人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨とは何か?

2022-02-07 10:09:15 | 現臨、ハタラキ
いつも当ブログを読んで頂いている、mirfakさんが自身のブログで、私がいつも言っている「現臨とは?」、ということを書いておられました。(もう二週間くらい前の記事なのですが、何故か気付かなかったのか、昨日読ませて頂いたのです)
そのことも含め、初めての方などは、現臨などと聞き慣れない言葉に接して、"何じゃ、そりゃ?"、と思われるかもしれませんので、(何度か試みていて重複するでしょうが)改めて書いてみたいと思います。
私はまず、それを難しく定義したりして、抽象的、哲学的に語ろうとは思っていません。というのも、それは感覚を伴っているもののことであり、現臨感覚と言ったりするのです。
現実に臨んでくる、という感じがあるi...何が?、思いを超えたものがi...ということは、もうそれは言葉に言い表せないものだ、と言っているのです。
思いを超えている、ということは超越的なものですが、それは同時に自己に内在しているものを開くものでもあります。
つまり、それは自己実存と切り離されたものではない、ということです。臨んでくる、開かれる、在るという感じ...
"現臨が在るところに私も在る"...ああ...こう書いてきて難しいワイ、めんどくさいワイi...
この呼び名は、キリスト教の方面から借りてきたのですが、「神の現臨」「霊の現臨」といった題名の本もありまして、読んだことないけど、私などそれを思い浮かべただけで、もうソクソクと何かが降りてきそうに感じてしまうくらいです。
しかし、それはキ教に限定されるものでは勿論ありません。
仏教的には法~ダンマであり、又それが働くことで開かれる、頭脳智とは別の仏の智慧(思考を超えて、降りてくる、開かれるものではあるまいか...)とも関わるものでしょう。
要するに...拡大解釈と言われようが、それはあらゆる宗教、スピ、哲学...あらゆる精神的な道に関わるもの、と言ってもいいのです。
言葉は馴染みが無いのでしょうが、何ら特殊なことを言っているのではありません。(それらを包括させるような言葉が、これまで伝えられて来なかったのが不思議に思えてなりません)
単純に神と言ってもいいでしょう。ただ、そこにはハタラキ的なものが伴っている...だから感覚されるに他ならないのです。
これを欠いた宗教、スピも抽象的な論議に終始するか、形式的な因習に堕すだけでしょう。
繰り返しますが、現臨とは現実に臨むものであるi...生きたものであるi...抽象的思弁と区別されるもの...
それは普ねく知られているものであるi...普遍的な含みをもたせるもの...
そして、神的なものであり、私自身に関わるもの...
現臨という表現を使う場合、これらのことが、念頭に入れられているのです。
直接触れてない場合でも、このブログは、ほとんどそれについて書いているのは間違いでしょう。
何故ならば、いつもそれを感じて書いているのだから...。


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