人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

究極の易行道

2017-10-10 18:13:50 | 祈りと瞑想
「私には、念仏よりは仏である。その方が直接的である。仏の中に能念も所念も包みこまれている。仏というだけで、念に先だってすでに垂幕していることを感じる」
(玉城康四郎「瞑想と体験」.春秋社刊)

浄土系仏教では、念仏は易行道だと言います。
念仏を称えるだけで救われるというのだから、簡単であるに違いないですね。
ご存知のように称名念仏にしろ、それ以前にあった観仏行にしろ、一つの救われの道の方法として確立されたものです。
しかし、その救いというものは、我々が行じること自体には無いことは容易に理解出来ることでしょう。
念仏に限らず全ての教えであれ、方法であれ方便と言ってもいいでしょう。
救いにつながる、愛と平安をもたらすものというのは、直接的な仏、神的なハタラキ、現臨...という名状し難いもの、それ自体にあるのです。
この「念」という言葉なのですが、一念の念仏と言ったりするのですが、一瞬の意識の動きというものを言い表しているようです。
昔は意識なんていう言葉など無かったから、そう表現していたのでしょうけど(念じるということではないでしょう)、そこに行的プロセスを超えた直接的道の消息が感じられます。又、
「他力と言ふは、如来の本願力なり」(親鸞聖人)
などの言葉にみる、我々の行道に先だつ仏の本願力にひたすら打ち任せていくところにも、それが感じられます。
私は、しばしば事も無げに、それ自体なるものは、意識を向ける、意識的になるだけで、その息吹きに預かることが出来るなどと言っております。
そこには念仏も瞑想も如何なる方法のプロセスも存在しないのです。
意識的になるだけで、私の内に息づいているものが顕わになり、ただそのものにゆだねていくだけです。
我々の思いを超えて理屈抜きに惹き付けられてしまうことで、そうなってしまうのです。
如来の本願と、内なる仏性とが相合わされる、共感し合うのです。
教えや方法というものは、この私という主体との直接性からは、離れてしまっているもので、どこかでその形あるものから無形のものへとシフトしなければ、形骸化してしまうものです。
宗教やスピ界隈には、もう使い古された教え、メソッドで一杯ですね。
直接性というのは、この私という主体から切り離されることなく、そのもの自体と丸ごとが主体となるようなことを言っています。
これは他の誰でもないあなた自身が、直接関わり、飛び込み、味あわない限り開かれません。
これが難しいなんていうのは、全くどうかしています。
本当に神的なものを恋慕うものにとって、これほどの易行道はありません。それは行道ですらないのです。
恋慕う気持ちが起こっていることは、すでに愛と平安の内にあることが知られるでしょう。
勿論、この心持ちを養うという意味で、行道に勤しむということもあることでしょう。
だが、その御自体なるものにどこまでも即応したものでなければならないでしょう。神仏への愛こそがその直接的道の道標なのです。
教えや方法や、諸々の主体から遊離した思念に囚われている者にとっては、これほどの難行道はないかもしれません。
その気が無ければ、如何な神仏でもどうしようもないでしょうから...



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