日々描いたマンガやスケッチ、似顔絵などを貯めていく貯金箱のようなブログ。
スケッチ貯金箱
そういえば昔・・・

暑い日々が続いていて、高校野球も真っ盛りだが、ふと自分も中学時代に応援団をやらされていたのを思い出した。
「自律委員」というクラス毎の委員があって、それになると自動的に応援団をしなくてはならない。私も学ラン着たまま、エールなど応援の練習(けっこう無茶な)をやらされた。今も歌を歌うのに声があまり出ないのは、あの時校庭の端から端へ向かって声を張り上げたせいだ、と全てそのせいにしている。
さて本番の野球応援は、母校が1回戦であえなく敗退したので、1試合のお務めで済んだ。内心すごく嬉しかったのを覚えている。こんな応援団員がいたのでは野球部も気の毒だった。
応援団の主導権を男の番長と、女の団長が争うという、なんだか危ない組織の抗争みたいなものもあった。結局女性団長の勝利に終わって、ちょっとその人を尊敬した。
あの頃の夏より、今年の夏の方が遥かに暑い、一生懸命応援するのは尊いが、くれぐれも体調には気を付けてほしいと思う。
オフィスに死す?

「働き方改革」だとか何とか、世間が騒がしい。
実際これから、職場はどうなっていくのだろう。
もっともこちらはもう卒業、という歳なので、あまり実感はない。
いやいや、そうは行かないか。
70歳定年だとか、元気なうちはいつまでも働けとか言う声もあるようだし。
昔「山椒大夫」という映画で、病気になった(ぬひ)のおばあさんが、
気遣って大丈夫かと声をかけた娘に向かって
「あたしたちは死ななきゃ休めないんだよ。あたしたちは人間じゃないんだから。」
という場面があった。
何だかそれが現実になって来ているような気がする。
楽隠居などという夢のような贅沢はもう絶望的なのだろう。
それにしても超高齢者が通勤電車で亡くなったり、
オフィスでいつか息絶えていた、なんてことが起きないことを祈る。
いや祈っているだけでは食い止められないだろう。
だって年寄りは、どう形容しようが歳を取っているのであり、
体も弱っているのだ。
サテライトオフィスでも作って通勤時間を短縮するとかしないと、
冗談でなくあちこちで悲惨なことになりそうである。
「あの席は、二人続けて亡くなっているから呪われている」などという
「会社の怪談」みたいなことになる前に、
真面目に高齢者の働き方は考えてあげないといけないだろう。
自由過ぎるバスガイドさん

日帰りのバスツアーで温泉に行った。
連休で道路が混雑するので結構早朝の出発である。
バスの中で眠ろうとしていたら、バスガイドさんが話し始めた。
バスガイドに成り立てなのだろうか。その話が変である。
変と言っても、たどたどしいというのではない。
そうではなくて、その内容が自由奔放すぎるのだ。
「私、恋人の聖地っていうのに憧れるんですよね。」と話し始めて、あちこちの聖地を巡ったり、これから巡りたいという話。恋人がいるのかどうかは話さなかった。
それぐらいなら別にどうということもないのだが、話は揚げパンの話題に移り、
「私の給食メニュー・ベストテンの第4位が、揚げパンです。」と発表。
3位まではどうなっているのだ。しかしそれについては説明なし。
最後に、
「私、眠るのが好きなんですよね。
生まれ変わったら、掛蒲団(かけぶとん)か、
線を引く定規に生まれ変わりたいです。」
と発表。
蒲団になればずっと寝られる、ということか。
それにしても定規とは。寝ていて仕事ができる、という意味だろうか。
乗客は笑っていいのかどうか、茫然としていた。
それでも、その後彼女はにこやかにしていた。
このガイドさん、自由過ぎる。
でも、何かもう一度聞いてみたい気もする。
夏は変わってしまった

あちこちで集中豪雨だの竜巻だのが起きて
災害報道ばかりである。
昔の夏は、こんなに激しくなかった気がする。
温暖化のせいだと言うけれど、かつてのような夏はもう来ないのだろうか。
昔は、昼間でも扇風機くらいで充分涼しかった気がする。
窓を開けていればそれなりに涼しい風が来て、昼寝もできたように覚えている。
スイカや野菜も、今の様に甘口の物でなく、もっと野性味に溢れた味だった。
あのころのような、あまり甘くないトウモロコシをまた食べてみたい。
私の家では、夏以外に麦茶を作らなかったので、これも夏の風物詩だった。
麦茶とスイカで縁側で涼む。日本の夏だった。
また味わってみたいものである。
マンガスケッチ(猫)
カメの幸福

天気がいいので、カメの水槽を洗ったついでに、カメに日向ぼっこをさせる。
もう15年以上飼っている。20センチくらいあるだろうか。
子供が小学校の時、ペットショップから買ってきたミドリガメ(種類はクサガメらしい)。
夏になると無精卵を産む。雌である。一度盗難に遭って、戻って来た。
私は勤めているので、週1回しか掃除ができない。夏はけっこう汚れる。
だから掃除の後の日向ぼっこは彼女にとって至福の時間である。
頭も足も脱力して、島の上でダランとしている。
気持ちよさそうである。
この時だけはちょっとうらやましい。
本当は自然の中で生きるのが幸せなのだろうが、もうそれでは生きられまい。
かといって、私のところで大水槽や池を作って繁殖させるわけにもいかない。
可哀想だが、仕方が無い。
せめてこの至福の時間が長く続くことを祈る。
あまりにもバカで、腹の立つこともあるが、それも仕方が無いな。カメなんだから。
でも俺より長生きするなよ。もう世話する人がいないからな。
森のクマさん

北海道を旅行して来た。といっても、道東を2泊3日の旅だからあっという間だった。
帯広から釧路、知床と回った。
知床では知床五湖の自然観察ハイキングコースを回った。言わずと知れたヒグマの生息地域を歩いて回るコースで、ツアー開始前のレクチャーで、ヒグマと遭遇した時の注意だとか、ヒグマに会わないための心得などを説いたビデオを見せられた。けっこう緊張して歩いたが、幸いにしてヒグマに出会うことはなかった。
「森のクマさん」という童謡があるけれど、あの歌詞を思い出すとかなり怖い。ある日クマさんと出会ったのが、花咲く森の道だった、というのは逆に何かドスの利いた恐ろしさがある。この歌で熊をイメージしてしまうと、このビデオは子供にはショックかもしれないな、と思った。
「何よりもクマと出会わないことが大切です」と言っていた。森の中では。
どうでもいいけど、鳥のフン

皆さんは、飛んでいる鳥のフンが自分に命中したことがありますか?
わたしは、3回あります。
一つは、子供の頃、腕にやられました。
もう一つは、大人になってから、やはり腕(だったと思う)。
3回目は中年になってから、駅の構内で、鳩のフンをワイシャツの襟首のところ(しかもネクタイをしていなかったので内側)に、見事に落とされました。ワイシャツがお釈迦になりました。参ったなあ。
この頻度は多い方なんでしょうか?
このぶんだと、生きているうちにあと1、2回やられるのではないか。
あんまり有り難くない予想だけれども、そのぶん長生きしている証拠なので、
まあ我慢してもいいか。
いや、今の家が山に近いので、洗濯物に小鳥のフンが付くのはしばしばである。
もうちょっとたくさん、やられるかもしれないな。
本当にどうでもいい、鳥のフン談義でした。
地震のあとで(母の一周忌を控えて)

小笠原諸島の近くを震源とする、大きな地震があった。
それなのに、私は外を歩いていて気づかなかった。家に帰ってから、テレビで知ったのである。ぼんやりもいいところだ。
妻が自分の母親のところへ電話をして、何もなかったかと訊いていた。無事だったようだ。
私も親の所へ電話しなくては、と携帯電話に手を伸ばそうかと考えたところでふと気が付いた。
母は去年亡くなった。父もその少し前に亡くなっている。実家はもう存在しないのだ。
電話するところなど無いのだった。
もうすぐ母の一周忌である。それは頭では分かっている。しかしふとした時に、まだ母が生きているような気持ちが残っているのだ。
父の時も思ったことだが、こういうことがあるたびに、故人は本当の意味で亡くなっていくのだろう。そして自分の育った郷里も同じように(たとえ町として続いていても、育った背景としてのふるさとは消えていくのだ)。
もしかしたら、母が、「いつまでも昔のことばかりにとらわれず、前を向きなさい」と言っているのかもしれない。
サッちゃんはね(童謡のある情景 2)
今日も昨日も雪の空・早春賦(唱歌のある風景)
エスカレーターでの姿勢

この頃気づいたことなのだが、
そして本当にどうでもよいことなのだが、
エスカレーターに乗るとき、かならず片足を上の段に載せる人がいる。
しかもかなりの割合で。
私はまっすぐ立ったままで乗るので、どうしてなのだろうと思うのだけれど、
ああした方が落ち着くんでしょうかね。
重心は安定しないと思うけれども、あの方がむしろ良いのだろうか。
もしかすると骨格にひずみがあるとか。いや、これは自分に都合のよい考えだろうなあ。
どうでもいいが、何か気になってしまう。
忘れられない映画(「名もなく貧しく美しく」)

忘れられない映画のこと。
大学生の時、小さな映画館で2本立てで古い日本映画を見た。
お目当ては黒澤明の「生きる」で、前から見たいと思っていたものである。
いい映画だった。心に残る映画だった。
しかし、そのついでに、と思ってみた映画にすさまじい衝撃を受けた。
松山善三監督の「名もなく貧しく美しく」である。
耳の不自由な夫婦の話である。戦後すぐの荒廃した世相の中で、互いを頼りにして必死に、誠実に生きる夫婦である。
だが今から考える以上の苦難が打ち続く。障害者への差別もすさまじい。荒々しい世の中であった。
だが、夫婦の愛情の交流がこの世のものならぬほど美しい。手話で交わす(映画では字幕で示される)会話が、シンプルであるがゆえに情愛に満ちており、手話に伴う顔の表情が痛いほど心に突き刺さってくるのである。
暮らしの糧を得る大切な手段である内職用のミシンを、道楽者の弟に強奪された上に手を踏みつけられた主人公・秋子が絶望のあまり夫の道夫に「弟と一緒に死ぬ。」と書置きを残し、夫はそれを知って必死に後を追いかけ、間一髪電車の一両違いの車両に滑り込み、開かない連結部分の横の小窓から妻に懸命に合図する。
電車が揺れた瞬間に、夫に気づく秋子。彼の手招きを見て、向かいの小窓へ近寄る。その時の表情が素晴らしい。イラストは、その感じを再現したものである(画面を模写したのではない。私の裡の感情の記憶に基づいて描いた)。
真っ暗な絶望。そこに射し込んだかすかな光。それは「お互いに助け合って、普通の人に負けないように生きていきましょう。」と誓い合って生きてきた、その夫の差し伸べた手なのだった。
この後に続く夫婦の手話による会話シーンは、日本映画史上に残る屈指の名シーンである。説明しすぎるのはよくない。実際の映画を見ていただきたい(DVDも出ている)。
この映画の主演女優・高峰秀子さんの演技は神技である。あれを見たから、私はこの年になっても「人の表情」を追い求めるようになったのだと思う。完全に私はノックアウトされたのである。
同窓会で校歌斉唱

土曜日に高校の全クラス共通の同窓会があり、
もう60歳になった同窓生たちが100名ほど集まった。
私も本当に久しぶりに旧友に逢って、歳は取っても人間は本当に18歳の頃と皆変わらないものだと感心した。
もちろん姿形は、それなりに変わってますよ。
でも、「変わらないなあ!」と言わずにいられない本質がすぐにお互い読み取れて、懐かしい気持ちになった。
で、最後に校歌(県立相模原高校校歌)を斉唱したのだけれど、
この歌を皆がはっきり記憶していて、そうやって一緒に歌っているのが不思議なような気がした。
あの、消え去ったと思っていた日々が、はっきりこの人たちの記憶には生きているのだ。
私だけでなく、それを大切に感じている人がいる限り、あの時代は死んではいないのだな。
このところ、寂しい思いをする出来事が続いたので、久しぶりに心が温まった。
親子酒(柳家小さん師匠の)のこと

酒好きの親子が互いに禁酒の約束をしたが・・・、という話で、後継ぎの息子の将来を案じて約束をしたものの、酒好きが飲まずにいられるわけはない。奥さんを無理やり説き伏せて(このいきさつがまた可笑しい)、内緒で飲み始める。たちまちベロベロに。
そこへ息子が得意先の勘定を済ませて帰って来る。あわてる父親。何とか酔いを悟られぬよう体裁を取り繕って「入れ!」と言うが、戸を開けて入って来たのは、やはりベロベロになった息子だった。
得意先で酒を勧められたが、親父と禁酒をした、といってどうしても飲もうとしなかった。しかし「お前は偉い! その意気が気に入った。どうだ、その意気で一杯行くか!」と言われ、「はい頂きます。」と、二人で二升五合飲んでしまった。
やっぱり好きなものはやめようと思ってもやめられませんなあ。お父さん。
「馬鹿野郎! お前は何という情けない男だ・・・馬鹿野郎! ・・・お父さんが言ったでしょう、お酒を・・・飲むんじゃ・・・ないと。」眠りそうになりながら説教する親父。
だが怒っちゃいけない。この家の財産、身上(しんしょう)はみんなお前に譲るんだから、と言いかけて親父は言い淀む。奥さんを呼ぶ。ここへ来てせがれの顔をみてごらん。七つにも八つにも見える・・・ダメだダメだ、こんな化け物に大事な身上は譲れません!
息子はゲラゲラ笑ってこう答える。
冗談言っちゃいけない、お父さん。おいらだってこんなグルグル回る家は要らねえや!
有名な話だけれど、これを演じた小さん師匠の芸が絶品だった。録画したビデオを何度も見て、すっかり覚えてしまった。
この高座の映像は残っていないのでしょうね。もう一度見たいなあ。
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