人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と仏

2023-11-26 09:31:09 | 宗教
まったく常識的なことですが、日本人は昔から神と仏を信仰している、それが日本人の宗教なんだ、と言って大抵の人には頷いてもらえるでしょう。
そのように一般には認知されているのです。(いや、そうしてみると一宗派の一つに過ぎない仏教の影響力の大きさというものを改めて感じてきます)
で、“神と仏とはどう違うのか?“、なんてことも昔から取り沙汰されたりしています。
そんなもん、どっちも自分、思いを超えているということでは同じだし、そんな理屈ごとなんかで神仏につながることなど出来まへんやろ!、と私は言いたくなる訳ですが...
理屈を言ったら神にも一神教やら多神教やらあるし、仏でも、ブッダその人を差したり、そういう悟った人のことでもあるし、内なる仏性のことみたいだし、大乗になると、それは仏教に非ずということも言われているが、大日如来とか阿弥陀、観音様とか神と同じように礼拝されたりしているのも沢山あったりで、もう、きり無いわ!...訳が分からないから大雑把に“神仏“でいいんでしょう?
私はしかし、どうしてもそこに意識が向かわざるを得なくなるのです。
意識されると、先のように区別など出来なくなるのですが、それでも幾分その“向き“に異なるものも感じます。
神という言葉からの、又それを超えた響きには、いつも言うように自分、思いを超えた、超越的なものが感じられます。そこにも自己と切り離されないものがあるのは言うまでもありませんが...
一方仏というのは、大日如来などのすべてに超越した宇宙神のような性格を持ったものでも、自己に内在する仏、仏性のようなもの、言うなれば真我的なものと切り離されないものが感じられます。
いや、当のブッダはそうした実体ある真我を否定し、無我を説いたんだ、という意見もあるでしょう。
いやいや、それは我があろうと無かろうと、凡我を超えた“梵我“のことを問題にしているのに変わりは無いんだ、なんて声もここから聞こえるぞ?!...要するに真我的なものの響きが伝わってくるのです。
だから...“日本人は昔から神仏を信仰して来たんだ“、と当たり前のように馴染んで来た思いに改めて意識が向けられると...そうだ、我々は超越的にして内在的な、普遍的な宗教精神を、そうと知らずに育んで来たのだなあ、と感じてきて、何とも言えない驚きと感謝の思いでいっぱいになります。
何か自ずからす~っと、その一にして二、二にして一なる、ひいては全一なる“神仏“に吸い込まれるようになるのです。
いいかげんにして、大雑把な日本人の神仏観には、このような普遍性に開けた、“大和“なる精神が内包されているのです。
日本人の内なる神仏のこころが呼び覚まされるのを願わずにおれません!...

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