とても感覚的なことなので、意味が”通り”にくいかもしれませんが、私は読書している時などよくその文章が”入る、通る”という感じを持つことがあります。
これは、必ずしもその意味が分かった、ということではありません。
いや、意味など追求していたのでは通りますまい...あーだ、こーだ、と思考を巡らしているだけならば!...
”入ってくる、通るもんがある!”...これが理屈を超えて、意識がそれに向かう、それに触れて意識的になる、ということを表しているのです。
そこに何かがハタライていると言ってもいいでしょう。
これがもっと深く、その思いを超えたハタラキに与ることになれば、よりそのことがハッキリしてくるのです。
通るということは、ここ、この私の中にずっと留まっている、ということではありません。それを捉えよう、取ろうとすることではありません。
意味を追求したり、分かろうとすることは、得てしてそういうことにつながりますね。
世間では、そこを”しっかり握る”、とか”自分のモノにする”ようなことが奨励されているようですが、形なきハタラキは私物化なんか出来る訳ないでしょ!、それじゃ通らん!...通らんものは、そう、開かれないのです。
だから、これは私の思想、主義、信仰、信念などを確立することとは、違うのですって!...
自分の中に入る、通るということは、ある意味で内奥の深部に触れること、より私自身と一枚になることと言えるかもしれません。
そこに、思い、信じようとする私と対象となる主義や信仰の二元性は越えられてしまうのです。そういう私は退けられるということ...どこまでも、そのハタラキが主導でなされることなのです。
通るということは、当たり前の話、現実に通るということなんであります。
”この教えが最高なんだから、あなたは信じ、従わなければならない!”、なんて宗教では、言葉の暴力と言っていいようなことか、まかり”通っている”ようですが、現実に入ってこない、通らないものを曲げて通らせようとすれば、本然の自分の心を覆い隠すことになるだけですよ。
通らんものを通らせようなんて道理は通らん!...それは実に神的なハタラキを欠いていることの表れではないか?
本当に信じる宗教というものは、余計な、罪作りなことばかりしているではないか?
もし、そこに思いを超えたハタラキが臨んだなら、自ずから心は開かれ、そこに涼風が吹き込むようにその愛、安らぎを運ぶ風が通ってゆくだろう...
本然の、自然な心を、操作したり、加工したりする”さかしら”で誤魔化してはならないのです。
通るものは、開かれてゆく...ということは、それは一個なる私を超えて、他者へと伝わりゆく可能性があるということです。
私がこうして拙いながら書いていることが、どれだけの人に伝わるのかは知る由もありませんが、それは風の吹くままに、任せるよりないでありましょう...
”あ、何かワカランが、通るものが感じられる!”、と私がこれまで感じてきたようなことが、僅かなりとも伝わればいいな、との願いで書き続けている次第なのです...。
これは、必ずしもその意味が分かった、ということではありません。
いや、意味など追求していたのでは通りますまい...あーだ、こーだ、と思考を巡らしているだけならば!...
”入ってくる、通るもんがある!”...これが理屈を超えて、意識がそれに向かう、それに触れて意識的になる、ということを表しているのです。
そこに何かがハタライていると言ってもいいでしょう。
これがもっと深く、その思いを超えたハタラキに与ることになれば、よりそのことがハッキリしてくるのです。
通るということは、ここ、この私の中にずっと留まっている、ということではありません。それを捉えよう、取ろうとすることではありません。
意味を追求したり、分かろうとすることは、得てしてそういうことにつながりますね。
世間では、そこを”しっかり握る”、とか”自分のモノにする”ようなことが奨励されているようですが、形なきハタラキは私物化なんか出来る訳ないでしょ!、それじゃ通らん!...通らんものは、そう、開かれないのです。
だから、これは私の思想、主義、信仰、信念などを確立することとは、違うのですって!...
自分の中に入る、通るということは、ある意味で内奥の深部に触れること、より私自身と一枚になることと言えるかもしれません。
そこに、思い、信じようとする私と対象となる主義や信仰の二元性は越えられてしまうのです。そういう私は退けられるということ...どこまでも、そのハタラキが主導でなされることなのです。
通るということは、当たり前の話、現実に通るということなんであります。
”この教えが最高なんだから、あなたは信じ、従わなければならない!”、なんて宗教では、言葉の暴力と言っていいようなことか、まかり”通っている”ようですが、現実に入ってこない、通らないものを曲げて通らせようとすれば、本然の自分の心を覆い隠すことになるだけですよ。
通らんものを通らせようなんて道理は通らん!...それは実に神的なハタラキを欠いていることの表れではないか?
本当に信じる宗教というものは、余計な、罪作りなことばかりしているではないか?
もし、そこに思いを超えたハタラキが臨んだなら、自ずから心は開かれ、そこに涼風が吹き込むようにその愛、安らぎを運ぶ風が通ってゆくだろう...
本然の、自然な心を、操作したり、加工したりする”さかしら”で誤魔化してはならないのです。
通るものは、開かれてゆく...ということは、それは一個なる私を超えて、他者へと伝わりゆく可能性があるということです。
私がこうして拙いながら書いていることが、どれだけの人に伝わるのかは知る由もありませんが、それは風の吹くままに、任せるよりないでありましょう...
”あ、何かワカランが、通るものが感じられる!”、と私がこれまで感じてきたようなことが、僅かなりとも伝わればいいな、との願いで書き続けている次第なのです...。