人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、真我への瞑想と祈り

2023-10-28 09:53:02 | 祈りと瞑想
度々言っているように、“意識的になること”が如何に人生で大切なものであるか...意識があなたの人生を作り出していると言っても過言ではないのです。
だから、意識を何に置いているか、向けているかが重要であるのは言うまでもありません。
しかし、我々は日常生活に追われ、埋もれがちなので、特別にそのような時間を作らなければなりません。それが瞑想であったり祈りであったりする訳ですね。
私がしばしば言っている、思いを超えたもの、神的なものに意識を向ける、というのは祈りとして捉えられるのに対し、自己の内面に向ける方を瞑想と捉えることも出来るでしょう。一応は...
実際のところ、瞑想というのは、各種色々なやり方があって、どういうやり方でやったらいいか分からないという向きもいるでしょう。
一方祈りというのは...自分の思いを超えたものに向けられるものに色々なやり方があるというのは、私的には分かりませんが...祈りの文句など色々なものがあることは認めます。一応は...
では、私はどういうやり方、方法でしているのか?...知りません!
私は今瞑想、祈り(らしきもの?)は、意識的になること、意識をどこに向けるか、という関連で簡単ながら述べました。
これは、そういうことに導かれないものは、瞑想でも祈りでもない、と言っているようなものなのです!
やり方?...ホント、知らないですねえ!...意識が向けられ、神に、本当の私?につながれば、それが瞑想、祈りでしょう。いや、そんな呼称すらも必要無いでしょう。意識的になることがあるだけなのです。
そして、神的なものに意識が向けられても、私自身(真我)にでも、それは分離されなくなる...祈りと瞑想は一つのものということが分かるのです。
そして、又そのように意識を向けるということは、実は特別な時間を設けなくとも、寝ても覚めても常時可能なので、修行というものに囚われる必要がありません。
ですから、とにかく、意識的になることなのです。こう言ってもひどく漠然としていますね。しかし、私の経験でも神、私自身というのは、意識が向けやすいもので、もう、惹きつけられる、引き込まれるようなくらいです。
それで、意識的にならない、どこに向かうのか分からない、色々なものに迷ったりしません。
又、迷っているのなら、“マ“が差すとか、危険な状態に陥りそうな時は神に祈ればいいし、私自身に意識を向ければ、落ち着くことが出来ます。
このように、主眼となるものは意識的になることですが、そのためには神、真我への瞑想と祈りを広く推したいと思う次第です。
神、真我って何だ?...私はあなたのことは知らない!
あなたの神、あなた自身に決まってるでしょう!
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