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スケッチ貯金箱

日々描いたマンガやスケッチ、似顔絵などを貯めていく貯金箱のようなブログ。

キャラクタースケッチ(カッパ)

2010-10-31 21:37:13 | Weblog
テレビを何気なく見ていたら
懐かしい清水崑さんのカッパの絵が映っていた。
簡単な線なのに、なんて魅力的なんだろう。
急に意欲をそそられて、自分もカッパの落書きをする。
うーっ、難しい。
あの絵がどれだけ洗練されたものか、よく分かる。
しかし、絵というものは、その人の本質に根ざしたもので、
清水さんの絵をまねしても、やはり駄目だろう。
自分のものを描くしかないけれど、描きこまなければいけないだろうなあ。
ともあれ、じぶんなりの落書き。

キャラクタースケッチ(雪江さん)

2010-10-03 18:19:01 | Weblog
ここのところ、あまりにも忙しく、
夏の疲れも一気にやってきて、
更新も少々しんどくなっています。
少しペースダウンして、
軽いタッチのものも増やして行こうと思います。
趣味なので、それで体をおかしくしては本末転倒ですし。
そんなわけで、今回は先日の「吾輩は猫である」の雪江さんを描くために
キャラクタースケッチをしたものを載せます。
早く体調を戻さないと。

なんで子どもはガン見するんだろう。

2010-07-24 21:03:28 | Weblog
我が家の前は小学校の通学路で、
朝になると、子どもたちが大声や奇声を上げながら走り過ぎる。
それは良いのだが、私は出勤時間が少し遅い方なので、
雨戸を開けるタイミングと、子どもたちの登校時間が重なる。
開けた瞬間、小学生が驚いた顔で、
私の顔を「ガン見」するのだ。
小学生のガン見は、長い。
なんであんなに長いのだろう。
しかし、数年前までは幼児とか、へたすると赤ん坊だったんだよな。
赤ちゃんにガン見されても、ほほえましいけれど、
小学生になると、「なんで見てるんだよ。」と思われてしまうと考えると、
ちょっと悲しい。
おじさんがガン見したら、これは変質者である。
小学生にガン見されているくらいで、ちょうどいいのかもしれない。

世界ふれあい街歩き(リュブリャナ)

2010-06-05 22:24:12 | Weblog
久しぶりにNHKの「世界ふれあい街歩き」を見た。
スロヴェニアのリュブリャナをやっていた。
スロヴェニアは、イタリアの東隣、
旧ユーゴスラヴィアの西端にある国だ。
といってもスラヴ圏だから、ここから中欧。
東欧へのスタート地点である。
とはいうものの、イタリアに近いので、街並みは
イタリアを彷彿とさせる。
しかし首都だというのに、この鄙びた感じはどうだろう。
そんなに人混みも無く、観光客も多くはなさそうである。
ユーゴの紛争の時も、この辺りはあまり被害は無かったのだろうか。
あまりよく知らないのだが、この街の人たちも、
意外と街の歴史に無頓着のように見えた。
中で、幼稚園の先生が園児たちを
近所の公園に連れていく場面があり、
子どもたちの可愛らしさと共に、
その先生の垢ぬけた雰囲気に驚いた。
こんなお洒落な先生なら、子どもたちにも好かれるだろう。
ちょっと日本では見かけないタイプの先生をスケッチしました。

日記風に

2010-04-17 23:51:40 | Weblog
今回は通常のブログ風絵日記。
医者に行った帰りに、
お母さんと買い物に来たらしい
小さな女の子が、
必死にお母さんにしがみつきながら
怒ったような表情で
ずっと歩き続けているのを見た。
どうしてそうしているのか分からないけれど、
きっと小さな心には
必死でしがみつく理由があったのだろう。
子どもでなければあり得ない可愛らしさだった。
何だか心がほぐれた気がした。

トキ産卵

2010-04-10 20:40:01 | Weblog
今回は気楽に落書き的マンガを。
トキが31年ぶりに佐渡で自然内産卵をした、
というニュースを見た。
ついこのあいだまで、メスがみんな本州に飛んで行ってしまい、
オスは佐渡に取り残されてしまって、
ペアが自然にできない、という状況が続いていた。
なんでもトキのメスはより良いオスを探して
広範囲に移動する習性があるのだという。
佐渡のオスたちは、「ダセえ!」という烙印を押されて
なさけなくも佐渡に取り残されてしまったのだが、
メスの方も、どこまで行ってもオスがいないので、
仕方なく佐渡に戻った1羽がペアを組んだ、ということらしい。
つまり、たくさん仲間がいるうちは
よりよい子孫を残すために機能している習性が、
数が少ないと、逆に滅亡に近付く要因になってしまうという、
これも自然界の不思議である。
今回の1羽のメスの、現実と妥協した行動が
種の将来には明るい灯をともしたことになる。
何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、
「あきらめて適当に手を打つ」というのも
必要なことなのかもしれない。

虎の絵

2010-01-10 16:40:53 | Weblog
毎年、賀状の絵には苦労するが、
今年用の虎の絵もなかなか出来なかった。
以前描いたようなものではつまらないし、
この歳になると、新味をもったアイデアも
うまく浮かんでこなかったりして、
けっこう難儀した。
結局、カルタ取りをする虎の子の絵にしたが、
その前に描いたのが下の絵。
これはこれなりに苦労して気に入っていたのだが、
家族に却下されてあえなくボツ。
でももったいないので、ブログに載せて供養することにした次第。

謹賀新年

2009-12-31 23:13:11 | Weblog
いつもながらちょっとフライングですが、
新年の挨拶をさせていただきます。
年賀状でも年内に出すものですし、
新年になると回線も混雑しますから、
ちょっと早めの謹賀新年です。
今年もゆるゆると続けて参ります。
いつも御覧いただいている皆様方には
感謝とともに、
新しい年のご多幸をお祈りいたします。

ジュリエッタ・マシーナの演技(フェデリコ・フェリーニ「道」)

2009-12-20 10:59:26 | Weblog
フェデリコ・フェリーニの「道」(La strada)のDVDが
安かったので、買って久しぶりに見る。
私がイタリア文化に敬意を抱くようになった
原点のような映画。
内容については方々で語りつくされているから
あえて繰り返さない。
しかし、イタリアという国は
観光や料理や、一般的に信じられている人々の陽気さなど、
「明るい」イメージが強いと思うのだが、
芸術で時折感じさせる、恐ろしく底深い精神性こそ、
実は本質なのではなかろうか。
考えてみれば、この国はローマ時代から、
キリスト教が根付いた時代を通して
まさにヨーロッパの「中心」だった国(というか地域)である。
ヨーロッパの真髄を体現している、という気がする。

「道」も、そういうイタリアの真髄をまざまざと見せる傑作だ。
ここには、神性とか罪とか、救済とか、
そういう日本人にはとっつきにくい主題が、
否定しようのない実感をもって示されている。
ヨーロッパ的でありながら、普遍性を兼ね備えた表現である。
今回この映画を見て気付いたのは、
ジュリエッタ・マシーナ(ジェルソミーナ役)の凄まじい演技力である。
人生の価値を教えてくれた綱渡り芸人イル・マットが、
野獣のような男(ザンパノ。ジェルソミーナと旅回りの大道芸をしている)に
殺される。
それを目撃したジェルソミーナの姿を、
ジュリエッタ・マシーナは、
「罪に対するおののき」の化身となったかのような
迫真の演技で示して見せる。
誰しも、これを見れば「罪」というものがこの世に存在することを
否定できないだろう。
ザンパノが、これ以降、ジェルソミーナを内心恐れるようになるのも
無理はなかろう。
おののく彼女の姿には、「神」の影が垣間見える。

このシーンを模写したのだが、
とてもではないが、私の描写力で
描き切れはしない。
だが、この映画に対する敬意の印として、
掲載することにしたものである。
(絵の中のMassinaは、Masinaの誤りでした。
訂正いたします。)

道具を使うタコ

2009-12-18 23:46:54 | Weblog
テレビで「道具を使うタコ」というのを見た。
ココナツの殻を抱えて移動し、
それを貝殻のように合わせて身を守っていた。
タコは知能が高いのだそうだ。
そういえば、「二足歩行するタコ」というのも
最近見た気がする。
二足歩行して、道具を使う。
これで言葉を喋れば、ほとんど人間と同等ではないか。
昔、火星人はタコのような姿で描かれていたが、
あながちそれも荒唐無稽ではないのかもしれない。
意外と墨の吐き方でコミュニケーションを取っていたりして。
次の「タコニュース」が楽しみだ。

時代物

2009-11-08 00:19:03 | Weblog
時代物のマンガを描いたことがない。
ちゃんと描こうとすると、
時代考証が大変だ。
アマチュアなんだから、そんなに難しく
考える必要はないのだけれど。
もし読んでもらった人が歴史に強くて
「あそこは間違ってるよ。」などと言われたら
「ああ、何だかめんどくさいなあ。」と思うに決まっている。
ということを考えただけで既に面倒くさくなってしまうので、
結局描くに至らないのだ。
いや、一度だけ、昔、描いたことがあって、
それは溝口健二監督の「山椒大夫」を
マンガで再現しようという無謀な企てだった。
ずいぶん服装や結髪について本を読んだりして描いた。
その時は面白かったが、もうその元気もない。
出来た作品はまあ自己満足に過ぎなかった。
もっとも、これは現在と同じですけど。
しかし時折、ふと江戸物など面白いかな、と思ったりはする。
今回もちょっとそんなことを思ったものだから、
歴史図録などを眺めていて見つけた、
行商で団子を売っている娘、というのを描いてみた。
たとえば、この娘と、いつも団子を好んで買いに来る
若者の話などを短編にしたら面白いだろう。
そう思うだけで、なかなか実際にストーリーマンガには
出来ないのですけれども。

カエルの棒高跳び・ウサギの棒高跳び

2009-10-23 23:27:12 | Weblog
テレビでカエルが棒高跳びをしている
コマーシャルを見た。
NTTコミュニケーションズだったかと思う。
なかなかよく出来ている。
何か気持ち悪くて、笑える。
しかし動きは結構いいぞ。
カエルが出てきたから
鳥獣戯画じゃないけど、
こっちはウサギで棒高跳びを描いてみた。
面白い。
よしついでに、というので
ネコの槍投げ、も描いてみた。
絵は何でもありだったんだ、と
思い出したりした次第です。

むじな(MUJINA una storia di fantasma giapponese)

2009-05-19 23:17:07 | Weblog
イタリア語のレッスンを受けていて、
今回はラフカディオ・ハーンの怪談から
「狢(むじな)」をイタリア語に訳しました。
まだ先生のチェックを受けていないので、
戻って来たら訂正しますが、とりあえず載せます。
(5月23日訂正しました。)
イタリア語なんか知らん、という方には
とりあえず挿絵風にイラストを描いたので、
今回はご容赦頂きたいと思います。
話は有名ですから、説明するまでもないでしょう。
東京の紀伊国坂で、道端で泣いている若い女に声をかけたら
その女の顔はのっぺらぼう。
肝をつぶして駆け込んだ蕎麦屋の主人が、
「あんたが見たものは、ひょっとしてこんなもんじゃなかったのかい?」と
またしてものっぺらぼうの顔を見せる。
それは狢の仕業だった、という話です。
下に訳文とイラストを載せます。


MUJINA
scritto da Lafcadio Hearn
tradotto da Chokin-bako

In Tokyo, ad Akasaka, si trova un pendio che si chiama Kiino-kuni-zaka. Non so bene per quale ragione questo pendio è chiamato così. Un lato del pendio è un vecchio fosso, profondo e abbastanza largo, con un argine verde e sollevato che prosegue verso un luogo il quale sembra un cortile di qualche villa. L’altro lato è il muro del palazzo imperiale, fatto di pietrame, che si allunga lontano. Prima che fossero i lampioni ed i risciò in questo mondo, questa zona era stata tutta deserta dopo il calar della notte. Dunque un camminante che ritornava tardi a casa, piuttosto che salire il Kiino-kuni-zaka nel buio, preferiva andare per un’altra strada, per quanto deviazione dovesse fare.
Tutto questo è perché qui vicino si vedeva spesso un mujina (procione giapponese che stregava l’uomo).

Questo mujina, l’ha visto per l’ultima volta un commerciante anziano di Kyobashi, che è morto già circa trent’anni fa. Il seguente è quello che l’anziano m’ha raccontato ─.

Una notte, ad ora inoltrata, quell’uomo camminava in fretta su per Kiino-kuni-zaka, quando s’è accorto che una ragazza piangeva, accovacciata sulle rive del fosso, con la faccia abbassata. Tutta sola, singhiozzava forte forte. Sospettando che lei tentasse di gettarsi giù nel fosso per morire, lui s’è fermato, nella speranza di aiutarla e consolarla con quello che poteva fare. Lei era una ragazza snella, raffinata, vestita decentemente, e con i capelli acconciati alla maniera tradizionale taka-shimada, come le ragazze di buona famiglia.
“O-jochu (Signorina).”
Ha gridato avvicinandosi a lei (in quei tempi era l’etichetta chimare una donna giovane sconosciuta di condizione elevata “O-jochu”).
“O-jochu, non pianga così. Mi dica pure, se ha qualche difficoltà. Farò volentieri tutto il possibile per aiutarla.”
(L’ha detto dal fondo del cuore perché era davvero pieno di gentilezza.)
Però, la ragazza continuava a piangere.──con la faccia piangente occultata dietro la manica lunga del kimono.
“O-jochu.”
Il commerciante ha ripetuto con il tono più dolce possibile.
“Prego, mi ascolti, per favore……. Questa zona non mi sembra per niente un luogo dove una ragazza possa andare in giro di notte. Le chiedo di non piangere più. Avanti, mi dica come posso aiutarla.”
La donnina s’è alzata pian pianino, con la schiena ancora voltata all’uomo, singhiozzando e tenendo la faccia dietro la manica lunga. Lui, posando la mano leggermente sulla spalla della ragazza, persuadeva.
“O-jochu, O-jochu, O-jochu……. Mi ascolti pure. Per un momento solo……O-jochu, O-jochu..”
E allora, lei s’è voltata indietro, facendo cadere la manica, e passandosi la mano sulla faccia──la faccia senza occhi,con nessun naso, nessuna bocca.──Il commerciante è scappato, strillando.
Su, su, su per Kiino-kuni-zaka, ha corso freneticamente. Era tutto buio attorno, non si vedeva niente davanti nell'oscurità. Completamente pieno di paura, lui correva e correva senza poter volgersi indietro. E poi, s’è distinta la luce d’una lanterna, tanto lontana che si vedeva con la grandezza d’una lucciola. Dopo aver corso vicino precipitosamente, ha notato che era la lanterna della bancarella di yotaka-soba (pasta lunga di grano saraceno, mangiata di notte) sul bordo della strada. Ma dopo quei guai, qualunque luce, qualunque uomo sarebbe bello,solo se c’è qualcuno con cui parlare. Appena entrato di corsa, lui è crollato ai piedi del padrone del negozio, gemendo con una voce quasi come uno strillo “Ah, ah, ah”.
“Ehi, ehi.”
Il padrone ha detto seccamente.
“Che cos’è accaduto? Qualcuno t’ha ferito?”
“No, nessuno m’ha ferito……”
Il commerciante ha risposto ansando.
“……ma soltanto……”
“Soltanto t’hanno minacciato?”
Il padrone della bancarella di soba ha domandato tanto freddamente. ”Allora sei assalito da un bandito?”
“Ma no, non è un bandito, no!”
L’uomo, tutto impaurito, ha ansimato.
“E’ apparsa……è apparsa una donna──sul bordo del fosso──e quello che m’ha mostrato……oh, è inutile parlarti di quello che lei m’ha mostrato!”
“Davvero? Probabilmente, lei t’ha mostraro per caso una cosa come questa?”
Dicendo così, il padrone s’è passata la mano sulla faccia,──e subito il suo viso si è trasformato in una cosa piana e liscia, come un grande uovo.……E simultaneamente s’è spenta la luce della bancarella.

タケノコの親分

2009-05-10 17:30:20 | Weblog
いつも歩く道に面して
竹林があります。
そこにタケノコが顔を出して
「あ、タケノコだ。」と思う間もなく
そいつはにょきにょきと背丈を伸ばして、
ノッポのタケノコの親分のようになりました。
実に奇妙な感じのする間延びしたタケノコ。
しかしそのうち下の皮が剥けて
そこには立派な青竹ができていました。
おお、いつの間にか青年になっている。
知っている人には何でもないことかもしれませんが、
初めて見る人間にはとても新鮮な自然の営みでした。