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sky is blue

言わなければよかったのに日記

平成理想主義の旅 @SHIBUYA-AX

2004-11-22 23:25:24 | エレカシ
思えば遠くに来たもんだ――。私は2000年からエレカシのライヴを観ていて(作品はもうちょっと前から聴いていたけど)、その時その時で確認しながら一歩一歩進んできたから、あまり実感できずにいたかも知れないけれど、今ふと冷静になって振り返ってみると、本当、思えば遠くに来たもんだ。エレカシの場合、その一歩一歩が本当に魂こもってるから、つまり、どんなキャリアがあったとしても、常に“今”と向き合って、“今出すべき音”というものを真剣に考え、そのためには今まで培ってきたイメージだとか売りだとかも一旦白紙に戻してまでも、“今”という瞬間を作品に刻み続けてきた。そんなだから、追う方も必死で追わなければならない。で、追いかけるのに必死だったもんで、気付けずにいたのだが(それぐらいエレカシの“今であること”にこだわる意識は強力)、思えば遠くに来た、のかも知れない。

例えば、世間一般から見たら、エレカシの代表曲は「今宵の月のように」とか「風に吹かれて」だろうか。だから、まぁ、1997年頃ってことになる。しかし、例えば今、その頃のエレカシを期待してライヴに行ってみても、あるいは、最新作を聴いてみても、そこにはその頃のエレカシはいないだろう。大体ライヴでも(色々な人が出るイベントでも)、新しめの曲中心で(フェスでファンさえ聴いたことのない未発表の新曲オンリーできたこともあるんだから)、古い曲はポツポツやるくらいだし、所謂ポニーキャニオン時代と言われている、「今宵の月のように」とか世間一般に広く知られていた頃(これからもそういう時代くるけどぉ!笑)の曲はあまりやらなかったりする。ま、曲が多いからってのもあるんだけど。毎年恒例の野音ライヴでは昔の曲を結構やってくれるけどね。しかし、例え、ライヴでそういった曲をやったとしても、“今”のその曲になってたりする。ずっと変わらないのは「悲しみの果て」くらいだろうか。

じゃあ、何が変わったの?と聞かれたら、実は答えに困る気がする。確かに、ここ5年くらいで劇的に変わってはいるのだが、何も変わってないような気もする。「同じじゃん」と言われたら、「違うよ!」と言いつつも「そうかも…」とも思えてしまう。ま、それは置いといて、とりあえず、どう変わったかと言うと、まず、脱ポニーキャニオン時代一発目としては、2000年の『グッド・モーニング』だろう(実際にここから東芝EMIだし)。ポニーキャニオン時代のイメージしか持っていなかった人は驚いただろう。打ち込みを大幅に導入し、そのサウンドに、メロディに縛られない奔放な歌を乗せ、宮本が一人で突っ走ったようなアルバム(そこが痛快だった)。シングルの「ガストロンジャー」は強烈で、世間一般の間でも「今宵の月のように」よりこっちの方が印象に残っているという人もいるかも知れない。それがキッカケとなったのか模索期に突入し、2002年の『ライフ』では、小林武史の力を借りて、『グッド・モーニング』とは打って変わって“歌”を聴かせる、宮本の抱える虚しさを息が詰まるほどの純度で“歌”に込めてみせたアルバムだった。『グッド・モーニング』『ライフ』とも、言ってみれば宮本浩次のソロアルバムのような雰囲気を放っていた。そして同じく2002年、今度は、4人のバンド・サウンドに回帰したミニ・アルバム『DEAD OR ALIVE』を発表。まさにエレカシ起死回生。宮本も<俺の生活はここだ>と歌い、前2作の、歌い方は違えど悶々としたものを一人で抱え込むような歌い方ではなく、悶々としたものすべてを音にぶつけてくるような歌いっぷりと4人のバンド・サウンドの復活に私は喜んだ(ファンもきっと喜んだんだと思う)。そして2003年『俺の道』。ここで、バラバラになりかけた心(宮本浩次)と体(バンド)は再び引っ付き合いグルーヴを生み出し転がり始めた(2003年の私にとってのベスト・アルバム堂々の第1位です!)。で、2004年の『扉』~『風』である(この辺の話は、『風』のことを書くときにでも…多分)。

このように、サウンドも歌も曲自体も明らかに変化している。しかも劇的に。しかも凄いスピードで。だからこそ、「今宵の月のように」とかその頃を知っているだけでエレカシに一定のイメージを持っている人、知った気になっている人は、もったいないなぁ、っていうか、今のエレカシを聴いてみて欲しい!って強く思う。本当、カッコ良いから。私は他のバンドも観てるけど、やっぱり、エレカシは“今出すべき音”ってことに対するこだわりや、“今であること”に対する執拗なまでの意識が他のバンドとは桁違いな気がする。“今を生きる!”みたいな。じゃなきゃ意味がない!みたいな。本当に観る度に違う。だから毎回見逃せないのよ。この“一時たりとも見逃せない”というのが他のバンドにはなかなかないな~って思っちゃうのよ。これは一体、何なんだろう。私のひいき目だろうか。いや、別に違ければ良いってもんじゃないし。やっぱり本当に違う。私の観ている限りだと、こんなに違うってバンドは他にいないんだよなぁ。多分(笑)。

しかし、さっきも言ったけれど、何が違うのかって聞かれると困る。違う!と思いながらも、何も変わってないような気もするんだよね。だって、「ああ流浪の民よ」(1988年)なんていう昔の曲をやっても、今と同じっていうか、変わらずカッコ良いんだもん。それは今のエレカシが演奏してるからなのかも知れないけど、曲自体をとってみても今に匹敵する気がするものなぁ。そういう曲を選んでんのか(笑)。ってかさ、あんな曲をとっくに昔から作っちゃってるエレカシが凄いよ! やっぱり、変化し続けてるエレカシではあるけれど、でも、とっくに昔からカッコ良かったんだよ。ううーん、何だろな。“今を生きる!”っていう、“今であること”に意識的な姿勢、“今出すべき音”にこだわる姿勢、表現に向かう姿勢が、昔からずーっと変わってないからかなぁ。別に曲が完成されてないってわけでもないのに、常に“未完成”と感じさせるところも、なんか、凄い。なかなか他にはないよなぁ。
それと、不思議なのは、私が『グッド・モーニング』を初めて聴いたとき、そのときはポニーキャニオン時代の曲ぐらいしかちゃんとは聴いていなかったはずなんだけど、そんなに驚かなかったことなんだよなぁ。さっき「ポニーキャニオン時代のイメージしか持っていなかった人は驚いただろう」なんて書いたけど、劇的に変化しているはずなのに私はそんなに驚かなかったんだよ。変化は十分分かったしそういう意味では驚きはしたけど、どこかで“やっぱり!”とも思っていたんだよなぁ。私が何となく感じていたエレカシに潜在する“何か”が出てきただけっていうか。そのときのこと詳しく覚えてないけど、私、何かで前知識があったのかな。インタビュー読んだり、もっと前の作品(エピック時代)もちょこちょこっとは聴いていたからかな。でも、忘れてるだけで、実際は驚いてたかも(笑)。ううーん、やっぱり、“変わっていながらも、変わっていない”んだろうなぁ。
さすが「化ケモノ青年」、<いつだって右往左往>ってことか。そうか! エレカシの「歴史」は、そのまま<己のイメージと相克の歴史>なのか。<青春の残像がフイをついてやってくる>――そっか! エレカシは<青春の残像>と闘ってるんだ! そこが他のバンドとは決定的に違うのかも!

ってライヴの話を書くはずが、こんな内容になっちゃったよ! しかも、この時点で長くなっちゃったよ! どうしよう…。

そうだなぁ、実はこの『平成理想主義の旅』というツアー、もう一回行くのです。だから、もう一回行ったらライヴのことまとめて書こうかな。多分、今回「渋谷AX」でライヴ観て、ここらへんでここ最近のエレカシを振り返って整理してみたくなったんだろうな。「思えば遠くに来たもんだ」、「でも実はそんなに遠くに来てもいない?」って。だから、こんなことを書いてみたんです。
ちなみに、ポニーキャニオン時代の前、エピック時代(アルバム7枚)のことも書き出したら、凄いことになっちゃいます。エピック時代はエピック時代で、ポニーキャニオン時代と全然違いますから。

ま、ちょこっとライヴの話をすると、当然の流れとして「JAPAN CIRCUIT -vol.20-」の延長で、バンドとしてカッコ良かったです! ミヤジが控えめに見えました。でも、それは悪い意味じゃなく、バンドの一員に徹していたというか。バンドの音がデカかったのか、私がスピーカーの側にいたからなのか、バンドの音がデカくて、ミヤジの声や歌詞が聴こえづらかったからそう映ったってのもあるかな。もちろんいつもに比べてってことですよ! ミヤジは普通でも声がデカい歌い手ですから!

あと、大人っぽかったです。もうブルースでした。「隙間」っていうか「間」がね、良いんだよね、エレカシは。音でひたすら埋めるんじゃなくてね。「無音」をちゃんと知っているバンドですね。そんじょそこらの若僧には出せないオーラでした。大人の魅力。大人の色気。ブルースだったり、獰猛だったり、可愛かったり、ポップだったり。ホントに表情豊かだなー。生きた表現だなー。ま、誉め過ぎてますけど(笑)、本当そう思っちゃうんだもん。誉め過ぎても良いじゃないか!(笑)

「奴隷天国」で、<奴隷! おんどれい! オドレ! もっと踊れ!>って変化してったのには、思わず、ミヤジ天才!(←原曲にはそんな変化ない) 「化ケモノ青年」だったかで、歌い終わった後「この曲、歌詞が難しい!」だって。前も何かの曲で「音程が難しい」とか言ってたなぁ。照れですか? 自慢ですか? ああ、その両方ですか。それとも、宮本さんのモードからすると、もう「化ケモノ青年」(今年発売の曲)ですら古い曲だっつうんですかい?(笑) マイクのコードのこと「つた」って言ったのは照れですか? ユーモアですか? ああ、よく分からないですか。そうですか。「クレッシェンド・デミネンド -陽気なる逃亡者たる君へ-」があんなにどえらいカッコ良い曲だとは知りませんでした! 轟くバスドラ最高! 「デーデ」、久々に聴いた気がする。懐かしい~! “今”と向き合う必死さから少し解放された気分~♪

と、次のライヴに間に合わせるため、ガーッて一気に書いてしまいました。そのため、あんま考えないで超書き殴ってますこれ。特に後半、もうな~んも考えないでノリに任せて書いてます。中味のないことばっか書いてるかも。後から直したくなっちゃうところ満載かも(汗)。ま、そういうのもたまには良いっかぁ? そこに真実があるかもだし。なんちゃって。

エレカシの何が変わっていて、何が変わっていないのか。そして、どうしても“他のバンドと違う!”と思ってしまうものは何なのか。もう一回『平成理想主義の旅』行ってライヴのことを書くときに、少しでも書けてたら良いね。……って、もう十分書いてるかも?(笑)

あ! せめてセットリストを書いておこう。そうしよう。

<セットリスト>
1. 一万回目の旅のはじまり
2. パワー・イン・ザ・ワールド
3. 生命賛歌
4. 人間って何だ
5. 定め
6. 夜と朝のあいだに...
7. DJ in my life
8. ああ流浪の民よ
9. 友達がいるのさ
10. 平成理想主義
11. 達者であれよ
12. クレッシェンド・デミネンド -陽気なる逃亡者たる君へ-
13. 化ケモノ青年
14. 俺の道
――アンコール――
15. デーデ
16. 奴隷天国


彼岸と此岸の狭間で

2004-11-21 00:04:54 | その他
とある場所で、爆笑問題が色々な著名人と対談している本をたまたま手にする機会に恵まれた。適当にパラッパラッと見てて(糸井重里とかと対談していた)、何気なく気になって開いたページ、「島田雅彦」との対談。これが出会い。「作家」です。この対談を読みながら私は興奮してしまった。何がどうってわけでもなく、話の内容もちゃんと分かってなかったかも知れないけど、何て言うか、シンパシーを感じてしまったのだ。しかし、この人にシンパシー感じちゃって、私、良いのだろうか?(笑)

トドメがこれ。各対談の後に、その対談を爆笑問題の二人が振り返るのだけど、島田雅彦のことを「凄いことを言う割には、物凄い照れくさそうに話す人でしたね」と言っていたのだ。いや、「物凄い照れくさそうに話す割には、凄いことを言う人でしたね」だったかも。いずれにせよ、この「照れくさそう」ってのが決め手! 照れくさそうな人ほど信用できる!?(私の場合) しかも、照れくさそうな割に、凄いことを言う! これ、私のハートを射止める大鉄則かも!? 逆に(?)、何ともないことを大げさに言うってのも有力です。(射止めたい方、参考までに…爆)。

まんまとハートを射止められた私は、もちろん、彼の作品が読みたいー!という気持ちで一杯になり、古本屋で『彼岸先生』と『僕は模造人間』を見つけ購入。まず、『彼岸先生』を読み終えた。

久々にドキドキしながら本を読んだ。私の解釈が合ってるとは限らないし、よく分かってないところもたくさんあると思うけど、でも、なんか、もう、そういうんじゃないのだ。フィーリングがもう、オーラがもう。たとえ私が分かってなくても、そんなの遥か彼方に飛び越えて、作者の気迫というか“命がけの祈り”が伝わってくるのだ。それは、どんな祈りかというと、「何をしたって生きられる」とか「何者であっても生きてゆける」とか、多分、そういうことだ。

ストーリーがどうと言うより、とにかく、そういう、血がググッと熱くなっちゃうような“命がけの祈り”を感じる文章が頻繁に出てくる。これは、ストーリーを読ませるものではなく、よりよく生きるために捧げられた“命がけの祈り”を届けるための物語なんだ。そのためには喜んで犠牲になる。ストーリーなんて忘れられても一向に構わない。人の記憶からは、ストーリーは何十年後かには消えてしまうかも知れないが、“祈り”は何百年後だってずっと残る。うん。うん。表現って本来そういうものだよね。そうか、私が読みたかったのはこれだったんだ。それは、あくまでも私にとってだけかも知れない。でも、それで良い。私の中でこの小説は死なない。

ここで凄いのは、よりよく生きるために捧げられた祈りが、結局は、「何をしたって生きられる」、「何者であっても生きてゆける」ということに辿り着いている点だ。「自分は何者であるか、何をして生きていこうかにこだわり過ぎるあまり、不自然な生き方を選ぶ羽目になった」、「『よく生きること』に執着しながら実は『うまく生きられない』とボヤいてばかりいた」そんな現代に生きるすべての人、とまでは言わないが、多くの人にこの祈りが届いたら良いなぁ。

例えば、この日記で私が書いてたようなことが、書きたかったであろうことが、書かれているような気さえしてしまった。恐れ多くも。

「一切をあれかこれかで分けられる者は生も死も輝かしいものにすることができるでしょう。しかし、あれかこれかを永遠に思い悩む私は結局、生からも死からも逃げ続けることしかできない。でもそれでいいのだとも思います」とか「私は自分に正直であるために生活の信条も理想も持たないのだ。時にはしたくないことも進んでする。もちろん、したいこともする。だからといって、何でもするわけではない。私は迷い続ける限り、自分に正直でいられるし、不安や苦痛と馴れ合っている限り、幸福でいられる男なのだ」とかは、「You say yes, I say no」の【前編】【後編】を通して私が書きたかったことのような気もしてしまった。同じようなことを考えてる人がいるんだ!と嬉しくなってしまった。恐れ多くも。

でも、読みながら、不安にもなった。この物語は一体どこに私を連れてくんだろう?って。でも、それは、その小説と「魂の交流」ができてる証なんだろう。そして、最後は、なんと! 彼岸も此岸もあの世もこの世も来世も現世も何もかもごちゃ混ぜの世界に私を導いてしまった! 嘘も本当もフィクションもノンフィクションも何もかもがごちゃ混ぜの世界。凄いよ、これ。部屋にいながらにして、300円ぐらいで買った小説一冊で、こんなところまで連れてこられちゃうなんて。「どこまでが現実でどこまでが夢だったんだ?」みたいな「夢と現実の境界のあやふやさ」を訴えかけてくる小説とかは結構あるけど(そしてその面白さも否定しないが)、その先をいってる、それを繋げようとしている。“命がけの祈り”なんだ。そうだよ、そうだよ、だからこそ表現っていうか、表現がそれをしないでどうする?だよ。読んだ後に、「ここからここまでが現実で、ここからここまでが夢だったってことでしょう?」なんて言いながら友人と確認し合うなんて悲しい。その表現が悲しい。そんなことのために表現ってあるのだろうか。だって、表現なんだから、その中に「夢と現実の境界線」を引くこと自体、根本から矛盾しているでしょう? 最後は己自身も食ってしまいますよ? この中には、夢も現実も嘘も真もすべてがある。壮大なフィクションでありノンフィクションである。夢と現実の境界線を引くことも、あれかこれかを分けることもしなくて良い。「何をしたって生きられる」。「何者であっても生きてゆける」。

彼岸と此岸の狭間で生きるすべての人達に、あれかこれかを永遠に思い悩む(私のような…笑)すべての人達に、読んで欲しい。

「僕達はロマンティストであるくせにリアリストなんだよ。どっちかに片寄っていれば、こんなに胸が痛むことはないのに」――及川光博とリリーフランキーはよくこんなことを話していたそうだ。そんな人達に。

こっからは余談ですが、この本、グッとくる言葉が色々出てきたって書きましたが、特にエレカシとのリンクを勝手に感じて喜んでしまいました。ニーチェも出てくるし(エレカシ最新作『風』のブックレットにはニーチェの言葉が載っている)。それをちょこっと挙げてみたいと思います!

――でも、パパ、時間は一つだよ。
――違うな。そう思うのはおまえが誰かの都合で生かされてるってことだ。テレビやラジオを消してごらん。集団の意見を疑ってかかり、個人の呟きに耳を傾けてごらん。そうすればわかるよ。この世には様々な時間が流れてることがね。世界の支配者になろうとする者は時間を征服し、一つに統一しようとする。それはいけないことだ。文化っていうのは統一された時間に亀裂を生じさせることなんだ。おまえも自分の時間を生きろ。

これを読んだエレカシファンはきっと「勝利を目指すもの」を思い出すでしょう。<俺の時間を生きなきゃ なるまい>ってそのまんまだし。もしかしたら違う曲も…「個人の呟きに耳を傾けてごらん」なんて、言葉こそ違えどモロに…。「テレビやラジオを消してごらん」とか「化ケモノ青年」だったり(笑)。他にも“エレ歌詞”を感じるところはあったのだけど、どこにあったかとか細かく覚えてないから探すのが大変なのと、個人的思い入れが多分に入っているため挙げるとキリがないのとでやめておきます。しかし、爆笑問題との対談でも「100年後の人々の幸せを考えてるかどうかがポイント」というようなことが語られてて、それも「勝利を目指すもの」を思い出してしまいました。<その生き様が まだ見ぬ友へ 未来の人の“喜び”となるように 行かなきゃなるまい>とか<未来指向するもの>とか。だから、「勝利を目指すもの」、やってくれないかなぁ、次のライヴで!(それは関係ないか…笑)←そんなことがあったので余計に「勝利を目指すもの」がライヴで聴きたくなったのです。あ、「人間って何だ」の<未来の友へ、架け橋たる存在>ってのもそんな感じかも。まぁ、私の勝手な思い込みなんだけど。それに、その島田雅彦との対談のタイトルが、これまた「破壊と創造」だったんだもん。「JAPAN CIRCUIT -vol.20-」のエレカシのところで私が書いたのとリンク。島田雅彦と宮本浩次(エレカシ)って志が近いのかも~なんて思っちゃうよ、勝手に。スーパーマン(超人)を目指すしかあるまい!

爆笑問題よ、運命の出会いをありがとう。


PUSHIM @Zepp Tokyo

2004-11-18 21:16:44 | ライヴ
困った。困った困った困った。
プシンのライヴに行ってきたんだけど、これをどう言い表したら良いのか分からない。「プシン最高!」とか「音を楽しむ!」とか「ワン・ラヴ!」とかそれだけで良い気がするが(ごめんなさい、後の二つは行った人にしか、それも私と一緒に行ったそこのアナタ!しか分からないと思います)、もちろん、それだけじゃない。それだけだったら、そうはなれない。ただ、

“すべての音楽ファンに観て欲しい”

私がプシンと出会ったのは、「DANCEHALLIC」という曲のプロモだった。何気なく見ていたTVにそのプロモが流れ、私の中に電気が流れ、この人の音楽を聴きたい!今すぐにでも!という衝動に突き動かされるようにして、アルバム『Pieces』を手にしたのだった。突然、自分が今まで見たことのなかった、知らなかった世界が目の前にぶわ~っと広がっていくような感覚だった。レゲエ、特にダンスホール・レゲエと言われるジャンルらしいが、私がその辺の音楽に馴染みがなかったからってのも、もちろんあるだろう。しかし、それだけじゃなかった。レゲエ云々とかそういうのは後付けで、出会ってしまったものが“たまたまレゲエだった”だけに過ぎない。そう、たまたまレゲエで、たまたま音楽だった。

そんな出会いから1年半以上経っているが、プシンは今でも私にFRESH!な気持ちを与え続けてくれている。

『Pieces』から約1年半後、今年の8月に『QUEENDOM』というアルバムが届けられた。前作『Pieces』よりも“レゲエ!”って感じが全編に貫かれていて、レゲエで行くんだ!という強い意志を感じさせる、レゲエ以外の何者でもないと、レゲエに詳しくない私にも思わせてしまう硬派なアルバムに感じた。にも関わらず、前作よりもバラエティに富んでいる。色んなリズムやライムや歌があって、のびのびと自由な感じで表情も豊かだ。一つの王国のように、そこには色々な街や建物、海や夕陽や花なんかが咲き乱れていて、宴や恋が繰り広げられている。レゲエという音楽の懐の深さなのか、プシンというミュージシャンの懐の深さなのか、“硬派かつ柔軟”という、まさに“レゲエ”であり“音楽”であり“プシン”なアルバムだったように思う。

で、今回のツアー“QUEENDOM”である。

私が行ったのは最終日で、約3時間、何曲歌ったんだろう。もうね、それで、この日記の冒頭に戻るわけです。「どう言い表したら良いのか分からない」。

プシンは「海」のようだ。海はすべてを知っている。朝陽も夕陽も暗闇も、星も月も、風も雨も、恋も夢も、喜びも悲しみも、何もかもを知っている。何もかもを見せてくれる。そして、何もかもが帰る場所。すべてが溶け合う場所。プシンが皆から愛されているのが十分過ぎるくらい伝わってきて、それと同じくらい、プシンが皆を愛しているのも伝わってきて、そこに漂っている愛が、皆がプシンを愛している愛なのか、プシンが皆を愛している愛なのか、分からないくらいに溶け合って波打っていた。

プシンは「家」のようだ。私は不思議で仕様がない。何故こんなに居心地が良いのか。例えば、彼女はMCでもう分かったよってくらい「レゲエ、レゲエ」と口にしていたし、会場にはライターに火をつける人やタオルを振り回す人だっていた。開演前にはDJタイムがあり、おそらくレゲエの名曲であろう曲がかけられていた。私はと言えば、レゲエに全然詳しくなく、ファッションもレゲエじゃないし(笑)、ライターに火もつけなければタオルなど持ってもいない。DJでかけられた曲も知らない。だのに、何でこんなに居心地が良いの? というか、居心地の悪さを微塵も感じなかったことが驚きだ。自分が普段よく行くライヴとは明らかに雰囲気も音も違うはずなのに。疎外感なんてぜーんぜん感じなかった。それどころか、“私、前にもここにいなかったっけ?”っていうか、“ひょっとして、私はここから来た?”とまで思えてしまうから不思議だ。この、すべてを包み込んでしまう、すべてに向かって開かれている、すべてを受け入れてしまうほどの包容力は一体なんなんだ? 内容的には“レゲエ!”って感じだし、媚びてるところも全然ないのに。何故こんなにも、あるがままで良いと思わせてくれるのか。何故、行ったこともない場所のはずなのに、私の心は“ただいまー!”と叫んでしまうのか。これが“レゲエ”というものなの? それとも?

こんな人はなかなかいない。「海」になれる人なんて、「家」になれる人なんて、そうそういない。持って生まれたものなのか、生まれ育ったものなのか、どっちにしろ、それを失わずに(あるいは更に磨きをかけながら)ここまで生きてきてるプシンが嬉しい。

多分、これがプシンにとっての“レゲエ”であり“音楽”だからだ。プシンにとってはレゲエが音楽が「海」であり「家」なのだ。だから彼女は、自分が音楽をやるときも、その純度を高めるために、自由であろうとするし、「海」であろうとするし、「家」であろうとするのだ。だからと言って、ユルイ音楽だと思ってもらっては困る。自由であろうとすることが、ただただ「音を楽しむ!」ことが、いかに難しいことか。その戦いを知らなければ、聴き手をも自由にし、解放してしまうなんてことはあり得ない。

少し話はズレるが、どんなにジャンルの壁を越えて、色々な要素を取り込んで、音楽的な幅の広さや知識を見せつける音楽であっても、窮屈に感じられるときがある。音楽的には色々な要素が入っているはずなのに、ちっともその音楽自体の表情が豊かじゃないとき。色々な要素を取り入れた割には、どこか窮屈で表情に乏しい音楽。音楽的な懐の深さが、そのままその音楽の懐の深さに繋がるとは限らない。物凄く偏った音なのに、開かれていて表情豊かな音楽とか一杯ある。エレカシとか、音楽的にはそんなに多くのことをやっているわけじゃないはずなのに、めっちゃ表情豊かだもんね。色んな要素を取り入れれば、間口が広がるわけでも、表情が豊かになるわけでもないんだよ。もともとみんな違うんだから。その違いを分かって初めて、共有って生まれるもんじゃないだろか。

何が言いたいのかと言うと、プシンの音楽は、ばりばりレゲエ好きな人にも、普段レゲエを全然聴かない人にも伝わるものだと思うってことだ。かといって、それが、イタズラに間口を広げられた音楽ではないってこと。みんな違う(孤独)ということが同じ(共通)わけだから、共有は孤独から生まれるのだろう。プシンはきっと、誰よりも孤独に音楽と向き合ってきたんじゃないだろうか(MCでも「歌で悩んだこともあったけど、皮肉にも歌に助けられる」と言ってた)。だから、“在日韓国人”とか“レゲエ”とかも超えて共有されるべき音として鳴っているんじゃないだろうか。だからこそ、彼女が「レゲエ、レゲエ」と口にし、どんなにコテコテな音楽や服装や演出をしたとしても、そこに排他的な要素など一切生まれない。奇跡的なほどに。これでこそ音楽。世の中には、共有を前提とした排他的な音楽なんてのもあるかも知れない。でもプシンは違う。音楽は人を選ばない。人が音楽を選ぶ。だからこそ、

“すべての音楽ファンに観て欲しい”

と、ここまで書いておいて何なんですけど、そんなことどーでも良くなっちゃうくらい、プシンって人が魅力的な女性なんですよ! まんずセクシー! でも、所謂セクシーってんじゃないんだよなぁ。人を圧倒するようなセクシーさじゃなくて、もう自然に湧き出てきちゃってるセクシーさ。セクシーなんだけど、セクシーと意識させない、ナチュラルセクシーとでも言えば良いんですかね? ある意味、超セクシー! マイク持っちゃったら、隠そうと思っても隠せないんだろうなぁ、あれは。本人、自分がセクシーってこと気付いてんのかな?みたいな(笑)。なのに、シャイでキュートなんだよねぇ。歌はもちろん凄いし、大胆な感じがするんだけど、同時に奥ゆかしさっていうんですか、しとやかさも持ってるんだよねぇ。圧倒的な歌声なのに、人を圧倒しないんだよ。そこが凄い。プシンマジック? 歌だけ軽く聴いてイメージ持ってる人は、もしかしたらビックリしちゃうかも知れない。そのおしとやかさやシャイっぷりに! てか、可愛らしい! 会場のあちこちから「可愛いー!」って声があがってました。花も投げ込まれるし。分かる…分かるよぉ~! プシン、はにかみながら「一年分ぐらいの『可愛い』をもらったわ」って言ってました☆ で、笑いも持ってる。ベタベタなんだけど、ベタベタじゃないんだよ。ベタベタなこと言ってても、笑っちゃうっていうか。意外に抜けてたりするし(笑)。詰めが甘かったり(笑)。でも、全部許せちゃう。もう一緒に行った友人と二人して“べた惚れ”でした。

セクシーとシャイとキュートと笑い…全部兼ね備えているなんてね。誰かがプシンの歌唱力を“歌笑力”と表現していて、もう言い得て妙! 座布団10枚!

Home Grown(バンド)との相性も抜群! 息ピッタリ! まさに家族のよう。ってか、Home Grown、素晴らしいバンドです。あのグルーヴ感はタマラナイ! めっちゃ良いバンドやわ~。プシンの「海」を表現してたもの。終始、唸らされっぱなし。ゲストに、Ryo the Skywalker、Fire Ball、Moominが登場。どれもこれもお互いのリスペクトっぷりや愛が感じられて良かったなぁ。Fire Ballとの芝居入ってる歌唱(ミュージカル並み)は楽しかったぁ。歌の世界をばっちり再現してました。こういうのもアリよね~。Moominのとき、MCでMoominが「音楽は良い」みたいな話になって流れ上「間違いない!」って永井秀和の真似したら、それを受けたプシンが「どこ見てんのよ!」って青木さやかの真似をしたんだけど、めっちゃキュートだったわぁ。真空パックして持ち帰りたいくらいだった(笑)。最後の方で、ちょっと早いけど、プシンの誕生日を祝って、バースデー・ソングが歌われ、ケーキと花がプレゼントされた。知らされてなかったプシンは驚いてたけど、「幸せです」と言ってた。私も幸せ♪

最後はやっぱり「a song dedicated」で締め。いやぁ、4枚目『QUEENDOM』までで築いてきたプシン王国をたっぷり堪能させてもらいました。それでもプシンは『QUEENDOM』を作り終えて「こんなもんか」と思ったそうだ。「今、ここにいる人、敵に回してるけど」って(笑)。←『QUEENDOM』はHome Grownや今回のツアーに参加している人達と作った。まだまだ!ってことさ。海は広いな~大きいな~だもんね。関係ないけど、今回キーボードを弾いてた渡辺貴浩さんは、エレカシの“ライフツアー”のときにもキーボードを弾いてた人っぽい。なんか嬉しい。

ああ、「I Wanna Know You」は良い曲だなあー。この曲が似合うような恋愛したいよ(笑)。いや本当に。


JAPAN CIRCUIT -vol.20-

2004-11-13 17:41:46 | ライヴ
この日は疲れた!
まず、高校の同級生4人とその子供3人に会い、車でファミレス~公園に行く。車がないと生活しづらいであろう田舎。公園で子供たちとともにアスレチックなどで遊び、ターザンみたいな縄に乗っかった私は、友達にイタズラに勢いをつけられ、軽く木にぶつかり、縄から落ちてしまい土の上にズッコケる(ええ、ええ、大体いつもそういう役はワタクシですとも)。その一部始終をぽかーんと笑いもせずに子供に見られる。それからライヴに行くため、私だけ早めに退散し(ったく、これから私はシブヤという街に行くのよ? それなのに土なんかつけてくれちゃって! それが子供によってなら良いけど、同級生によってよ?)、駅員が一人いるだけの静か過ぎる駅で電車を待つ。本当にここで人は生活しているのか?ってかちゃんと電車は来るのか?ってくらい静かで、これから私は本当にあのシブヤという街に行くのか?と怯む。されど侮れないよ日本、電車を何本か乗り継いでいるうちにシブヤという駅に着いてしまった。あのアスレチックとハチ公も繋がっているってことか。体の移動はできても心の移動が…。私の心は、新幹線どころか各駅停車にすら負けるのか? 住みやすいのか住みにくいのか分からんなー。いやいや、いけないなー、運動不足は。喝!

今日のライヴの舞台は「渋谷AX」なのですが、初めての2階席。ライヴハウスにおける2階席って一度経験してみたかったのよね。しかし、席についてみてがっくし。角度は悪いし後ろの方だから微妙。っつーか、やっぱ、蚊帳の外って感じがするんだよね。スペースが空いたのでついでに観させてもらってますって感じ。私はライヴを俯瞰なんてしたくないっつーの。観戦したいっつーの。まぁ、降りようと思えば1階でも観れるんだけと、何でも経験だからね。今日は2階席を堪能させてもらいますよ。真ん中だったり、もうちょっと前だったりしたら、また違ったんだろうけどね。関係者気分を味わえるかと思ったけど、私は関係者になりたいわけじゃなかったと気付かされたよ。そういった意味では、関係者気分を味わえたわけだけど。でも、まだ始まってないし、始まったら気分も変わるかも知れないし。

今日のイベントはロッキング・オン主催の『JAPAN CIRCUIT』というイベントで、今回で20回目になるらしい。私は『JAPAN CIRCUIT』は3回目。今日の出演者は、GRAPEVINE/エレファントカシマシ/ART-SCHOOL/アナログフィッシュ。私の予想では、出演順は、アナログフィッシュ → アートスクール → バイン → エレカシ。エレカシは切り札って感じで最後に発表されてたし、大方の人もこう予想したのでは? そんなこんなで待っていると、主催のロッキング・オンの人(兵庫氏)が出てきた。すると、「いつもはここで出演順を発表するんですが今日は発表しません」とか言うもんだから、え? え? もしかして? もしかしちゃう? 「最初のバンドはこの方です!」

エ、エ、エレカシ~!?

一番はエレカシでした。心の準備ができてないっつーの。ますます私を疲れさせるつもりか?(笑)

(1) エレファントカシマシ
ああ、最新アルバム『風』のことを書く前に、この日の日記が先に来ちゃった…。仕方ない。先に今日のライヴのことを書きます。しっかし今日のエレカシは獰猛だったよ。2階席から観ると、ステージ上は地獄絵図に見えました。あそこに落ちたら炎上しちゃうね。『風』ではサポート・ギターやサポート・キーボードが参加していたので、ライヴではどうだろうと思っていたら(「4人でやりたい」ってミヤジ言ってたけど)、4人だった! やっぱ嬉しい! うう、「平成理想主義」を4人で鳴らしていることがただただ嬉しい。セットリストは下に書いておきますが、この日はどの曲がどうとか、何かそういうんじゃなかったな。さっき言ったように、獰猛で、荒れ狂うって感じで生き物でした。2階席から観て4人全体を俯瞰できたから気付けたのか、ミヤジ以外の3人の気迫とパワーが凄かったなぁ。カッコ良かった。ミヤジ負けるなーって思ったよ(笑)。私にとってはこんなこと初? オーバーに言っちゃえば、ミヤジが4人いるみたいだったよ。ミヤジが4人だよ? 凄いじゃん、それ。後日『風』のことは書こうと思ってますが、『風』はエレカシが解体されていく音だと感じたのね。それそのまんまで、エレカシが解体されていく過程を観るようなライヴだった。それが獰猛で荒れ狂う地獄絵図だったわけだね。と言っても、ちょっと前みたいに、お客さんとか第三者を攻撃するような荒々しさじゃなかったと思う。やっぱりミヤジは、トミ(冨永義之)のドラムや石君(石森敏行)のギターに注意したりしてたんだけど、前の観てて冷や冷やの辛い感じではない気がしたんだよなぁ。エレカシは、自らを解体することも構築することも、つまり、破壊と創造を行えるバンドだと思っていて、私はそこに感動し大好きなんだけど、そして、そんなバンドはなかなかいないと思っているんだけど(いるはいるんだろうけど、エレカシの破壊と創造のレベルは凄いと感じる)、そういう意味での解体であり破壊であるって感じだから、前みたいに冷や冷やしないのかな。それとも私がただ慣れただけ?(笑) いや、そりゃ、全くしないわけじゃないけど。つまり、『風』で感じたように、解体の裏に構築を、破壊の裏に創造を感じることができたからってことかな。「DJ in my life」だったかで、いきなりゆっくり歌いたくなったのか、テンポを落として歌うミヤジに、それに反応して合わせる3人(うわっ、難しそう)。まぁ、破壊と創造ってのはどんな表現者も行っていることだとは思うけれど、その過程というか現場をこうもダイレクトに曝け出してみせてくれるバンドは、そうはいないと思うなぁ。それが良いことなのか悪いことなのか私には分かりかねるけど、何かが壊れていく音と何かが生まれる音を同時に聴けるって、エレカシって、実はチョー贅沢なバンドなんじゃないの? とりあえず、あの場所に落ちたら私は間違いなく炎上しちゃうね。それにしても、セットリストも驚きだったけれど(バンドの解体、そして構築を考えると、バンド・サウンドに回帰したときの『DEAD OR ALIVE』の曲をやりたくなったのかな)、<歩くのは良いぜ~!!>ってあんなに感極まる人、はじめて観たよ。「はじめて観た」って何回も観てるのに思わせるんだからなぁ、ミヤジは。「化ケモノ青年」のころには、これが「化ケモノ」なのか「本モノ」なのか分からなくなってたよ。

<セットリスト>
平成理想主義 → クレッシェンド・デミネンド -陽気なる逃亡者たる君へ- → 一万回目の旅のはじまり → DEAD OR ALIVE → 風に吹かれて → DJ in my life → 友達がいるのさ → 化ケモノ青年 → パワー・イン・ザ・ワールド

いやぁ、しつこいけど、エレカシは、エレカシを壊すことも、エレカシを作ることもできちゃうバンドなのよ。この日の4組の中では一番キャリアが長いはずなのに、全く新しいバンドのようにも見えちゃうのはそのせいか(改めて破壊と創造のレベルを再確認)。一番最初にやりたいってエレカシから申し出たんじゃないのかな~なんて私は思っちゃうんだけどね。ツアー、ドキドキ。

でも、1階で観たかったよぉ(涙)。でも、「あそこに落ちたら炎上しちゃうな」ってのは2階で観たからこそ感じられたことだし、3人の気迫を感じられたし(「風に吹かれて」のトミのドラムは最高じゃないか?)、良いっか。ツアーは1階だし。そういう意味でも、も一回。ツアー、ドキドキ。

(2) アナログフィッシュ
観るの楽しみにしてました(「最近気になるアーティスト【邦楽編】」参照)。ツイン・ヴォーカルの迫力が合唱団みたいだ(そこにドラムのコーラスが絡むと更に圧巻)。キャラが好対照で、兼ギターの下岡晃は大槻ケンヂ風(?)の妄想癖(失礼!)って感じで、兼ベースの佐々木健太郎は<ああ うるせー うるせー うるせーな>(「ラブホ」)って感じ(?)。どちらにも共通しているのはダダっこみたいってことか? それにしても曲の展開っていうか構成がとっ散らかってる。サビとかAメロとかそういうの、よく分かんないよ。ここからこういくか?って思っている間に、どこへいってんだか、ここがどこだか分かんなくなっちゃったって感じ。盛り上がってきたーってところで寸止めしてる感もあるし。ジラし屋のダダっこってわけですな。面白い。これからが楽しみだな~。

(3) ART-SCHOOL
真っ当なロックバンドだなぁと思った。どこが「引きこもりロック」なんだろう。いや、ヴォーカルの木下理樹が自分で言ってたから。「引きこもりロック代表」って。まぁ、それはシャレだとは思うんだけど、そのサウンドはぜんぜん引きこもりじゃないよなぁ。だとしたら損してない? ま、バンドとして表舞台に立っているんだから、引きこもりも何もないけど(笑)。それは十分本人が分かっているんでしょう。だからサウンドは引きこもってないし、真っ当なロックバンドなんだろう。マジメさが痛いほど伝わってきました。ただ、マジメすぎるんだよなぁ。マジメにマジメをやっている感じがする。音楽なんだからさぁ、バカにマジメをやったり、マジメにバカをやったりしても良いのになぁとか思ってしまうのは私だけ? つまり、イッちゃっても良いのに。なんちゃって。でも、イッてしまえない、そんなところがアートスクールの良さなのかも知れないね。

(4) GRAPEVINE
最後はバイン。私、観るの4回目くらいかな? この人(田中和将)は、なんでこんなにカッコつけて歌うんだろう。カッコつけ過ぎなの。それがキマり過ぎてんの。多分それ自分で分かってんの。それをときどき自分で茶化すかのように、「サンキュー! ソーマッチ!」とか「今日はみんな本当にどうもありがとう!」って異様なテンションで叫ぶのね。でも、とても楽しそうにカッコつけてくれるもんだから切なくも見えちゃったり。日本人流の黒いブルースを感じたよ。MCで「今日は隣(渋谷公会堂のこと?)で珍しいものを見た」とか言った後に(結局何を見たのかは話してくれませんでした)やった曲、シングル曲だと思うんだけど(「会いにいく」かな)、その曲、良かったなぁ、切なくて好きだなぁ。アンコール最後にやった「HEAD」はやっぱ好きだわ。ライヴ向き! 一回だけワンマンを観たことがあるのだけど、そのときもこの曲イイ!って思ったんだった。

しかし今日は、アスレチックからハチ公への精神的な移動(笑)が大変だったため、かつ、空腹のため、アートスクールの後半ぐらいから意識が朦朧としちゃってた。初めての2階席で慣れないから余計にそうなったのかな。そのため、この日記もかなり変なノリと勢いによって書かれています(よって長文…苦笑)。お許しください。


アジアンカンフー世代

2004-11-11 15:15:38 | 音楽
ここでせっかく名前を挙げたから、アジアン・カンフー・ジェネレーションの最新アルバム『ソルファ』を聴いてみた。

なるほど。
ZAZEN BOYSもくるりもACIDMANも、確かに凄いかも知れない。でも、自分にはできないだろうなぁとも思ってしまう。アジカンはどうだろう。ひょっとしたら自分にもできるかも!?

アジカンの曲だって、演奏しようと思ったら、きっと難しいのだろう。ギターなどろくに弾けない私ができるわけがない。もちろん、あんなポップな曲、私に作れるわけがない。でも、「自分にも何かできそう」、そう思わせてしまう。それが重要なのだろう。かつてのブリットポップがそうであったように。

歌詞を見てみると、<凡庸>とか<特別な才能を何ひとつ持たずとも>とか、そういうのが目立つ。やっぱり…。

自分にも何かできるかも!? それが音楽だろうと何だろうと。アジカンが人気あるのが分かった気がした。でも、そこからどうなっていくかは、もっと大事なんだろうなぁ。

だけど、みんな最初は『アジアンカンフー世代』だったのかも知れないよ!?

数回しか聴いていない、あくまでもサラ~ッと聴いた人の感想でした。