではないってのも分かっていますし、あの「美空ひばり」を引き合いに出すなんて恐れ多いっていうか身の程知らずってことも分かっています。ですが、そんなこと言ってももう遅いじゃないですか? だって私は、今までだって、あゆのことを書くときに、さんざん、「ビートルズ」やら「クイーン」やら「マドンナ」やらの名前を出してるんですからね! そういう名前を出さなければ語れないところまで「浜崎あゆみ」はきてるんですよ!(はい、調子に乗った…笑)

とにかく、これらの文章と私が感じた「違和感」というのが、私の中でどんどん繋がっていってしまったんです。そして私は、以前にもこういった感覚を私に与えたアーティストがいたことを思い出しました。「椎名林檎」です。

次回へつづく。


MADONNA Confessions Tour

2006-09-21 22:59:09 | ライヴ
そういうわけで、2006年9月21日、東京ドームで「マドンナ」に会ってきました!

「あゆ」がキッカケでマドンナに興味を持ったと書きましたが、最新アルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』をはじめ、過去のアルバムも聴いていくうちに、自然とマドンナの音楽に惹かれていきました。特に最新アルバム『コンフェッションズ~』は、あゆのカウントダウンライヴでもミスアンツアーでも開演前の音楽として流されていたので、私にとっては特別な作品となるのでしょう。あゆのライヴ会場でマドンナが聴こえてきたときの、あの胸が打ち震えるような、何だかよく分からない感情は、今でも忘れることができません。この事実だけでも、あゆの心意気というか志というか、そういうものを雄弁に物語っている、とても象徴的な出来事だったのだと思います。

そして、いざ、マドンナ登場!

ビシビシと伝わってくるスケールのデカさに圧倒されつつ、息を飲むように見守っていたのですが、それはすぐに打ち破られました。マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだしたときのことです。私なんか、最近聴きだしたばっかで、この曲の存在は知ってはいたものの、発売された当時(1984年)から聴いてきたわけじゃないし、この曲に特別な思い入れがあったわけじゃないんですよ。なのに、マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだしたとき、この曲が持ってる底力とか背負ってる何かがグワッて押し寄せてきて、急に、「マドンナが目の前で歌ってること」が実感として込み上げてくるようで、その「凄さ」が、マドンナの歴史の重みなどまだまだ理解していないであろう私にまで伝わってきて、胸一杯な感覚に陥ってしまったんです。それで私、なんか、トンじゃったみたいなんですよね。

しかし、それだけでは終わらなかった。マドンナは、私に「安心感」を与えてはくれなかった。そんな風に、序盤の「ライク・ア・ヴァージン」で“大物感”を感じさせたにも関わらず、それを振り払っていくかのように、まるで“新人”であるかのような「フレッシュさ」を撒き散らしながら、ステージは進んでいくのでした。

それからはもう、まさに“めくるめく”って感じでした。

「ライク・ア・ヴァージン」で感じたような、キャリアに裏づけされた重みや深みと、最新アルバムの曲を中心とした、あくまで“攻め”の姿勢を見せ続ける現役感が、私の心を一箇所には留めてくれません。「これがマドンナなんだぁ!」っていう感動と「これがマドンナなのか?」っていう感覚が交互に襲ってくるような。それが良いことなのか悪いことなのかということでは最早なく、ただただ釘付けになるばかりでした。なんていうか、どこか“未完成”ですら、あるんです。だから、ある意味“完成されたマドンナ”を体験したかった人には、ちょっと違うものに映ったのかも知れません。しかし私は、これが「ロックンロール」なのかも知れないって思いました。「ロック」ではなく、「ロックンロール」。そう、「ロック」が「ロール」していたんですよ。たぶんね(笑)。

そして、更に私の心を奪ったのは、どこか“舐めてる”ようですら、あるんです。例えば、よく言われているように「レオタード姿」とか「セクシー」とか「エロかっこいい」とか、そういうことばかりが取り沙汰されるけど、マドンナの表現にはもっと「メッセージ性」や「精神性」がある!ということがよく分かったし、伝わってもきたのだけど、伝わってきたそばから覆されるというか…。「エンタテインメント性」と「メッセージ性」を分けて考えているようじゃ、私もまだまだだって思いました。いや、これまでも分けてるつもりはなかったんですけど、なんかね、まだまだだって思いました。「エロかっこいい」ってことばっか語ってるのも、それに対して「それだけじゃない」って語ってるのも、どっちも野暮だなぁって思っちゃいましたもん。生意気ながらもね(笑)。ほら、「冗談」なのか「本気」なのか分からないカッコ良さってあるでしょ。マドンナにとっては、「エロかっこいい」ってことですら「メッセージ」だし、「メッセージ」ですら「エロかっこいい」んだぁって、自分で書いてても何だかよく分からないけど、思っちゃいましたもん。

あ~あ。あの曲もあの曲もあの曲も、ぜ~んぶカッコ良かったなぁ。「アイザック」の、スピリチュアルな歌から、ダンス・ミュージックに切り替わっていく瞬間なんてゾクゾクって感じだし(あれがダンス・ミュージックに昇華されていく瞬間に、“神よりも有名になっていく”マドンナを見た!笑)、カッチョ良すぎる「ライク・イット・オア・ノット」も聴けたし、「アイ・ラヴ・ニューヨーク」の映像は可愛かったし、「レイ・オブ・ライト」では何だかよく分からないことになってたし、「ミュージック」はカッコ良すぎだし、「ラ・イスラ・ボニータ」は楽しすぎだし、「ラッキー・スター」から「ハング・アップ」に繋げて大団円!って、も~、今書きながら興奮してきちゃったよ。あ~、もう一回、観たかったなぁ。また会いたいなーっ!!! マドンナーッ!!!

なんか、ツラツラと書いてきましたが、もうね、「カッコ良い」とか、そういう言葉しか浮かんで来ないんですよ。マドンナ、カッコ良かったです。

……と、ここで終わるわけにはいかないんです!

今回、ライヴの最後に映し出されたメッセージがありました。

「Have you confessed?」

そう、私には書かなければならない“告白”があるのです。そこで書いたように、私が「マドンナ」に興味を持ったキッカケは「あゆ」です。あゆとマドンナの間に、表面的なことだけでは計り切れない繋がりを感じた…と書きましたが、今回はそれを確かめたいという動機もあったわけです。

今回のライヴで披露された楽曲には、最新アルバムの曲が中心ではあるけど、色々な時代の曲がありました。それは、マドンナの歴史の中のほんの一部にしか過ぎなかったけれど、それでも、彼女が「常に挑戦し、変化し続けてきた」ということが十二分に伝わってきました。どの曲にも、「そのときにしか生み出せなかったであろう魔法」が宿っているのを感じたのです。そしてまた、その中に「変わらずに貫かれている一貫性」をも感じ取ることができました。つまり、「そのときにしか生まれなかった音楽」でありながら、「今を生き抜く音楽」として鳴らされていたのです。これは、「変化しながらも、変わらない何かを追い求めてきた」人にしか成し得ないライヴだと思いました。

そして、さっきも書いた、「エンタテインメント性」と「メッセージ性/精神性」の同居。

そしてそして、一歩間違うとダサダサになってしまうような、ベタベタすぎることをカッコ良くキメてしまうところ。(「ベタなものほど、キメるのは難しい」って、私ココでも、「my name's WOMEN」のプロモのことを書くときに、書いてましたね)

そしてそしてそして、これが一番大事なことだと思うのですが、私がライヴを観て強く感じたのは、誰が何と言おうと、「これはマドンナにしかできないことだ!」ということです。

もちろん、マドンナに比べて、あゆにはまだまだ危うく未熟なところがあると思いますし、実際、マドンナのライヴを観てそれを実感したってところもあります(ちなみに、マドンナとあゆの年齢差20)。ですが、私が感じた、マドンナとあゆの間にある、表面的ではなく深い部分での関連性っていうのは、こういうところにあったんだと思いました。(ただ、マドンナから影響を受けていない女性アーティストなんているのかなって思っちゃいましたけどね。直接的には受けてなくても、辿っていけば必ずマドンナには行き着いちゃうんじゃないかって。それくらい大きな存在だと感じました。だから、ある意味、マドンナとダイレクトに関連性を感じさせるあゆは凄いのかもなって思いました)

変化し続けながら、変わらない何かを追求している。
エンタテインメント性とメッセージ性/精神性の同居(冗談と本気の同居)。
ベタなことをカッコ良くキメて成立させてしまう(客観性やチャーミングさがあるってことかな)。
その人にしかできない表現をしている。

プロモや衣装や演出といったビジュアル面でも影響は受けているでしょうが、何よりもこういった根本的な部分を、あゆはマドンナから受け継いでいるのではないでしょうか。私がマドンナに引っかかった理由が分かった気がしました。マドンナとあゆの「類似」には、「ちゃんとした理由」があったのです。

まだまだマドンナについては知らないことだらけの私がエラそうなことは言えないのですが、より多くのあゆファンがマドンナの表現に触れてみれば良いのになって思いました。

……と、これだけでは終わらなかったのです!

マドンナもあゆも、そう簡単にすんなりと私を納得させてはくれませんでした。まだまだ解き明かさなければならない「謎」を私にくれたのです。それはまた別の機会にでも。タイム・ゴーズ・バイ・ソー・スローリー♪

「謎」が気になってくれた方は → 「流行歌手で悪いかぁ!」


Have you confessed?

2006-09-20 22:23:52 | AYU
ずっとずっと会いたかった、「マドンナ」に会ってきた。

いや、「ずっとずっと」なんて言うと、お前のような俄かファンがゴラ!って感じなのですが、気持ちとしてはそれくらいってことで、許してね。

今回は、そのことを書く前にちょっとした“告白”を――。

こんなところで、カッコつけたり、見栄を張ったり、知ったかぶりをしても、なんの意味もないので、はっきりと書いておきますが、私がマドンナに真剣に興味を持ったキッカケは、「あゆ」です。そう、「浜崎あゆみ」です。

そんなこと言ったら、「邪道」だと言われてしまうのかも知れないけど、「嘲笑」されてしまうのかも知れないけど、それが自分にとっては「本当のこと」なんだから仕方がない。好きなものに対して嘘はつきたくないし、自分に嘘はつけない。もっとも、マドンナはそんな小さな存在ではなかったけれど。

私にとってマドンナは、「有名なアーティストの一人」に過ぎなかった。何故だか女性アーティストはあまり聴かない傾向にあったし、好き嫌いとか興味の有る無しじゃなく、単純に縁がなかった。恥ずかしながら、ちゃんと認識している曲もなかった。ビョークと関わりがあったり、気になる存在ではあったけれど。

それが、まさか、「浜崎あゆみ」がキッカケで、「マドンナ」に興味を持つことになろうとは…。

私は、今でこそあゆのことを好きだと書いているが、最初は何となくあゆを嫌っていたのだ。いや、嫌っていたというより、避けていたという方が近いか。今にして思えば、油断していると入り込まれてしまいそうな何かがあゆにあったってことだと思っているが、自分が認めたくないものの象徴として、あゆがいたような気さえする。そこらへんのことについては、まだまだ書かなきゃとは思っているのだが(今までも何度か書いてきたが)、とにかく私は、あゆを好きになった。その気持ちは、大げさでなく、私の中の何かをすべて引っくり返してしまいそうになるような勢いだった。それからはもう、それに対抗するのに必死だよ(笑)。その軌跡がこのブログとも言えるのだけど(笑)、まぁ、言ってしまえば、あゆに「丸裸」にされちゃったってわけ。

でもこれは、音楽をより深く愛するチャンスを与えられたってことだと思ってる。だって、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるもの。いや、あゆを好きになる前だって、考えてたのかも知れないけど、あゆを好きになった今となっては、何だかどこか自分が「傍観者」でいたような気がしてくるから不思議だよ。だけど、何がどうとかうまく説明できないんだけど、あゆは私を「傍観者」でいさせてくれない。そして、それは、「ビートルズをリアルタイムで体験すること」と同じような気がしてきてしまうんだ。そう言う私を笑う人がいても構わない。ただ、私にとってこの胸のドキドキワクワクは、ビートルズさえも与えてくれなかったものであり、と同時に、ビートルズが与えてくれたものでもあるんだ。

自分の持ってる「知識」だとか「経験」とかでは歯が立たない「好き」に出会ってしまったってことかな。だから、その「好き」に対峙するために、「知識」や「経験」を磨かなくてはっていうか。さっきも書いたけど、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるよ。いかに自分が「無知」であるかを思い知らされたってことかな。それだけ自分にとってあゆが「未知の存在」だったってわけだ。まぁ、「知識」や「経験」も、「愛」がすべてのはじまりってことだね。逆に、愛なき知識、愛を忘れた経験ってのが、いざというときに、いかに役に立たないかってのが痛いくらいに分かったっていうか。

そうして、あゆを好きになっていくうちに、ぶち当たってしまった存在が「マドンナ」だったのでした。プロモや衣装などのビジュアル面での類似を取り上げられてたりするのが世間的には代表例だと思うのですが、そうでなくても、あゆがマドンナから多大に影響を受けているであろうことは、あゆの表現に触れていれば、自ずと、もう逃れようもない事実としてそこに存在しているのでした。

あゆが好きだと公言しているアーティストは、マドンナの他にもたくさんいますし、類似を取り上げられるアーティストも、マドンナだけではありません。だけれど、そういった数あるアーティストの中でも、「マドンナ」という存在が引っかかってしまったんです。マドンナとの類似を挙げられるのは、ビジュアル面でのことが多く、一見、表面的なことだけで言われているようにも見受けられます。しかし、表面的なことだけでは計り知れない影響が、あゆの中にあるように感じられたのです。あゆとの間に、他の多くのアーティストにはない、深い関連性が、マドンナにはあるような気がしたのです。あゆの本質を理解するためには、マドンナを避けては通れないというような…。

そこには、あゆを愛する者として、そして、音楽を愛する者として、目を背けてはならないような、いや、目を背けずにはいられないような「神秘」が潜んでいるような気がしたのです。

そうして私は、「マドンナ」に真剣に興味を持ちはじめました。