goo blog サービス終了のお知らせ 

sky is blue

言わなければよかったのに日記

熱くなり過ぎた後に…

2005-11-30 22:17:12 | 音楽コラム
いやぁ、熱くなり過ぎちゃったかなぁ。そりゃ、世の中、色々な人がいるのだから、色々な考え方があって当然だよね。もちろん私は、自分が正しいとか、どれが正しくてどれが間違ってるとか言いたいわけじゃない。ただ、今の世の中、油断してると、大きな波に、大事な何かも一緒に流されていってしまいそうでさ。私なりに「これはあんまりだよ…」と思ってしまうこともあったりして。もちろん、誰が何をどう思ったって良い。でもそれは、すべての人間一人一人に言えることだよね? 誰かが正しいと思うことは、誰かにとっては正しくないかも知れない。誰かにとっては取るに足らないことであっても、誰かにとっては物凄く大切なことかも知れない。だから、思うのは、皆、そんな至極当然のことを踏まえた上で、ブログなりホームページなりをやっているのかなぁ?ってこと。もちろん、自戒もこめて。たかが個人ブログでそんなに気張らなくても良いじゃんとも思うけど、実は、(見せかけの)表現の自由が、(本物の)表現の自由を奪うことになってるんじゃないか?とか思ってしまうときもある。

……いけないいけない。また熱くなりかけてるよ。今回は軽めって決めたんだから。というか、ここはあゆブログか?っちゅうくらい、あゆのことばっか書いててスミマセン(引かれてないかなぁ?引かれてないよね!)。いやぁ、色々たまってるみたいね(笑)。「人間として生きてやれ」の最後の方で、「これでやっと、今のあゆの『マイ・ストーリー』に追い付けるかな?」って書いてたくせに、まだ『マイ・ストーリー』以前のことを書いてるし。どうしてあゆのことばかり、こうも長くなってしまうのかと言うと、それは、あゆが有名だからなのかなぁ。いや、ただ単に「有名だから」ってんでもないな。あゆのこと、みんな知ってるのに、みんな知らないって感じかな。もちろん、自分も含めて。あゆの最新アルバムのタイトルじゃないけど、『理解と誤解』っていうか。もしかしたら、あゆって、先駆者なのかもよ!? いや、少なくとも私は、そう信じてみることにするよ。だから、笑われたって良いから、「あゆは先駆者!!」とか、どんどん大風呂敷広げて言ってみることにしよっと♪ 先駆者のファンなら、自分も先駆者にならなきゃね☆

それと、あゆについては、(私が)孤独だからってのもある(笑)。誰か同志がいれば、語り合えたり分け合えたりして、こんなに長々書かなくて済んでるかもね。だから、私の孤独と文章の長さは比例します!(笑) ってお前は何をそんなに、一体何と戦ってんだよ!って感じだよね(笑)。でもなぁ、あゆのことを書こうとするとき、好きだからってのももちろんあるけど、そうじゃなくても、物凄いパワーを使うんだよね。その度に、あゆってすげーなぁって思います。これだけのものと向き合ってるんだなぁって。漠然と。そしてそれは、私の想像の範囲を超えると思うし。

というわけで、いい加減、あゆについては『記事カテゴリ』を作ってみました。その方が分かりやすいかなと思って。でも、専用カテゴリにしちゃうと、誰も読んでくれなくなっちゃうかなって心配したんだけど(笑)、そんなの内容見ればすぐ分かるんだから、同じことかと思って。とりあえず試しにカテゴリ作ってみました。気が変わったらまた戻すかも知れないけど。

さて、前回で熱くなり過ぎちゃったわけだけど、あれから、もう私が言いたかったことを全部言ってくれた!とまで思ってしまった言葉に出会いました。勝手に引用するのは申し訳ないと思うけど、とっても素晴らしい言葉だと思ったので、許して~! それはこんな言葉――。「どんな作品でもその創作の根底にあるのは、『先人への尊敬と、それを超えようとする意志』だと思う」~「それを理解するどころか、肌で感じる事なく、作品や仕事に関わってる人は不幸だ。そして、そういう人は、『超える』事が出来ない」。

ジーーーン。これは、作り手だけでなく、受け手にも言えることだと思う。それ(前回で言うところの「流れ」かな)を理解しようとしたり、肌で感じる事のない人は、あらゆる作品を楽しむ能力に欠けていると。そして、そういう人は「超える」意志を感じることが出来ないし、「超える」事が出来ないと。受け手にはそんな必要ないって思うかも知れないけど、そんなことないと思う。全員が全員そうである必要はないし、全員がそうだったらそれはそれでおかしいと思うけど、やっぱ、切磋琢磨だもん。だから私は「共犯者」でいたいって、そう書いたんだよな。で、その人は続けて、「俺は『超える』意志のある人が好きだし、『超える』意志のあるアーティストと、その作品が好き」と書いていて、だからカニエ・ウェストが好きなんだと言っていた。よし! カニエ・ウェスト聴いてみよう! 友達の間でも評判良いし♪ あゆがカッコ良い~と呟いていたJAY-Zのプロデュースもしてるし♪ で、その人は更に、「同時代の先端に立ち、さらに一歩何かを押し進めるためには、必ず無数の有名無名の先人達の遺した財産の上に立たなければ、不可能な事だ」とも書いていた。いやぁ、あんだけ長々書いてた私がバカみたいだ(笑)。

というわけで気を取り直して、さっき、あゆについて「まだ『マイ・ストーリー』以前のことを書いてる」って書いたけど、いい加減、リアルタイムに近づこうかなと。だから今回は、2005年に発売されたあゆのシングルについて書いてみようかな……と思ったんだけど、この時点で結構な量書いてしまったんで、それはまたの機会にしたいと思います。ここでそれも書いちゃおうとするから、長文になる&更新ペースが遅くなると気付いたんで(気付くの遅っ!)。というか、ひとつの記事に入り切らないと判断したので(笑)。

ちなみに、この日、『北斎展』に行ってきました。凄い混んででゆっくりは観れなかったんだけど、圧倒されました。詳しいことは知らない私でも、絵が好きで好きでたまらなかったんだな~、描きたくて描きたくてたまらなかったんだな~、描かずにはいられなかったんだな~ってのが伝わってきて、なんだかパワーをもらいました。


音楽と音楽の間に流れる音楽を感じろ!

2005-11-29 22:40:50 | 音楽コラム
グループ魂に「新しいロック」という曲がある。<新しいロックがやりたい♪>とご機嫌に歌いだすのだが、こう続く。

<俺の考えた新しいロックは 残念ながら もう誰かがやっていた>

音楽の世界でも「パクリ」という概念はあるけど、一体どこからどこまでがパクリなのかというのは、人によって捉え方や感じ方が違ったり、結局は作り手側にしか分からないところであったりして、ものすご~く曖昧だ。「愛があれば良い」という意見もあるが、愛し方や愛情表現は人それぞれだし、愛を感じるかどうかも人それぞれだから、一概には言えない。それに、愛がなきゃダメだとは思うけど、愛があればそれで良いのかと問われると、そうとも言い切れない気がする。また、パクリというか引用というかインスパイアというか…言い方は何でも良いのだけど、それを自覚している場合としていない場合とがある。分かっててワザとやる場合と無意識のうちに出てしまった場合と…色々あると思うが、どれもアリだと思うし、そこがパクリかどうかの判断基準だとは思えない。とにかく、すごく曖昧だ。

だからと言って、「違う人がやれば違うものになる」だなんて、簡単には言い切りたくない。そりゃそうかも知れないけど、だったら、誰が何やっても良いの?ってことになる。で。うん。そうなんだよ。「誰が何やっても良い」んだよ。音楽は「自由」であるべきなんだから。でも、その「自由」に、ホントにちゃんと立ち向かっているのか? 自由には、責任や覚悟がともなうものだと聞くけれど…。

音楽が自由であり続ける限り、この「どこからどこまでがパクリなのか」といったテーマは、永遠になくならないものだと思うし、また、なくなってはならないものだとも思う。自由を求め続ける限り、向き合い続けなければならない永遠のテーマなのだろう。

「みんな誰かに影響された」

NHK衛星でやっていた『ロック誕生50年』という番組で出てきた言葉。何ものにも影響されなかった人なんていない。仮にいたとしても、何かからの影響を感じ取れないような人に、音楽なんて生み出せるだろうか。生み出せたとして、そういう音楽に心打たれるだろうか。何かに影響されるから音楽が生まれて、また、その音楽に影響されるんじゃないだろうか。そこを否定してしまえば、音楽そのものを否定してしまう気がする。音楽じゃなくったって、例えば私だって、自分の住んでる環境や今まで出会ってきた人や経験に影響されてるに決まってるわけで、それを含めて私なわけで、そこを否定してしまったら、私なんてどこにもいなくなってしまう。

だから、何かからの影響は当然あるとして、そこからどうするか、だよね。大体、簡単にパクリパクリって言ってるのを聞くと、じゃあ、パクリって言われないような曲を作ることが作曲なの?って聞きたくなるよ。音楽がそんなツマラナイものなってしまったら嫌だよ。さっきも言ったけど、音楽には自由であって欲しいんだ。それがそんなビクビクしたものだったりしたら嫌だよ。かと言って、何でも良いわけじゃないけどね。だから、何かからの影響はあるとして、そこからどうするかだから、そこは避けて通れないものだし、逆に、そこを避けて通ったものなんて、ツマラナクナイ?ってことが言いたいわけよ。だってさ、私が何かを表現する場合、自分が色んなもんから受けた影響を出せなかったらツマラナイし、そもそもそんなことしたら何も表現できなくなっちゃうし、仮にできたとしても、それは自分にとって全くリアリティのないものであって、まぁ全然「自由」じゃないよね。

でね。そうやって、何かからの影響が何かを生みだして……って、そこが面白いんじゃないの!って言いたいわけよ。それが音楽というものだろ?って言いたくなるくらいだよ。たっっくさんのアーティストが守り抜いてきたものだろ?って。「パクリ」だと切り捨てるのは簡単。「違う人がやれば違うものになる」と切り離すのも簡単。だけど、ひとつの音楽から別の音楽が聴こえてきて、その別の音楽に最初に聴いた音楽を見つけて。そういうのを感じたときの幸せったらないよ。コール&レスポンスっていうか、点が線になるっていうか、ひとつの音楽の背景に、大きな大きな何か(流れ)を感じて、何て言葉にしたら良いのか分からない、至福のひとときだよ。だからさ、音楽と音楽の間に流れる音楽を聴け!ってことなんだよ。そこにも音楽が流れているんだぞ!って。それに、不思議なことも起こるんだ。例えば、音楽Aと音楽Bに繋がりを感じたとするよね。時系列で言えば、音楽Aの方が先に生まれているはずなのに、どっちが先か分からなくなったり、音楽Bの方が先なんじゃないか?って思えたり。もしくは、音楽Cと音楽Dに強い繋がりを感じたとして、でもそれぞれはそれぞれの存在を全く知らないまま生み出されたとか。そういうの、ドキドキするよね~。

でも、さっきも言ったように、何でも良いわけじゃない。私が思うに、例えば、○○から影響を受けた音楽があるとして、それを聴いたとき、「これなら○○を聴けば良いや」と思わせてしまったら、負けなのかな。点が線になる大きな流れって書いたけど、何かから影響を受けて、それを何らかの形で還元して、その大きな流れに還すというか。色んなものからの影響で作られてるのが自分だとして、それを受け止めて咀嚼して、自分なりの何かを生みだすというかさ。受動が能動に変わる瞬間に、人は感動するんじゃなかろうか。「生かされてる」が「生きている」に変わる瞬間っていうかね。う~ん、話が広がり過ぎてるかぁ。とにかく、「何かが生まれる音」が聴きたいわけよ! その音楽にしかない何か。その音楽が生まれる前と後とでは、何かが確かに違う音。そこに何らかの「流れ(グルーヴ)」を感じるわけだよ。もしかしたら、後続のミュージシャンであればあるほど、ハードルは高くなっていくのかも知れないね。でも、同時に、恵まれてもいるんだから、それに負けないでいこうよ! たっっくさんのアーティストが守り抜いてきた「流れ」を止めるようなことだけはやめようよ! 私たちはその「流れ」に身を委ねたいだけであって、それをどっちが先だ後だと、まるで自分が生み出したもののように、どうのこうの言う人もいるけど、この「流れ」だけは止めさせないよ! あ、誤解のないように言っておくけど、その「どうのこうの言う」っていうのと、「流れ」がどっからどうきて~と研究することとは全然違うよ。その「流れ」を汲み取ろうともしないで、先か後かとか好き嫌いとかイメージとかだけで判断する人を言ってるだけだから。とにかく、「流れ」は止めさせないし、止まらないよ! 心配しなくても、「流れ」にのらない「パクリ」なんてものは、放っておいても、「流れ」からは自然にこぼれ落ちていくんだから。

って、私は何もの?って感じですが(笑)、影響と言えば、単純にその人のルーツや嗜好が分かって楽しいってのもあるよね。まぁ、パクリパクリって騒がれるのは大体有名アーティストと相場が決まっていますので、ここでは、あゆの話をしようかな(笑)。あゆがどんな音楽的嗜好なのかというのは、どのくらい知られているのか謎ですが、その理由のひとつに、そういうのがあまり語られてないってのがあると思う。正確に言えば、語る場が与えられてないってことかな。ファンなら熱心にチェックもするだろうけど、一般的なレベルではあまり語られてないよなぁ。で、私が知る範囲で言うと、スマパンはかなり好きらしい。あゆの曲に、モロ影響出てる曲あるし。あと、雑誌の「今日持ってるCD」っていうので、レッチリ、ファットボーイ・スリムだったことがあったはず。それと、最近聴いてるのは?って聞かれて、ジョーン・オズボーンって答えてたときもあった。あと、ノー・ダウトがライヴ前にかかってたとか。ニルヴァーナやレディオヘッドも好きと言っていたって話も聞いたことあるんですけど、どうなんでしょ。また、小さいころは、ツェッペリンやディープ・パープルを聴いていたとか。ホントかよ!(笑) ベイビーフェイスやアン・ヴォーグなどのブラック系も好きっていうのは聞いたことある。あと、マドンナは大好きに決まってるしぃ♪ って、あゆはナンデモ屋かよ!(笑) ま、良いじゃないか。私もナンデモ屋だし(笑)。まぁ、あまり語られてないのもあって、私も、実際はどうなんだろって疑ってたんだけど、MTVにあゆが出たときに、「本当にちゃんと聴いてるんだなぁ」って感じたんだよなぁ(私エラそう)。世界のチャートを見ていく番組で、司会者に話振られても、自然に普通に答えてたもんなぁ。普通に知ってそうだったもん。「気になるのありました?」って聞かれたら、「JAY-Zカッコ良い~」とか言ってたし。私より詳しいじゃん!(笑) そういや、『恋のから騒ぎ』に出たときだって、リンプ・ビズキット知ってたしなぁ。

どれも有名どころばかりじゃん!って言うかも知れませんがねぇ、この前ですよ、たまたまMTVつけたら、大○愛が出ていたわけですよ。同じく世界のチャートを見ていく番組だったんですけど、司会者が「気になるのあります?」って言ったら、彼女なんて答えたと思います? 「何言ってるか分からん」ですよ!(歌詞がってことでしょうか) で、司会者が「洋楽はあまり聴かないですか?」みたく聞いたら、「そうですねぇ」みたいに適当に答えてましたけど。そのときはマドンナが1位だったのですけど、かろうじて「レオタード凄いなぁ」ですよ! いや別にね、洋楽がエラいと言いたいわけじゃないんです。洋楽を知ってる知ってないでどうのこうの言いたいわけじゃないんです。ただ、あなたは、少なくとも音楽を志す者だろう? じゃったら、「何言ってるか分からん」は無いだろ。他に言い様はないのか? 言葉が分からなくったって、音楽は音楽だろう? ミュージシャンが音楽に対して「何言ってるか分からん」って言ってるわけですよ? 向上心とかプライドとか勉強しようとか敬意とかそういうのはないのですか? いやね、知らないのは知らないで良いんですよ。私だって、知らないの一杯あるし、知らない方が多いに決まってるし。だけど、その発言と態度はあんまりじゃ? 分かってて開き直って敢えて言ってるのなら良いんですけど、素っぽかったからなぁ。

と、随分イヤな感じで書いちゃいましたが(ごめん)、あゆの話に戻すと、気づくのは、上に挙げてるアーティスト、全部、洋楽なんだよね。だからあゆは、かなりの洋楽嗜好(志向)であると思われます。実際、雑誌とかで名前挙げるの洋楽ばっかだしなぁ。だからと言って、「私、本当はこういうのが好きなんです!」とかって“変に”アピールしないところが素敵! そんでもって、サザンとかユーミンとかも大好きで、『Mステ』で「オレンジレンジ好きで」とかあっけらかんと言えちゃうあゆちゃんは素敵すぎる! んもう大好き! な~んだ、私の言いたいことって結局それかぁ(笑)。

まぁね、何が言いたいのかといいますと、「パクリはとにかく犯罪」で「犯人探し」をするよりも、「違う人がやれば違うものになる」と「無関心」でいるよりも、私は「共犯者」でいたいって、そういうことなんですよ!

自由には、責任や覚悟がともなう。だったら、だまし通せ! 信じ通せ! きっとその先に、自由(音楽)はある!

熱くなり過ぎた後に…


個人主義で決めに行け!

2005-09-07 18:17:55 | 音楽コラム
前回のつづき

そんな“根なし草”だからこそ、私は、意識のうちか無意識のうちか、自分のルーツ(根)を探っていたのではないか。自分はどこからきたのか。自分のルーツを求めるようにして、洋楽から邦楽へと聴いていったのではないか。「自分(自国)さえ愛せずに、他人(他国)なんて愛せないよ!」ってな勢いで。もうね、『真夜中の弥次さん喜多さん』だよ。「てめえ探しで、リヤルがどこにもありゃしねえ! リヤル探しで、てめえがどこにもいやしねえ!」だよ。ただ、一方でね、こういうのが、今の日本人だからこそ生み出せるものなのかも知れないとも思うわけよ。この“根なし草感”。この“探してる感”。この“迷子”な感じ。“独特の閉塞感”。これなのかな~と。それにどうしようもなく共鳴してしまうのかな~と。邦楽のルーツと言われている、演歌や歌謡曲と今の邦楽とに違いがあるとするならば、そこかも知れないな~なんて思ったりもするんだよ。“洋楽も邦楽も本当の意味では知らない”私のような人は、そこからはじめるしかないのかもな。

自分が日本人だからってのが大いにあると思うけど、邦楽って、洋楽に比べて、すごい「個人主義」だなって思ったりするんだよね。自分が聴いてる邦楽にそういう音楽が多いだけなのかも知れないけど、すごい「個人」っていうのに基づいた「個人主義」の音楽だなって思うわけ。それはやっぱり、“根なし草”ゆえにそうなってるのかなとか思うんだよね。国とか社会とか文化とかが曖昧だからこそ、個人に返らざるを得ないっていうかさ。だから、どうしても「自分探し」の音楽が多い気がする。「心の声」とかそういうのを歌った歌が多い気がする。また、そういうのに弱い気もする。自分がそうなだけかも知れないけど。宮本(エレカシ)も歌っていたよ。

日本人未だ 西洋踊りはヘタだが そう
しがらみ抜きの個人の尊厳で
踊りながら ぶちのめすのはどう?

洋楽派の人にこそ、エレカシを聴いて欲しいって、思ったりするなぁ。意外に思う人もいるかも知れないけど、エレカシのメンバーは洋楽好きだし。イエモンの記事に書いてあったようなこと(前回参照)、エレカシにも当てはまると思うし。エレカシはそういうところでも“戦っている”バンドだと思うし。そういう“根なし草感”にものすごく自覚的なバンドだと思うから。一時期、宮本は、自分の身の丈にあった生活がしたいという切なる思いと、「冗談じゃねえ。俺はアジア人だ! そして日本人だ!」という気持ちから、クーラーを取っ払い、冬には火鉢という生活をして、一酸化炭素中毒になりかけたらしい。その話を聞いたときは、なんて極端な人なんだ!とついつい面白がってしまったが、今なら、宮本の気持ちも少しは分かるような気がする。私が、意識のうちか無意識のうちか、自分のルーツを探るように邦楽を聴いていったのと同じじゃないかと。私はただ単に「邦楽を聴いた」のレベルだけど、宮本は「火鉢で一酸化炭素中毒」だもの。すごいや。なかなかそこまでできないよ? いや、できなくて良いんだけど(笑)。ま、何が言いたいのかというと、そういう“根なし草感”に、意識のうちか無意識のうちか分からないけれど、引かれていたのかもな~ってことよ。

だけど、ここで問題が…。そうやって一旦は分かりかけたつもりだったんだけど、あゆが私の中に登場したことによって、またまた分からなくなったかもなんだよなぁ(笑)。あゆは、そういう“日本人がロックをやる”ことに対する葛藤だとか、そういうところで戦ってきたんではないって気がするじゃない。そりゃ本人にしか分からないけどね。でもさ~、私の中では“繋がっちゃった”んだよね。エレカシに感じる“根なし草感”、あゆにも感じるもん。“個人主義”はあゆにも当てはまるし。だからさ、思ったの。あゆは、エレカシや林檎ちゃん(あるいは私)とは違う道のりを歩んできたかも知れないけど、同じところに行き着いた!出会った!ってことなのかなって。だから感動なんじゃないか?って。だって、エレカシや林檎ちゃんって一括りにしちゃったけど、エレカシと林檎ちゃんだってそれぞれに違うわけでさ、そういう違うもの同士が同じ場所で出会うからこそ感動なんじゃないの?って。あゆだって日本人なんだから、何もロックを通して“根なし草感”を覚えなくったって、どこかでそれを感じていたって全然不思議じゃないしさ。むしろ自然だし。違うところにいた人が、自分と同じようなことを感じていて、同じようにもがいていて、同じように戦っていたんだ!っていう感動? 出会い? それだよ。キーは、「戦ってる人(ファイティングマン)」なのかな~って最近はよく思う。え~っと、だから、すごい、あゆには、エレカシとかとは違う方向から、救われたような気がする。うまく言えないけど。

あゆは、本人の自覚や意図とは別かも知れないけど、「最新型の演歌」なのかもなぁ、なんて。もちろんこれ、最大の賛辞のつもりで言ってるんだけど。“最新型の”ってところがポイントね。“戦ってる/戦ってきた”とか“生きてる/生きてきた”に置き換えても良いんだけど。そして、エレカシとかと出会った!っていうか。同じだったんだ!っていうか。ま、あくまで私の中での話だけど。探してたものは、こんなところにもあったんだ! というか、何も失くしてなんかなかったんだ!っていうかね。ま~、あゆについては、私にとってはまだまだ“新境地”なんで、日々考え中でっす!

余談になっちゃうかも知れないけど、あゆを好きになったのなら、私、中島美嘉とかもイケるのかな?とか思ったんだよね。だけど、それは違ったみたい(ファンの人ごめんなさい)。いや、曲は良いと思うんだよ(むしろあゆより?笑)。でも、ど~うしてもそこまでグッとなれないの。ヒットチャートを賑わしている邦楽ってこととなると、あゆぐらいかもなぁ。私がここまで夢中になってしまうのは(あ、でも、東京事変もそろそろ始動しますね)。だから、世間的な括りとは違うかも知れないけど、あゆは、私の中で「何か」が違うんだろうな。そういう、他とは括れない「何か」がある人が好きなのかも知れないし。「何か」があるんだろうな。もう、そうとしか言えないよ(笑)。“根なし草感”だの何だの言ったけど、それすらその「何か」の答えではないんだろうし。あゆのおかげで、それを思い知らされました(笑)。分かりかけたつもりでいたところを、そうじゃないでしょと。音楽は永遠に未知のものであるってね。

話を元に戻すと、火鉢の件から何年もたったあと、宮本は自身のエッセイでこんな風に書いていた。

古き伝統を持つ国の住人である俺たち。しかしその伝統に則って生きてゆくことの立ち行かなくなったボヘミアンたる俺たち――(中略)――俺は“日本風”に生きてゆくことは半ば諦めた。しかし、俺の体には日本人の血が流れているし、のみならず日本人である前に、ひとりの人間である。そう思ったと同時に、世界は別種の見せ方をし始めたのである。

カッコ良いと思った。私はまだまだこの境地に達してはいないと思うけど、この言葉を読んだとき、何だかちょっと視界が開けたような気がした。そういや、ムーヴァーというイギリスのバンドのライナーにも書いてあったよ。「ポップ・ミュージックの歴史は、その大半をブラック・ミュージックからの影響、ないしは、それそのものに多大に依存してきた」と。私たちが憧れる、欧米の白人だって同じだったんだ。彼らもブラック・ミュージックに憧れ続け、また、それと戦ってきたんだ。そして、ブラック・ミュージックの担い手たちには、「アフリカという『奪い返すべきもの』、あるいは、『明確な欠落』がある」と。

なんだ。結局みんな同じじゃん。そう思った。私自身だってそうだ。自分のルーツを探るようにして、洋楽から邦楽へと聴くようになったと書いたけれど、結局、洋楽を聴くことも邦楽を聴くことも同じだったんだ。洋楽を聴けば、日本人である自分から解放されると思っていた。邦楽を聴けば、日本人である自分のルーツを見つけられると思っていた。でも、それは結局、同じところに向かっていたんだ。「ただの自分」というところに。思えば、私が興奮してきた音楽は、それが洋楽であれ邦楽であれ、「洋楽」だとか「邦楽」だとか、そういうことを忘れさせてくれた音楽だったもんな。“独特の閉塞感”から生まれた音楽であっても、その音楽は閉塞感に負けてなかったはずだもんな。「自分から解放される」ことも「自分に回帰していく」ことも結局は同じことだったんだ。行き着くところが一緒ということは、実は、出どころも一緒なんじゃないか?とも思ったりしてね。結局は、「魂の叫び」とか、本当にバカみたいな結論に辿り着いちゃうんじゃないの?みたいな。

でもさ、やっぱり、分かんないよ、それは。だって、私が、個々の“違い”を感じられたからこそ、“同じ”だと感じられたのかも知れないじゃん。洋楽と邦楽の壁を感じられなければそれを超えられもしない、みたいな。ジャンルの壁を感じることができて初めてそれを超えられる、みたいなさ。『彼岸先生』にこう書いてあったんだ。

いくら弟子が師の真似をしようが、影響を受けようが、最後には個人の生き方の違いが全てを分かつ。もう、菊人と先生の“魂”は通じ合うことはあるまい。もし通じ合うとすれば、それは菊人が自分と通じ合うものが何もない他人と魂の交流をし、再びかつての自分を憶いだした時であろう。その時、彼は自ずと自分の生の軌跡と先生のそれを重ね合わせてみるはずだ。そして発見するだろう。自分はいかに先生と似ていないかを。何が自分と先生を結びつけ、切り離したかを。

つまり、違いが分かって初めて、魂が通じ合うというか。洋楽も邦楽も分からなくても、ジャンルも分からなくても、個人個人の違いなら、きっと分かる。そうすればきっと、洋楽だって邦楽だってジャンルだって見えてくるさ。焦ることはないのさ。いや、結局分からなかったのなら、それでも良いんだ。だって、「最後には個人の生き方の違いが全てを分かつ」んだから。

Nothing's gonna change my world
(Across the universe/The Beatles)

音楽は、そうやって“違うもの”が“同じ場所”で出会えるから、素敵なのかも知れないな~。

前回の最初の方に書いた「まずは身近な邦楽を聴いて~」なんていう順番は、もう存在しないんだよ。洋楽も邦楽も昔の音楽も今の音楽も一列に並んでしまった今となっては。「スター不在」の私たちは、自分自身の手で「魂の交流」を探るしかない。でも、そんなことは今も昔も変わってないのかもね。

浜崎あゆみを好きな人が椎名林檎を好きになることはあっても、
椎名林檎を好きな人が浜崎あゆみを好きになることはありえない。

こう書いていた人に、友達から教えてもらった素敵な言葉を贈りたい。

【差別は無知から始まる】

“違い”を知れば、みんな“同じ”だって、気付くはずなのさ。きっと。きっとね。

私からその人に言えることがあるとすれば、こんなことぐらいだ。

「私は、椎名林檎が好きで浜崎あゆみは別に好きじゃなかったんだけど、浜崎あゆみを好きになりました。そして、今でも、椎名林檎も浜崎あゆみも大好きです」


洋楽も邦楽も知らない

2005-09-06 17:30:42 | 音楽コラム
以前、ネットを見ていたら、こんな書き込みを見つけた。

浜崎あゆみを好きな人が椎名林檎を好きになることはあっても、
椎名林檎を好きな人が浜崎あゆみを好きになることはありえない。

え? 私その“ありえない”人なんですけど…。

まぁ、話の流れから、言わんとしてることは、何となく分かった。と、ここでは一応、分かったふりをしておこう。おそらくその人は、「浜崎あゆみより椎名林檎の方が優れている」と言いたいんでしょう。だから、椎名林檎を好きな人が、それより劣っている浜崎あゆみを好きになることはありえないと。だから、私みたいな人は、まったくもって“ありえない”人であり、まるで音楽を分かってない、幼稚な耳の持ち主だと。

あのね、そんなこと、あなたに言われる前から、とっくのとうに気付いてますから。なんかね、順番が逆なんだよね。L⇔Rの影響で洋楽を聴くようになって、一時はほとんど洋楽しか聴いていなかった。ビートルズ、バーズ、ビーチ・ボーイズ、ホリーズなどの60'sロック、クイーン、XTC、ポリス……。それからブリットポップ。それが結構続いて、そのあと、エレカシや椎名林檎と出会い、一気に邦楽を聴くようになった。で、なんやかんやで、あゆを好きになったと。

逆だよなぁ~って、自分でも思いますよ。まずは身近な邦楽、しかもチャートを賑わしているような、それこそあゆとか、そういう音楽から好きになって、で、TVとかにはあまり出ないようなマイナーなアーティストを開拓していって。そのうち洋楽とか聴きはじめて、それも最初はリアルタイムのやつだったんだけど、そこから昔のやつを遡って聴いていって――。どこで聞いたか知らないけれど、そういう流れってよく聞くじゃないですか? それで言うと、私はまったく(と言うほどでもないが)の逆! 自分でも、何じゃこりゃって思いますよ、そりゃ。

だから、「幼稚化してってるんじゃないか?」なんて思ったりするわけです(「想いが言葉に変わるまで」参照)。しかし、最近になってこう思いはじめたのです。もしかしてこれは、より身の丈であろうとしている表れなのではないか。もしくは、音楽を通して、自分自身のルーツを探ろうとしているのではないか。

あなたは洋楽派と邦楽派、どちらですか? 私は、こんな聴き方をしてきてしまったせいか、自分がどちら派なのか未だによく分かりません。それは一体どういうことなのか。

日本の「ザ・イエロー・モンキー(イエモン)」というバンドについて書かれた、大変興味深い文章があった。それによると、“イエロー・モンキー”というのは古いスラングで、欧米人が日本人を侮蔑する言葉として使っていた、言わば差別用語であると。吉井和哉は、それを承知の上でバンド名にしたと。その文章によると、こうだ。

ロックに限らず、物心ついたときには当たり前にコーラもマクドナルドもセブンイレブンもデニーズもディズニーランドもスピルバーグ映画もタワーレコードもあった世代に、それらには「外来文化の侵略」「武力を行使しない植民地化」って側面もあるのだ、とかいっても、ピンとこないのは当然のことだ。が、それまでそんなものはなかった、という時代に自己を確立した世代になると、その捉え方が違うというのも、また当然のことだ。イエモンの代表的ナンバーに「悲しきASIAN BOY」という曲があるが、この曲は明らかに「異文化との衝突」を歌っている。ある強烈なものに犯され、しかしそれが忘れられないという、悲しい性(さが)あるいは業(カルマ)を歌ったものである。ロックとの出会いを「それまで知らなかった強烈な異文化との衝突」と捉えなかった者には、こんな切ない歌は歌えない。彼らが素晴らしいのは、自分たちはどうしようもなくロックという異文化に囚われた。と同時に、日本的な情緒に引かれもするし、誇りもある。それに、日本人であることから逃れることもできない。そうした二律背反的な事実をはっきりと受け入れ、「黄色いサルに何ができるのか?」まさにそこで、水準の高い独自の音楽を創造しているところなのだ。自分も“ロックにゴーカンされた黄色いサル”を自覚する僕にとって、イエモンが特別なのは当然つうワケなのでありました。
(一部編集してます)

ほんと、愕然としちゃうね。私は、「物心ついたときには当たり前にロックもコーラもあった世代」だ。それらが全部、外国製だったとはね。もちろん、そんなことは教科書で習っただろうし、私たち世代だって、気付いてはいるんだ。Gパンはどうしたって欧米人の方が似合うし、ロックだって日本人がやるより欧米人がやった方が圧倒的に“正しく”聴こえる。そんなの、とっくに気付いてるんだ。だけど、「異文化との衝突」を知らない。少なくとも私は、ロックとの出会いを「それまで知らなかった強烈な異文化との衝突」として捉えることは、多分できなかった。だって、物心ついたときにはロックもコーラも日本にあったんだもの。そんでもって、「日本的な情緒」もそれに対する「誇り」もおそらく知らない。もちろん、今だって「日本的な情緒」を感じさせるものはあるだろうけど、それ自体を最初から知らないというか、生活(今)と直結していないというか。物心ついたときには、日本の文化も異文化もごちゃ混ぜになっていて、どれがどっからきたのかなんて分からなかったし、分かろうとするにはあまりにも混沌としていたんじゃないだろうか。私がバカなだけかも知れないけど。

だから私は思う。そんな自分は、本当の意味では、洋楽(異文化)も邦楽(日本の文化)も知らないと言えるんじゃないだろうかと。

洋楽(欧米人がやるロック)が“正しく”聴こえるのは、それが自国の文化に根付いている感じがするからだ。そりゃ、アメリカだってイギリスだって、他国の音楽や文化に多大に影響を受けてきたのだろう。だけど、そういった他の文化に触れながらも、“自分たちの手で築き上げてきた”って感じがする。“自分たちのもの”としてやってる感じがする。それに対して、邦楽(日本人がやるロック)が、どうしても“日本人が外国のロックをやってます”って感じが先に立ってしまったりするのは、やっぱり“敗戦”っていうのが大きいんだろうなと思う。異文化と“対等に”戦ってる暇も余裕もなかったのかも知れない。もちろん戦ってる人もいただろうけど(「日本語ロック論争」なんてのもあったんだしね)。何かが、根本的に負けているような気がしてしまったりするのには、そんな背景があるのかも知れない。単に私が卑屈なのか?

幸か不幸かボクら島国の生まれで
恋も革命もいづれ 一国に尽きる運命かい?
(そんなのありかよ神様よ!!)

「so many people」という曲で、宮本(エレカシ)はこう歌っていた。当時、私にはその意味するところがよく分からなかった。「一国に尽きたって別に良いんじゃん? それの何がいけないの?」と思っていたのだ。それどころか、日本好きの宮本がそんなことを歌うなんて意外だなぐらいに思っていたかも知れない。だけど、今なら、ちょっとは分かる気がする。たぶん、「一国に尽きる」ことがいけないんじゃない。そうじゃなくて、最初っから「一国に尽きる」ことを前提とされてしまっている、あるいは、してしまっているところにこそ、“負けてる”証拠あるいは理由が潜んでいるんじゃないか? 結果的に、日本でしか聴かれなかったのなら(一国に尽きたのなら)、それで良い。「日本で聴かれる(一国に尽きる)」ことを自ら選んだのなら、それも良い。だけど、最初から、自分も知らず知らずのうちに「一国に尽きる」ことを前提としてしまっていないか? それに何の疑いも持たずにやってしまっていないか? 別に、海外進出しろとか、英語で歌えとか言ってるんじゃない。取って付けたように「世界の~」とか言われても困る。何て言ったら良いのか、“日本人が外国のロックをやってます”っていうところに、自ら甘んじてない?みたいな。「しょせんはアメリカに守られた日本の中でやってるんだろ?」と言われても何も反論できないというか何と言うか。別に、一国に尽きても良いんだけど、その背景やその中の矛盾やらが見え隠れしちゃうというかさ。日本人が抱える“独特の閉塞感”っていうのかな。だってさ、そもそも、「一国に尽きる」って誰が決めたのよ?

私は、洋楽派にも邦楽派にもなれない。洋楽派に対しては、こうだ。「そんなこと言ったってあなたは日本人なんだよ? 邦楽(あるいは歌謡曲や演歌)をダサいだの何だの、近親憎悪だよ。西洋追従じゃん」。邦楽派に対しては、こんな感じ。「歌詞が日本語だからって、それだけの理由? だったら音楽じゃなくったって良いじゃん。あなたが好きだって言ってる音楽だって、もともとは西洋のものだったりするんだよ? 歌謡曲とか演歌も聴いてから邦楽を語ってよ」。そのくせ、自分は洋楽も邦楽も聴いている(笑)。それでいながら、「私はどっちも派だよ」なんてことも言えない。ああ、我ながら、どこまで嫌な奴に育ってしまったんだろう(苦笑)。でも、これが正直な気持ちなんだ。そんな私は、本当の意味で、洋楽も邦楽も知らない、洋楽派にも邦楽派にもなれない、中途半端な“根なし草”なんだろう。

次回へつづく


Dream Band Baton

2005-07-24 18:29:37 | 音楽コラム
バトン(質問)を渡してくれた当人からも、なんの話だったっけ?と突っ込まれてしまいそうなくらい、遅い返答でごめんなさい。

え~、
●編成は自由
●同バンドメンバー禁止
●バトンを回す人数1~3人
ということで、「夢のバンドを結成してみよう」とのことです。

そこで、バーッと思いつく歌い手やプレイヤーを挙げてみる……と、そこまでは良いのですが、そこから、この人とこの人だったら、相性が合うか/面白い化学反応が起きそうか/お互いの良さを打ち消してしまわないか…とか考えてたら、もうサッパリ分からん! なので、「ワケ分からない」まま放り投げてしまうことにしました! 分かるんだったら、「夢のバンド」じゃない!(笑)

ただ、「洋楽」と「邦楽」には分けさせてもらいました。ごちゃ混ぜでも良かったんだろうけど、ますますワケ分からなくなってしまいそうだし、かと言って、どちらかにしぼることもできなかったので。大目に見てください。

●洋楽
ヴォーカル: ビョーク
ギター: ブライアン・メイ(クイーン)
ギター: ロジャー・マッギン(ザ・バーズ)
キーボード: リック・ウェイクマン(イエス)
ベース: クリス・ウォルステンホルム(ミューズ)
ドラム: レニ(ザ・ストーン・ローゼズ)
マニピュレーター: アラン・ワイルダー(デペッシュ・モード)

自分で書いてて、サッパリ分かりません。あんまり考えすぎると抜け出せなくなってしまいそうなので、言い逃げです。誰か代わりに考えて~(笑)。すべてにおいて過剰かも。聴くの疲れそ~(笑)。イエスは、そんなに詳しくもないんですが、『こわれもの』ってアルバムとかカッコ良いなって思うので、入れてみました。デペッシュ・モードは最近気になってて、アランはもう脱退してしまったとのことですが、入れておきました。ヴォーカルは、リアム・ギャラガー(オアシス)にしようかなとも思ったんだけど、やっぱりワケ分からないのが良い!と思って、ビョークにしちゃいました。リアムでも、ワケ分からないかもだけど(笑)。

●邦楽
ヴォーカル: PUSHIM
ギター: 浅井健一(BLANKEY JET CITY/SHERBETS/JUDE)
キーボード: ヒイズミマサユ機(PE'Z/東京事変)
ベース: 木下裕晴(L⇔R)
ドラム: 中畑大樹(Syrup16g/VOLA & THE ORIENTAL MACHINE)

洋楽バンドよりは、分かりやすいだろうか。このバンドメンバーで、ヴォーカルがプシン。やっぱ、よく分からないか(笑)。

というわけで、合うのか合わないのかとかバランスとか、よく考えてません。ハッキリ言って無責任回答です(笑)。スミマセン。だって、あんまり考えすぎると、結局いつものメンバーになっちゃいそうなんだもん。ブライアンのギターならフレディのヴォーカルかぁ…って。そしたら意味ないからさ。無責任回答が面白いってこともあると思ってさぁ。というか、私の頭の「とっちらかり具合」が出てたらヤだな~(苦笑)。「何これ」って言わないで~。きっと私も同じこと思ってるから(笑)。

そして、今回も、特にバトンは渡しません(トラックバックしません)。ごめんなさい。ただ、こんなの思いついたよ~というのがあれば、この記事へのコメントでもなんでも、随時受付中です。

*********

さて、「夢のバンド」といえば、「夢の共演」ってことになりますが、「夢の共演」といえば、去年の『0724 YAMABIKARI』ですよ。そう、去年のまさにこの日(7/24)、エレファントカシマシ/JUDE/フジファブリック/東京事変が共演したのですよね。そして、私は、それをキッカケにこのブログをはじめたのでした。そうです、このブログも一周年を迎えることができましたぁ!

ついつい長文になってしまい、しかも、読んでくれてる方にはあまり興味のないであろう対象について書いてたりすると、「一体こんなの誰が読んでくれるんだろ…」と不安になったり、さらに、書き終わった文章を読んでは、「何こんなに熱くなってんだろ」、「私バカじゃないの」と落ち込むばかりなのですが(笑)、なんとかやってきました。どうやら、書くときは一回トランス状態にならないと書けないみたいなんですよね~(苦笑)。ま、いつもではないけど。そうして、書き終わり、トランス状態を抜けたあと(我に返ったあと?)、読み返すと、我ながら、「私バカじゃないの?」、「こんなの書いたの私じゃない!」となってしまうわけです(笑)。なら、書かなければ良いんですが、それならとっくにそうしているのです! 結局、書かずにはいられないのです!(やっぱりバカ)

しかし、これも、読んでくれている方がいてこそのもの! 誰もいなかったら、書いてないもん、書けないもん。ですから、こうして一周年を迎えられたのも、皆さんのおかげなんです。本当にありがとうございます。そして、興味のない話題であっても、読んでくれていると信じています!(笑) 対象がなんであろうが、長文であろうが、面白く読めるように努力していきたいと思っています。なるべく短くまとめる努力も(笑)。更新ペースを上げる努力も。しなきゃいけない努力、一杯だな~(笑)。これからもよろしくお願いします。