goo blog サービス終了のお知らせ 

sky is blue

言わなければよかったのに日記

Live To Tell

2007-03-11 15:17:17 | AYU
2007年、浜崎あゆみは、台北・香港・上海の海外公演を含むツアー『ASIA TOUR 2007 A ~Tour Of Secret~』で、「十字架にハリツケにされる」パフォーマンスを行った。

「十字架ハリツケ」といったら、2006年に行われたマドンナのツアー『Confessions Tour』でも大胆に取り入れられ、話題になったばっかりだ。私も、マドンナの東京公演を目撃しており、今回のあゆの「十字架ハリツケ」を観たときは、真っ先にそのことを思い出した。

どうして、あゆはこういうことをするのだろう。こんなことをすれば、また「パクリ」と言われるに決まっている。「言ってください」と言っているようなものだ。私は「パクリ」だなんて思わないけど、世間はそうもいかないだろう。あゆがマドンナを敬愛していることは十分に知っているつもりだが、どうしてここまでマドンナにこだわるのか。一体、この「執念深さ」は何なのか。私は、正直、「ここまでやらなくても良いじゃないか」と思ってしまった。

しかし、ここまでくれば、認めざるを得ないだろう。これは、単なる「パクリ」で済まされるようなことでは、決してないと。そんな言葉では済まされない「何か」がある。それは、前から分かっていた。私はそれを「リスペクト」という言葉で捉えようとしていたのかも知れない。しかし、今回はそれさえも揺るがしてきた。「パクリ」どころか、「リスペクト」でも済まされない「何か」がそこにはあった。

これまで、こういうことがある度に、私は思っていた。あゆは「分かっててやっている」と。それは、話題作りでも何でもなく、「自分がそれに影響されている」ということを分かった上でやっているということだ。しかし、今回ばかりは、私も戸惑ってしまった。「もしかして、あゆは、本当に何も考えていないだけなのか?」と。そのくらい、衝撃的で大胆なことだった。

しかし、思い出して欲しい。あゆは、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』(2005年12月30日~31日)で、既に、「十字架ハリツケ」を行っているのだ。前の記事で書いたように、あゆは、同じことを繰り返すのを嫌うアーティストだ。にも関わらず、敢えて、再び同じことをやったのだ。(だから、私は、マドンナの「十字架ハリツケ」を観たときは、あゆのそれを思い出していた。あ、そうだ、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』では、開演前にずっとマドンナがかかっていたなぁ)

『ViVi』で連載されている「浜崎あゆみのデジデジ日記」に写真付きで掲載されたところによると、あゆ自身、マドンナの『Confessions Tour』をマイアミで2回観ているとのことだ。当然、「十字架ハリツケ」のシーンだって観ただろうし、あゆも、自身がカウントダウンライヴで行った「十字架ハリツケ」を思ったに違いない。そして、自身との「決定的な違い」を思い知ったに違いないのだ。そうでなくても、世間の反応が嫌でもそれを教えたはず。

マドンナが行った「十字架ハリツケ」は、世界中の宗教団体から非難を浴びた。ローマ公演の際は、「神への冒涜に近い」など、公演前から非難の声が続出する中、それは決行された。特殊部隊や警察官約7000人が動員されたという。マドンナは、「エイズ撲滅の慈善事業への寄付を観客から募るため」と反論し、実際にスクリーンには貧困に苦しむ人々の映像などが流された。このことは大きな話題になり、日本にもニュースで伝わってきた。マドンナの世界的な影響力の大きさを証明するような出来事だった。

一方、あゆの場合は、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』のときも、『ASIA TOUR 2007 A』のときも、そういう話題にはならないし、そのようなバッシングも起きない。それは、知名度の違いや開催地の宗教的な背景の違いもあるだろうが、何よりも、あゆには、マドンナのように、宗教的な背景や必然性、政治的なメッセージ性があるわけではなかったからだ。彼女の中にどのような思惑があったにせよ、世間にとっての「浜崎あゆみ」はそうだった。

マドンナは、今回に限らず、「ライク・ア・プレイヤー」(1989年)のプロモでも十字架を燃やす演出をしたり、また、自身もカバラの信仰に傾倒するなど、宗教的な結び付きが深い。それは、そんなことを詳しく知らなくても、あの圧倒的なパフォーマンスから十分に伝わってくるものだった。一方、あゆのパフォーマンスからは、そういった深い結び付きを感じ取るのには無理があった。過去に「M」のような曲を出してはいるものの、やはり、あゆの「十字架ハリツケ」は、あくまでも演出の一つであり、エンタテインメントに過ぎなかった。

そして、重要なのは、そういった「決定的な違い」を、誰よりもあゆ自身が思い知ったに違いないということだ。だって、そうでしょ。形式的には同じことをやっているのに、その意義や世間の反応も全くもって違うということを、実際に自分の目で、目の当たりにしたのだから。私は、マドンナのライヴを体験して、あゆがマドンナから影響を受けていることを強く実感しながらも、「マドンナとあゆ、全然違うじゃん!」とも感じた。実は、それを最も痛感したのが、この「十字架ハリツケ」のシーンだったのだ。全く同じことをやっていながら、全くもって違っていた。私は、あのときの感覚を忘れない。私でさえそうだったのだから、本人がそれを体感するというのは、どれほどのものだったのだろう。

そして、私は強く思った。「自分はマドンナにはなれない」ということを、誰よりも深く分かっているのは、「あゆ」なんだと。

だから私は、ここまでやらなくったって、あゆはあゆなんだから、自分の表現をすれば良いのにと思った。あゆがマドンナから影響を受けていることは、もう十分に分かったから、後は自分の表現をしてくれれば良いと。もちろん、あれだって自分の表現ではあったが、そんな誤解を招きやすいようなことをしなくったって良いじゃないかと。しかし、そうではなかった。

確かに、マドンナとは違い、あゆの「十字架ハリツケ」は、単なる演出であり、カッコ良いからといってする十字架のネックレスみたいな感覚で、政治的なメッセージもなく、ただのエンタテインメントにしか過ぎなかったのかも知れない。けれど、あゆは、それに「誇り」を持ってやっているのだ。私は、そんな大事なことも見落としかけていた。

あゆは、何もかもを分かった上で、2007年に再び「十字架ハリツケ」を決行した。何もかもを分かっているからこそ、やれたのだし、やる必要があったのだ。何故なら、あゆは「浜崎あゆみ」に誇りを持っている。自分がやっていることを、自分自身に証明するためにやる必要があったのだ。「決定的な違い」を突き付けられても尚、自分の表現の中にある「真実」を証明するために。そんなことは自分の心の中にだけあれば良いのかも知れない。けれど、そうはいかない。何故なら、あゆは、「大衆音楽家」なのだから。

あゆが自分自身に証明するということは、それを大衆にも証明するということなのだ。だから、あゆは、あれを決行した。私はそう思う。そういう意味では、マドンナにもあゆにも「必然性」はあった。

そして、そんなことができたのは、彼女が、誰かと同じことをしても「自分がやれば違うものになる」という確信があったからなのだろう。でなければ、あんなことは怖くてできやしない。もし、あゆが「ものまね芸人」にしか過ぎないのなら、「上っ面だけをなぞるだけの人」なら、こんなことはできなかったはずだ。

そして、話が飛躍してしまうが、あゆのスゴイところは、それがしっかりと「洋楽への批評」になっているところなのだ。少なくとも私はそう思っている。それこそが、あゆが「他の人と違う!」と思っている点でもある。

ただし、あゆが、そこまで考えてやっているかどうかは、私にはちょっとよく分からない。もしかしたら、あゆにしてみれば、「自分にしかできない表現」を追及している結果、そうなっているだけなのかも知れない。しかし、意識・無意識は別にしても、そんなに都合良く「偶然」が続くとは思えない。少なくとも、「リスペクト」の名のもとに、「愛」を売り物にしたり隠れ蓑にしたりはしていないだろうなぁ。

余談になってしまうかも知れないが、今回のことで、マドンナの『コンフェッションズ・ツアー・ライヴ』のDVDをじっくりと観てみた。やはり最初は、その「決定的な違い」を見せ付けられ、愕然としてしまった。しかし、ショーが進んでいくにつれ、イキイキと輝いてくるマドンナの表情の、その笑顔は、たぶん、あゆのそれと「同じ意味」を持っていた。


ASIA TOUR 2007 A ~さいたま~

2007-03-10 15:16:24 | AYU
2007年3月10日、さいたま公演を皮切りに、浜崎あゆみの『ASIA TOUR 2007 A ~Tour Of Secret~』がスタートした。で、3月10日と11日のさいたまスーパーアリーナ公演に行ってきましたよ! 「2日連続」であゆのライヴに行くのは初めて。その2日間を「さいたま公演」として、1つの記事に書きたいと思います。

今回のツアー、特に思ったのが、どんどんシンプルになってきているということ。それは、演出が派手じゃなくなったとかではなくて、より「な~んも考えないで楽しめる」ものになっているということだ。かなりエンタテインメント性が高い。前までは、そこに込められたメッセージ性や物語性が全体を支配している感じが強かったが、最近は、そういったメッセージ性や物語性をことさら主張しなくても、自然とそれがにじみ出ているといった感じ。ここまでエンタテインメントに徹するライヴをやれたのは、自信の表れだと思うし、それだけ彼女の表現が「余計な説明」を必要としなくなってきているということだろう。なんだかとても吹っ切れているように見えた。

選曲は、やはり、今回初めて、台北・香港・上海という海外公演を含むアジアツアーというだけあって、それを意識したであろう曲も選ばれていた。『A BEST 2』の影響もあるだろう。特に、「M」や「appears」が聴けたのは嬉しかった! しかし、聴かせるポイントには、最新アルバム『Secret』の曲と新曲「part of Me」が配され、しっかりと「現在の浜崎あゆみ」を伝えていた。

つくづく思ったが、あゆは、同じことを繰り返すのを嫌うアーティストだなぁ。本来ならば、「~Tour Of Secret~」ということで、オープニングSEは「Not yet」がふさわしいとも思えるが、この前のカウントダウンライヴでやってしまったからか、それは使わず、それどころか、「BLUE BIRD」や「Beautiful Fighters」といったシングル曲でさえも、これまたカウントダウンライヴでやったからか、歌わなかった。考えてみれば、「Startin'」や「Born To Be...」だって、『Secret』の曲なのだ。それなのに、それらは前回のツアーで取り上げてしまったためなのか、今回はやらない。つくづく「現在(いま)」にこだわる人だなぁ。それは、リリースとライヴにも時差が出てしまうほどだ。
(今回は時間が短かったような気もしたので、海外公演における演奏時間との兼ね合いでそうなったのもあるかも知れない)

そんなあゆが、わざわざ同じことを繰り返した場面があった。それは、「kiss o' kill」でのこと。間奏で瞬間移動してみせるというイリュージョンを披露し、その後、「十字架にハリツケ」にされたのだ。「十字架ハリツケ」は、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』のときにも既にやっていたことだった(そのときの曲は「Endless sorrow」)。それだけに、この「十字架ハリツケ」には、特別な意味が込められていることを感じた(それについては「Live To Tell」参照)。

演出が、色々な国を思わせ、多国籍・多文化な感覚に溢れていた。友達の指摘で気付いたのだが、「part of Me」~「Secret」のときに着物を着ていて、おそらくカツラを被っていたのだが、「カツラまで金髪かよ!」ということらしい(笑)。確かに…。私もそのときは、着物で金髪という姿を観て、「ナニジンだよ!」と心の中でツッコミを入れていた。前までは、そういう風に色々な国の文化を取り入れ、一体ナニジンだよ!というところこそが「ニッポンジンだ!」と捉えていたのだが、なんだかもう、それすら超えていたよ。あゆは、「日本的」を超えたってことだ。そう、あゆは「超日本的」!

こんな風に、「何でもあり」ってことをやると、「節操のなさ」や「借り物感」ばかりが目立ってしまい、「一体、この人は何がやりたいんだ?」ということになりかねない。しかし、あゆの場合、何でもありでありながら、どこまでいってもそれは「浜崎あゆみ」であり、「浜崎あゆみ」でしかありえない。これを「オリジナル」と言わないで、何を「オリジナル」と言おうか! だからこそ、こちらも気持ち良くツッコミを入れられるし、それは結局、賛辞の言葉になってしまう。

あゆ曰く、今回のテーマは、「ASIA IS ONE!!」。構想を練るにあたって、各国のルールの違いなどに苦戦したらしいが、「分けちゃったら話にならない」と。「同じステージで、同じセットリストで、同じ演出で見てもらうことが大事だと思ってる」と語っていた。こういうあゆの考え方が、好きなんだよなぁ。だから、“日本とアジア”という風には分けないで、“日本もアジア”ということで、基本的には同じステージとのこと。もちろん、あゆは、「郷に入っては郷に従う」ところも大事にしているけれど、そういう中でもブレないところが、あゆがあゆたる所以なのさ。「ASIA IS ONE!!」、伝わっていくと良いなぁ。

そして、今回、要注目のツボ!
それは、「kiss o' kill」の後だったか。衣装チェンジに入り、合間に映像が流れたのだが、この映像がすごかった! もう、なんて表現したら良いのやら…。呆然と立ち尽くしてしまったよ私は。言葉で説明したって伝わらないかも知れないけど、あゆは、自分のあの大きな瞳をふんだんに使って、万華鏡を作り出してみせたのだ。

やっぱり、あゆは変態だ!

ここまで自分のことを切り刻んでみせる人は、なかなか他に思い当たらないよ。一体、何なんだよ、これは! 一体、どういう思考回路してるんだよ、この人は! すみません、お腹抱えて笑ってしまいました。こんなところで笑ってしまうのは私ぐらいかも知れませんが。でも、友達も爆笑してたよ。

そして、思ったね。やっぱり、他の人とは違うなって。とにかく、ぶっ飛んでいたんだよ。自己プロデュース能力があって、かつ、ぶっ飛んだ変人って、、、

やっぱり、あゆは最強だ!

「kiss o' kill」の「十字架ハリツケ」で、色々な意味で衝撃を受けていたら、その次にはもうこれでしょ。まるで、あざ笑うかのようにさ~。

ここで「さいたま公演」ならではの話を書いておくと、1日目は初日だけあって、あゆの素の部分というか、ポロリと出てしまったかのような本音に触れられたのが良かった。今回は初のアジアツアーということで、色々思うところがあるのだろう。まだツアーは始まったばかり、初日だというのに、最後の方、泣きそうに見えて、最後の最後にこう言ったのだ。

「初日が皆で良かった」

泣かせることを…。あゆも、ポロリと本音が出てしまったというか、こんなあゆは珍しいような。貴重な瞬間を共にむかえることができて、私も嬉しいよ。

なんでも、初日はあゆ、自分一人で車を運転して会場に来たらしい。皆が信じられないという表情をしていると、「言っておくけど、ゴールド免許だから!」とあゆ(笑)。「あまり運転しないからってのもあるんだけどね」とは言っていたけど。あゆ、かわいい…。trfを聴きながら一人でノリノリで来たらしい。しかし、さいたまスーパーアリーナの駐車場に入る直前、入り待ちしているファンがいたから、運転しながら窓を自分で開けて、手を振って応えていたら、やってしまったらしい。車を会場にぶつけてしまったとのことだ(笑)。カッコ良く颯爽と決めたはずなのに、これだよ(笑)。結構凹んだらしい。あゆ、気を付けてね!

一方、2日目は、色々な気持ちを切り替えたのか、初日のように本音が出てしまうという感じはなく、バシッと決めていた。初日は、「SEASONS」あたりで、声が不安定に聴こえたのだが、2日目は初日よりも安定していたし、よく出ていた。

そして、驚いたことがあった。2日目は、私は4階のスタンド席で、立ってはいけない席だったので着席していたのですが、にも関わらず、そう、あれは確か「Humming 7/4」のとき、地震か?ってくらい席が揺れたんですよ。もちろん地震ではありません。お客さんが揺れていたんです。4階のスタンド席ですよ? あゆは、こんなところまで揺らしてしまうのかと思って、とんでもないなと思いました。もうそれだけで、十分すごいことじゃないですか。

これは初日のことですけど、私の位置的に、あゆが花道を進んでいくと、彼女の背中を見る形になったんですね。彼女の背中とその前に広がるたくさんのお客さん。あの光景はすごかったなぁ。一瞬だけど、あゆが見ている光景を体験したってことですよ。ずっと前に、大貫妙子、奥田民生、鈴木慶一、宮沢和史、矢野顕子らが出演した『Beautiful Songs』っていうコンサートをTVで見たんだけど、そのときに、その中の誰かが、「アーティストの背中を見ながら歌を聴けるっていうのは贅沢。その人の向き合い方とか、背中に全部出る」みたいなことを言ってて、ああ、こういうことなんだなぁって思った。歌ってるあゆの背中を見る機会があったら、あゆだけじゃなく、お客さんとか色々、全体を見てみて、色々感じてみるのも良いと思う。

では、SEがちょっと自信ないんだけど、セットリストを。

*** セットリスト ***

SE. LABYRINTH
01. evolution
02. UNITE!
SE. taskinst (映像)
03. 1 LOVE
04. until that Day...
05. M
06. appears
07. part of Me
08. Secret
09. kiss o' kill
SE. Not yet (映像)
10. SURREAL
11. AUDIENCE
12. Boys & Girls

13. JEWEL
14. SEASONS (アコースティック)
(MC)
15. flower garden
16. Humming 7/4
17. Who...

あゆ、自信を持って、アジアへ羽ばたけ!


Documentary of COUNTDOWN LIVE 2006-2007 A

2007-03-09 01:25:25 | AYU
『A BEST 2 -BLACK-』のDVDには、『BEST of COUNTDOWN LIVE 2006-2007 A』の完成までの軌跡を追ったドキュメンタリー映像が収録されている。私はそれを観て、確信したことがある。

「浜崎あゆみ」の一番の批評家でありファンは、「あゆ」だ。

これ、こうして書いてみても、「へぇ、そうなんだ」って感じかも知れないけど、私はちょっと、呆気にとられてしまったよ。

だって、一番、汗かいて、走り回って、笑って、怒って、悩んで、考えて、興奮して、感動してるのは、「あゆ」なんだもん。「何なんだこの人は!?」って思っちゃったよ。

私が一番好きなシーンに、「あゆの役を違う人がやって、会場で本番と同じように通しでリハーサルをやり、それをあゆが客席から確認する」ってのがあるんだけど(あゆ本人がやる通しリハーサルもありますよもちろん)、もうね、「ただのファン」なんだもん。ってか、「ただの無邪気な子供」じゃん! あんな「純粋無垢」な顔、私は見たことがありません。あゆは、「デビューしたばかりの新人さん」か!? グッと真剣に見ていたかと思えば、いきなり走り出して、色んな位置から確認し、ノリノリで見ていたかと思えば、いつの間にか感動して涙ぐんでるし。おいおい、この人、泣いてるよ! 自分のライヴだよ? まだリハーサルだよ? なのに、一番ノリノリなの。

そして、演奏やアレンジなどのサウンド面、ダンスの振り付け、衣装や演出など、すべてにおいて、もちろん人に任せるところは任せているけれども、誰よりも厳しい。名台詞、飛び出しまくりですよ。でも、絶妙なところで笑いをとって和ませたりして、ああ、あゆってば……。そんでもって、関わる人のことを一人一人ホントによく見てるんだよなぁ。「この中の誰か一人でも欠けていたらできなかったと思います」と、あゆはよく言うけれども、これって、嘘じゃないんだなぁ。あゆは、とんでもなく厳しいけど、でも、とんでもなく優しいんだなぁ。

歌うわ踊るわの身振り手振りぶりには、結構驚いたな~。私の中で勝手に、あゆは「頭で考える」ってイメージが強かったから、意外に「肉体派」っていうか「感覚派」っていうか、物凄い「瞬発力」。やっぱ、体に沁み込んでるもんがあるんだろうね。それは、相当のもんだと思う。色んな場数を踏んでるもんなぁ。

もう本当にね、「ドキュメンタリー」であっても、一つの「ショー」を観ているようでした。だから、つまり、こういうことなのではないだろうかと。

「浜崎あゆみが動いている」というだけで、「ショー」になり得る。

「いやいや、何をおっしゃいますやら」って笑い出す人もいるかも知れませんが、実は、このカウントダウンライヴのときにも思ったんだよね。花道をあゆがダーッと走る。たったそれだけのことで、もう客席は、ワー!キャー!あゆぅー!なんですよ。「走っている」だけですよ? 衣装だって、そのときは、ただの「TシャツGパン」ですよ。あゆのライヴは、衣装も演出も色々と凄いですが、結局は、「あゆが走るだけで大歓声」なんですよ。会場にいるのはファンだらけなんだから当たり前だっておっしゃる方もいるかも知れませんが、このような光景、私は滅多に遭遇しません。(前に、菊地成孔さんが言っていた「ボディが持つメッセージ性」ってのは、このことなのかなぁ)

あるライヴで、その人が動いているだけで観客が熱狂しているってことで、「人力がすべてに勝っている!」と評していた人がいたけど、まさにそれかも知れないなぁ。

えっと、話を戻すと、こういう「制作現場を追ったドキュメンタリー」って、「こんなに苦労して作ってるんです!」とか「作っていく過程を見せてクリエイティヴィティをアピール!」とか、妙に鼻につく感じになってしまって、ワザとらしかったり嫌味っぽくなってしまったりすることもあると思うんだけど、これはもうなんか、変な言い方だけど、「自然」に感じられちゃったんだよなぁ。「これが舞台裏です!特別に見せちゃいます!」って感じもなければ、作られた感もない。あきらかに非日常であるはずなのに、日常的にすら感じられてしまう。

私はそれを不思議に思っていたのだけど、やっと分かってきた。それはきっと、「浜崎あゆみが動いているだけでショーになり得てしまう」からなのだ。だから、ワザとらしくないし、作られた感じもしない。だって、表も裏もなく、すべてが「ショー」なのだから。

******

カウントダウンライヴが行われた2006年12月31日、あゆは『紅白歌合戦』に出演した。前日の30日もライヴで、当日もリハーサルの合間を縫っての出演だ。私はTVで鑑賞していたのだが、「あゆ、喉辛そうだな」と思って観ていた。後日、視聴率のグラフを見たが、あゆは、「倖田來未」や「ドリカム」、「SMAP」に負けていた。

あゆは、今さら新しいファンを獲得しなくったって、従来からのファンだけで、もう十分にやっていけるのかも知れない。『紅白』にだって、出る必要もないのかも知れない。

でも、あゆは、『紅白』で、カウントダウンライヴでも歌わなかった「JEWEL」をわざわざ歌い、しかも、カウントダウンライヴ以上とも言える、気合の入った衣装やらネイルやらで登場した。私、登場した瞬間、吹き出しちゃったもん。更に、同日放送された『CDTV』の特番では、あゆは、まだどこでも披露していない「1 LOVE」を初披露してのけたのだった。

私は、『CDTV』を見逃してしまった。ごめん、あゆ。私は、何かを見落としていたよ。

何故、あゆは、『紅白歌合戦』で、カウントダウンライヴでも歌わなかった「JEWEL」を歌ったのか。
何故、カウントダウンライヴ以上とも言える、気合の入りまくった衣装&ネイルで出てきたのか。
何故、『CDTV』で、どこでも披露していない「1 LOVE」をやったのか。

あゆは、視聴率では、倖田來未やドリカムに負けた。
それが、「現実」なのだろう。
しかし、それだけでは見えない、「真実」というのもある。

かつて、<真実と現実の全てから目を反らさずに>と歌っていた彼女は、そのときから何も変わっていない。そこで戦い続ける彼女だからこそ、私は惹かれたのではなかったか。

今回のベスト、『A BEST 2』でも、あゆは私に色々なことを教えてくれた。

そして、『ASIA TOUR 2007 A ~Tour Of Secret~』へと続いていく。


A BEST 2 が描き出した物語

2007-03-08 23:31:48 | AYU
そして、『A BEST 2 -BLACK-』と『A BEST 2 -WHITE-』が発売された。発売日当日には『めざましテレビ』などの6番組に本人自ら生出演して“電波ジャック”するほどの気合の入りようだった。

今回のベストで、まず最初に驚いたのは、「形態」だった。第一に、「BLACK」と「WHITE」という2種類に分かれている点。第二に、「DVD付き」には、「収録曲のプロモクリップ集」と「『BEST of COUNTDOWN LIVE 2006-2007 A』の完成までの軌跡を追ったドキュメンタリー映像(BLACK)/同ライヴの模様(WHITE)」の2枚のDVDがそれぞれ付く点。

2種類に分けられているのは、単純に曲数が多いから1枚に入らないという理由もあるだろうが、そこで2枚組にするのではなく、1枚ずつにパッケージを分け、更に、時代順で分けるのではなく、「BLACK」と「WHITE」という「作品の色」による分け方が選ばれている。「CDのみ」と「DVD付き」を出すのはエイベックスお得意の方法ではあるが、そこに、カウントダウンライヴ関連の映像まで付けるとは……。

私は、この形態に不満を感じた。ベストというのは、ファンじゃない人も手に取りやすい形にすべきだと思うから、 1種類にまとめた方が良いと思うし、「BLACK」と「WHITE」という分け方も、時代順による分け方よりも混乱すると思ったから。DVDを2枚も付けるというやり方も、商品価値を下げてしまうような気がしてイヤだった。まぁ、こういうことに正解はないのだろうし、CDが売れなくなったり音楽配信が登場したりしたから、レコード会社も試行錯誤し、混乱しているのだろう。

しかし、DVDに収録されているライヴからして『BEST of ~』と銘打たれている点やその内容を考えてみるに、もっと積極的な方向で今回の形態にしたのではないかと思えてきた。そして、これらの作品を鑑賞しているうちに、分かってきた。

あゆは、楽曲、PV、ライヴ、ライヴ(作品)を作っていく過程に至るまで、すべてを含めて「浜崎あゆみ」なのだと、すべてが「浜崎あゆみの表現」なのだと、そう言いたかったのではないだろうか。

CDだけでは売れなくなったとか、ファンは全曲持ってるからライヴ映像も付けないと売れないとか、そんな消極的な理由ではないのだ。や、仮にそんな理由があったとしても、それだけの理由であんなライヴをするまでしないと思うし、何よりも作品がそれを凌駕している。そうでなければ、これらの作品が持っている「説得力」が説明つかない。(ま、それでも、同じPVを何回買わせるんだ!とは思いますけどね…苦笑)

分かりやすく時代順で分けるのではなく、「BLACK」と「WHITE」という「作品に新たな意味を与える」分け方をしたのも、「過去の寄せ集め」であるベストであっても、これも「現在進行形の表現」なんだという意思表示を感じる。実際、時代順に分けるよりもズッと手間のかかるやり方だろう。

そして、このやり方が、確かに新しい「物語」を紡いでいることに、私は驚いてしまった。

曲順は、発売順ではなく、時代としてはバラバラに並べられているのだけど、曲目を見ただけの時点では、私はそのことに不安を覚えたんだ。以前の記事で、「あゆの曲は、まだ『浜崎あゆみ』の手を離れられないでいる」などと書いたが、つまり、あゆの曲は、「浜崎あゆみの物語」なくしては成立しないところがあるのではないかと感じていたので、時代をバラバラにしてしまうと、その「物語性」が崩れてしまって、作品としての魅力に乏しくなってしまうのではないかと思ったからだ。要は、あゆのことを、作品だけで物語を描くところまではいっていないと思っていたわけだが、それが見事に覆されてしまった。

『WHITE』は、「evolution」で始まり、「A Song is born」で終わる。「evolution」は、「M」の次のシングルだし、始まりにピッタリの曲である。で、聴き進めていくうちに、時代がバラバラでありながら、ずっと繋がっている「流れ」を感じることに私は驚き、「Humming 7/4」から「UNITE!」への流れなどには、初めて聴くような印象を受け、興奮してしまった。そして、「A Song is born」になって、ハッと気付かされた。「evolution」で、まるで産声を上げるように、<この地球(ホシ)に生まれついた日>~<こんな時代(トキ)に生まれついたよ>と歌い始まったこの旅が終わる頃には、「A Song is born」で<僕らの地球(ホシ)のあるべき姿>や<泣きながらも生まれついた>ことを<もう一度だけ思い出して>と歌っているのだ。

『BLACK』は、「Dearest」で始まる。サビで<いつか永遠の眠りにつく日まで>と歌われ、『WHITE』の冒頭「evolution」とは対照的に、終わり(永遠の眠りにつく日)を感じさせるものではあるが、終わりがあることを踏まえた上での“始まり”と言った方がしっくりくるだろう。「HANABI」なんか、オリジナルアルバムのときとはまた違って聴こえてくるから不思議だ。そして、ラスト3曲(正確には4曲だが)。「NEVER EVER」で、<もしも君に差し出せるモノがあるとすれば>と繰り返し歌われた後に、「HEAVEN」がきたとき、私は、ヤラレタ~と思ってしまった。<最期に君が微笑んで 真っすぐに差し出したものは>と始まるこの曲は、今回この位置に入れるためにあったかのように響いてきた。彼女は、6年前からこのことを知っていたのか?? まるで、「NEVER EVER」の主人公を見守るかのように…。「HEAVEN」は、愛する人に先立たれた、言わば“死=永遠の眠り”を歌った曲でもあり、「Dearest」とも繋がっている。

『WHITE』『BLACK』ともに、時代がバラバラでありながら(つまり、浜崎あゆみの物語から切り離されていながら)、ちゃんと「物語」を描いているではないか! そして、この「物語」は、ここで終わらない。

そう。「HEAVEN」の後には、新曲「part of Me」が収録されている。“死”を歌った「HEAVEN」の後に配され、<生まれるずっと前>から<僕達は生まれ変わったら>と歌うこの曲のテーマは、“生まれ変わり”とも言えるだろう。あゆ自身、最新作『Secret』の裏タイトルを「Reborn」と言っていたし、今、彼女の中で何かが“生まれ変わり”つつあるに違いない。
(更にこの後、シークレットトラックがあるのだが)

と、最初から最後まで、見事な「繋がり」である。何度も書いてしまうが、あゆの楽曲が、時代をバラバラにしても、ここまでの「物語」を描けるとは、正直驚いてしまった。更に言えば、『A BEST』で「何かが生まれようとしている」ところで終わっていると書いたが、そこからもちゃんと繋がっている。ホント驚いてばっかだが、ここまで「つじつまが合っている」ことに、私は驚きを隠せません。それだけあゆの表現に、「一貫性(芯)」があるということなんだろうなぁ。その場しのぎのことをやっていたら、こんな物語は描けないはず。

更に、今回のベストは、「全曲リマスタリング」されています。マスタリング・エンジニアが、ブライアン・“ビッグ・ベース”・ガードナーとのことで、私は知らなかったのだが、エミネム、クリスティーナ・アギレラ、ナイン・インチ・ネイルズ、浜田省吾、HYDE等を手がける人らしい。そのリマスタリングの影響なのか、改めてサウンドの魅力に気付かされたりもした。やはり、あゆは、様々なサウンドのスタイルに挑戦しているよ。また、そのアプローチの仕方も、尖っているというか、先鋭的なものだったりする。「ジャンルなんて関係ない!」とか「ジャンルの壁を壊す!」とか言って、実際にどれだけの人がそれを実現できているのか。あゆは、色々なスタイルに挑戦しながらも、結局は、「J-POPとしか言い様のないサウンド」になっていると思うのだが、それは逆に、本当の意味で「ジャンルレスな音楽」をやっているからではないのか。日本人にとっては「J-POP」こそが、「ジャンルレス」な音楽ではないのか? ま、いーや。

そしてまた、どの曲も「古くさく」感じなかった。嬉しいよ。私はホントに嬉しいよ。

そんでまた、今回のベストは、心と体が一体となったって感じがするんだよね。自己表現と音楽が結び付いたっていうかね。そんなパワーやエネルギーが伝わってきたから。

って、こんなにも長くなってしまったよ!

『A BEST 2』については、もうちょっとだけ書きたいと思います。


Not yet

2007-03-07 23:15:53 | AYU
2007年2月28日、浜崎あゆみは、第2弾となるベストアルバム、『A BEST 2 -BLACK-』と『A BEST 2 -WHITE-』をリリースした。

今回のベストは、カウントダウンライヴで発売を知ったときから、私には、「来るべくして来た」という印象があった。オリジナルアルバムでは前々作に当たる『MY STORY』(2004/12/15)のときから、自身の道を振り返るような作品という意味で「ベストアルバムのような内容だなぁ」と感じていたし、ここで、「『A BEST』以降の活動をまとめる」という作業を彼女自身が欲したというか、必要だったんじゃないかと思ったからだ。当然、レコード会社からの云々というのもあったのだろうが、今回のベストには、自然な成り行きというか、「必然性」を感じた。

そして私は、ワクワクした。

思えば、最初のベスト『A BEST』(2001/3/28)の頃のあゆは、「浜崎あゆみをやってる自分を恥じてた」とか「(自分のことを)音楽の“お”の字も、今も分かってない」とか「(ミリオンいった「M」のことを)あんなに売れちゃいけないと思ってた」とか、とてもじゃないけどベストを出す人の言葉とは思えない「ネガティヴ」な発言をしていた。自分のことを「洋楽邦楽問わず、全然知識とかがない」とまで言い切った彼女は、きっと、他の誰が指摘するよりも先に、自分に「音楽的コンプレックス」を感じていたのだと思う。だって、あの頃の彼女といったら、街を歩けば必ず一回は「浜崎あゆみ」の曲なりポスターなりを見聞きするほどの社会現象になっていたのだから。当然、ポップ・アイコンとして、物凄い勢いで分析され、批評され、宇多田ヒカルから椎名林檎、鈴木あみ、Cocco、モーニング娘。など、ありとあらゆるものと比較されまくっていたし、シーンの最前線にいれば、ありとあらゆる「現実」を嫌でも突き付けられるのだから。

『A BEST』には、初めて自身で作曲したという「M」までが収録されている。私は後追いで『A BEST』を聴いたのだが、それでも分かるくらいに、この「M」だけが居心地悪そうに入っているのが印象的だった。後追いで聴いた私でさえも分かるくらいに、「M」を聴いて、「何かが生まれようとしている」というのを感じたのだ。つまり、前回のベスト『A BEST』は、何かが生まれようとしているところで終わっているのです。

「音楽の“お”の字も分かってない」と自覚したところから、あゆの中で何かが始まったのだと思う。そして私は、そこからスタートしているからこそ、彼女を信じてみたいと思ったのです。

今や彼女は、「私から歌を取り上げたら何も残らない」とまで言っている。「音楽の“お”の字も分かってない」から、「Music is everything!」とまで言えるようになるまでのあゆの道のりが、『A BEST 2 -BLACK-』『A BEST 2 -WHITE-』には詰まっているはずだ。そしてそれは、私がこのブログで書いてきたようなこととも繋がっているのではないかな~なんて。

君は見つけるかな ここにある秘密を
君は信じるかな ここにある奇跡を


とにかく私は、ワクワクした。