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スケッチ貯金箱

日々描いたマンガやスケッチ、似顔絵などを貯めていく貯金箱のようなブログ。

昔描いた絵(「山椒大夫」)

2014-02-08 16:22:04 | Weblog
今週は公私共に色々な事があり過ぎて、新しい絵を描く気が起きない。
そこで、今までやったことはないけれど、昔の絵を引っ張り出してアップしてみた。
以前別の名前でやっていたブログで使った絵である。
これは日本映画の名監督、溝口健二の作品「山椒大夫」のワンシーンのスケッチである。
女優は名女優、田中絹代。
有名な映画(小説も)だから、いまさら説明でもないだろうが、要するにこれは「人買いに売り飛ばされた、高貴な母子の物語」である。
時は平安時代、国司という位にあった父親が、民人への慈悲心ゆえに鎮守府将軍の命に背き、流罪となる。残された母親と、その子ら(兄と妹。小説では姉と弟)は、岩城の実家に身を寄せようとする旅の途中、人買いにだまされて母は佐渡へ、子らは丹後(山椒大夫の支配する荘園)へと売り飛ばされる。
悲惨な話が続く。その中でも、遊女に身を落とした母が逃げようとして捕まって足の筋を切られてしまい、新潟を見はるかす断崖の上で烈風に身をさらしながら、杖にすがりつつ、「安寿、厨子王。」と呻くように叫ぶシーンは、その痛切さと画面の格調高さ・美しさにおいて比類ない。イラストはそのスケッチである。
田中絹代さんはサイレント時代からの大スターであるが、その彼女が溝口健二という凄まじい気迫の監督にしぼり上げられながら演じたこの映画は、私にとって忘れられない名作である。その台詞の一つ一つの、練り上げられた品位の高さ。冷たく突き放すようでいて、決して登場人物を見放さない仏の慈悲のようなものを感じさせるカメラアイ。そして俳優陣の渾身の(大仰な、という意味ではない)演技。是非とも見ていただきたい映画である。
ラストシーンは大変有名だが、見ていない人のためにも詳細は述べない。

というわけで、今日は懐かしの一枚を取り上げた次第。

本を出版いたします。

2014-01-13 17:32:35 | Weblog
 1月17日に単行本を出版いたします。
 タイトルは『その日本語、ヨロシイですか?』(井上孝夫 新潮社)です。
 価格は1200円(税別)、224ページです。
 実は私、校閲を38年間やっています。校閲や日本語にまつわるいろいろな話を書きました。ストーリーマンガや4コママンガ、イラストやクイズもふんだんに盛り込んで、楽しい本に仕上げられたと思っております。よろしければ書店で手に取ってくだされば幸いです。
 自分ではこういう、文章も絵も一人で執筆するジャンルを「一人絵草子(ひとりえぞうし)」と勝手に呼んでいます。
 本は実名ですが、このブログでは「貯金箱@」で通しますのでよろしくお願いいたします。
別のブログ「言語のある生活」もやっています。こちらは言語にまつわるもので、ほぼ文字だけのブログです。
 仕事が別にありますので、どちらも更新はゆっくりですが、ご了承ください。

化石化した酔っ払い

2013-12-15 23:41:00 | Weblog

忘年会シーズンで、酔っ払いも増える季節である。
先日、鉄道のポスターに「ホームから転落しないよう、飲みすぎには注意」といった趣旨のポスターがあり、その中で酔っ払いのオジサンがホームから落ちそうになっている、というイラスト(というより粘土細工の人形を撮影したものか)で、大略この図のような姿で示されていた。
しかし今時こんな酔っ払いがいる筈もない。昭和の時代からイメージが化石化しているとしか思えない。
特に、必ず酔っ払いがぶら下げていることになっているあの「おみやげらしき四角い包み」の中身は何なのだろう。
私はシュウマイではないか、と睨んでいるのだが、もしかすると餃子かもしれない。決しておしゃれなケーキではないだろう。そうだったら帰るまでに確実に潰れる。
しかし泥酔した親父が持ち帰ったシュウマイや餃子を家族が喜んで食べるとも思われない(そもそもそ帰宅時には夕飯はとっくに済んでいるだろう)。
さらに、酔っ払いが出す声の定番として、「ウイ〜」というのも以前はよく目にしたが、そんなこと言っている酔漢を見たことはない。
公共の安上がりに作ったポスターなどには、このような「化石化したイメージ」というのが時折見られる。見た人が全員、「俺はこんな酔い方はしない。」と確実に思うだろう。効果は期待できそうもない。

少しずつ

2013-01-26 18:37:24 | Weblog
暮れに親父が亡くなった。
もう覚悟はしていたので、ただ受け止めるしかなかった。
「昨日今日とは思わざりしを」という気持ちもあるが、
避けられないことである。
葬儀も済んだ。親父の骨は丈夫そうな骨だった。
一通りの事が済んで、四十九日を待っているある日、
朝から雪が降った。
私はダイニングでぼんやりと独り、窓越しに降る雪を眺めていた。
ふっと静かな時間が流れて、音もなく雪は舞っている。
その時初めて、「ああ親父は本当に死んでしまったのだな。」と思った。
人は死んだときに全て死んでしまうのではなくて、
こういうふうに少しずつ、親しかった者の心の中で、別れを告げて行くものなのかもしれない。
初めて親父が遠くに離れて行ったような気がして、
私はただ黙って窓を見つめているしかなかった。

七夕

2012-07-06 22:57:13 | Weblog
忙しくて、ラフスケッチになりました。
七夕は、季節感があるのに、やっている家は他の行事に比べると
少ないかもしれませんね。
子供がいないと、やっぱり離れてしまいますね。
短冊に望みや願いを書く、っていうのはやはり子供に似合うからでしょうか。

外国度・外国人度

2011-09-10 00:09:40 | Weblog
私の若い頃は、インターネットなどももちろん存在しなくて、
外国というのは憧れそのものだった気がする。
海外(といっても主に欧米)の映像を目にするたび、
これは文化の違いとかいうものではなくて、
もう別次元の高度文明に暮らしている人々、という感じがしたものである。
といっても映像資料も乏しくて、おもいきり想像力を働かせて
そういう、実情とはちょっとかけ離れた夢を求めていたのだと思う。
当時の外国や外国人が放つ「外国度」、「外国人度」は
今より飛びぬけて高かった気がするなあ。
そんな頃目にした語学書の挿絵、
もうこんな20世紀初頭風の雰囲気のある絵は
滅多にお目にかかれない。
シチュエーションとしては、アイスランドのホテルのフロント係、といった感じです。
元の絵は小さいもので、顔などは若干想像を膨らませて描いています。
その頃の憧憬そのものが、懐かしい。

慈悲にすがる気持ちで

2011-03-17 09:35:19 | Weblog
あまりの悲惨と不安と怒りで
日本中が疲弊しています。
絵など描く気になれず、何日も過ぎてしまいました。
原発事故もどうなるのか、不安が消えません。
ましてや被災地の方々の状況に関しては
言葉もありません。本当に心配です。
今、古代や中世の人々の抱いたような恐怖が
私たちの心を占めてしまっているのでしょう。
こんな時、神仏にすがりたいと思うのは、
功利的な意味でなく、自然なことと思います。
「観音様(呼び方や分類については、素人ですからご容赦下さい)を描こう」と思いました。
仏像については、無知です。
ただ、この「すがりたい気持ち」を慰めるのには
それしか考えられなかったのです。
人を救おう、などという思いあがった考えではなく、
自分自身が落ち着きたい、と思って。
本で、いろいろな観音様を見て、
「普悲観音」という観音様が、やさしい母親のように思えたので、
その図像から、私なりに描いてみました。
いろいろ間違いはあるでしょう。絵の技量も足りないでしょう。
でも、描かずにいられない気持ちだけは本物です。
観音様は、いろいろな姿で私たちの前に現れてくださるそうです。
普悲観音は、平等普遍の大慈悲心を表わした存在だといいます。
きっと私たちをその慈悲心で見守ってくださるでしょう。
そう信じて描きました。

合格発表今昔

2011-02-11 14:09:52 | Weblog
雪がちらつく季節、というと受験シーズン。
今受験生は正念場だ。
この頃はインターネットで合否の発表をみるらしい。
時代は変わったものだ。
昭和の受験生は、自分の足で見に行くか、電報で知らされた。
「サクラサク」が合格、「サクラチル」が不合格。
受験の厳しさは変わらないけれど、今から思うとこの方法は風流な感じすらする。
直接見に行くのも、その緊張と、合格した嬉しさと不合格の悲しさ、
すべて何だか人間の息遣いが感じられて、今となっては懐かしい。
合格が分かった後、公衆電話から家にその報告をする時の誇らしさ。
電話し終わった時のふわふわとした幸福感。
ずいぶん昔の話だけれど、今もはっきり思いだす。

卒業式の袴姿

2011-02-06 15:49:01 | Weblog
もうすぐ卒業式の季節になってきます。
女子大などの卒業式に袴姿、というのは恒例ですが、
ほかに袴を穿く機会はありませんから、
どうしてこの習慣が残っているのか、ちょっと不思議なところです。
やっぱりあの独特な姿が捨て難くて残っているんでしょうが、
不経済とは分かっていても残したいもの、というのは世の中にはあるんでしょう。
袴姿は、このブログでは雪江さんというキャラクターの専売特許でしたが、
今回は昭子さんに着てもらいました。
今に残る明治の香り、といったところ。

花粉のなかった春

2011-02-05 21:22:57 | Weblog
以前、私の一番好きな季節は春だった。
寒さも緩んで、空気も優しく穏やかになり、
空も明るく、緑も萌え出して、
私のようにぼんやりと物思いに耽るのが好きな子供には
とても心地良い季節だったのだ。
それなのに、春は変わってしまった。
言うまでもなく、スギ花粉のせいである。
鼻のむず痒さだの、鼻水だの、くしゃみだの。
すっかり春は、憂鬱な季節になってしまった。
高校生の頃までは、こんなことは無かったよな。
春の訪れを、歩きながら空気に、木々に感じられた
昔の春が懐かしい。
せめて絵の中で、そんな春に浸る昭子さんを描いて
昔の春を偲ぶこととしよう。

ラジオ講座その他

2011-01-29 00:18:31 | Weblog
そろそろ受験のシーズンだけれど、
自分が受験したその昔を思い出すと、
予備校などというのは浪人生の行く所で、
現役の生徒は独学で受験勉強していたように思う。
少なくとも、私の居た相模原ではそうだった。
そういう独学の受験生の心強い味方が、旺文社の「大学受験ラジオ講座」だった。
(確かこういう名前だったと思う。違ったかな?)
私もお世話になった。数学なんて、これで分かるようになった記憶がある。
数学の勝浦捨造先生とか、英語のJ・B・ハリス先生とか、
本当に生徒一人一人に話しかけるような講義で、
夜中に一人でラジオを聴いている受験生は温かい気持ちになった。
こういう先生のあり方、っていうのは今は考えられないだろうなあ。

ラジオの話のついでに、同じ音に関する話で、
私の学生時代は、レコードしか無く、テープもオープンリールからカセットへの移行期だった。
レコードに針を落とす時の感触は今でも覚えている。
今から思えば決して良い音ではなかっただろうが、
レコードから出てくる音は、温かい感じがしたように思う。
音に関する環境はずいぶん変わってしまったものだ。
昔は、「チャチ」かもしれないが「温かい」音や声の時代だったなあ。

父の戦友として(一式陸上攻撃機)

2010-12-16 23:56:24 | Weblog
飛行機の絵を初めて描く。
私はメカの絵は、得意ではない。
実はこれは、私の父が海軍で搭乗していた、
一式陸上攻撃機という、爆撃機である。
この先端部分、ガラス張りの所に乗り組んでいたという。
飛行機のナビゲーター役というか、飛行している位置や方角を計測・計算して
伝える役割であったらしい。
この飛行機で、爆弾や魚雷を積んで出撃したということだが(南方方面が多かったようだ)、
二度ほど、訓練中に故障で不時着というか着水したそうだ。
一度は霞ヶ浦、もう一度は三宅島沖で、
後者の時は一昼夜洋上を浮遊物につかまって漂った末、
島に漂着したという。
また、米戦艦を攻撃するのに、船首を回して魚雷を避けられないように、
四方から同時に十字型に戦艦へ魚雷攻撃をし、
戦艦の上で、クロスするように互いをよけながら飛ぶ、という
もうほとんど正気とは思えない攻撃もした、という話だ。
その時、戦艦を越えようと機首を上げた視界の先に、
船上の米兵の顔が、表情が見えたそうである。
何という出会い方なのだろう。
お互いに、こんなことをするために生まれて来たわけでもなく、
互いに殺しあう謂われはないはずなのに。
その父は、終戦間際、何と陸軍兵を乗せて(父は海軍)、
サイパンの米飛行場へ強行着陸をし、そこから敵陣へ切り込んで奪回する、などという
活劇さながらの無謀な特攻作戦を準備させられたまま、終戦を迎えたそうである。
滅茶苦茶ですよね。
戦争っていうものが、どういうものだか、私はこういうことから想像するのだ。
その父は、今病院で過ごしている。
母は、「お父さんは軍に勤めた期間が少し足りないから恩給が貰えないんだよ。」
と言っている。
そんな目に遭っているのに、父は戦友の話などを懐かしそうにしていた。
父の青春は、そこにあったわけだから、私は何とも言いようがないのだ。
若くして亡くなった戦友を悼む気持ちは、分かるような気がするし。
(分かる、と偉そうに断言することは、さすがに気が引ける。)
その父のために、絵を描いたのだ。
この飛行機も、父の戦友であろう。もしかすると、父自身の一部かもしれない。
ただの機械ではないのだと思う。
戦争に使った飛行機だから、人によっていろいろな考えはあると思う。
しかし、この機については、私は客観的にはなれそうもない。
だから、これは正確な「図」ではなく、
父の戦友を、父自身を描いた「絵」のつもりである。

スズメのお家

2010-12-12 15:25:07 | Weblog
スズメが、減っているらしい。
なんでも、巣を作れる場所が減っているからだそうだ。
瓦屋根のある家の軒下が、理想的らしいが、
瓦屋根が少なくなり、そういう隙間と、防護壁としての屋根が揃った環境が
なかなか見つからないらしい。
マンションの排水用の穴などに作ったりしている。
しかしカラスなどの餌食になりやすく、安心して営巣できないようだ。
布団を干したところへ、手すりと布団の隙間に魅かれて
巣を作ろうとしたりするらしい。
そう言われて、町中を見まわすと、確かにいい場所は少ない。
いつでも見られると思っていた生物が、いつの間にかいなくなる。
その原因は、やはり人間だったりする。
メダカやバッタやスズメ、こういう身近な生物がいなくなるのは、淋しいしなんだか怖い。