昭和55年の梅雨の頃だったと思います。
夜中に、ふとしたところから何か喜びが突き上げて来るような感じを覚え、小雨模様にも関わらず外に出て、街中を当てどなくさまよい歩いたことがありました。
前回も書いたように、この頃はよく意識が高揚することがあり、クンダリーニか何かが急に上昇したのかも分かりません。
その時、確か聖霊を受けられますように、とか霊的な人間になりますように!...などと祈っていたものでした。今の私が当時の私を見たら、何か霊が降りて来てるような霊的な人間のように見えることでしょう?
そして、何か聖霊のバプテスマのような覚醒体験が起こるような予感がしたのですが、しばらくして梅雨が開けた頃、そういう高揚感を伴う霊的な感覚は突如消えてしまったのでした。
しかし数年後、そのように“静まったまま“の状態の中でしたが、思いがけずその覚醒体験と呼んでいいようなことが起こりました。その予感は時間はズレながらも実現したのです。
“これだったんだ!“...それは、頭で思い描いた通りという意味では無く、心の底でずっと感じていたものがどっとその時顕わになったという感じでした。(それも程なく再び静まってしまったのでしたが)
“きっとそういうことがある!“...そのように現実に体験する前から知らされていたようなのです。
こういうこと以外にも、私は人から“あなたは冷たい、人間的な情というものが無い!“と言われたりして、もっと愛を感じられる人間になりたい!、と望んだものでしたが、愛深い人間になったかは別として、まさかこの場で、愛について、人があまり触れない“愛そのもの“についてのことなどを書くような人間になるとは思ってもみませんでした。
つまり、私は見かけはともかく愛を感じられる人間だったのです。でなければそういう望みなど持てるはずが無いでしょう?
そうそう私は、精神的な道、霊性の道について書くような文筆家になりたいと思っていたのでした。
デキたかデキソコナイかは別として、私はペンこそ持ちませんが、もう十年以上もこういうことをやっているのです。ただし、それで生計を立てている訳ではありませんが、まあ満足してますよ。
あなたはどういう自分になりたいですか?、そういう自分を感じることが出来ますか?
感じられるのなら、きっとなれます。いやもう、なっているのではありませんか?
このことを漠然と思っているのでなく、意識してみるのです。というか意識されているから感じることが出来るのです。
あなたがなりたい自分とは、いつかはなれるような特別な人間のことでしょうか?...そのことを職業にしないとダメでしょうか?
私も一時霊的な人間になりたいと望んだ、スピリチュアル.ティーチャーなんかは、なった途端に功名心とか利潤に目が眩んで、スピリチュアルでなくなったりするのが世の常でしょう?
いつかはなれるという境地、待遇のようなものに囚われると、現在進行中のことに気付かなかったりするのです。
理屈抜きであることに惹かれている人は、もうそれを生きている人間ということなのでしょう。
それは、おそらく自分の本心から来るものだから、どうあってもこうあってもそうならざるを得ないのでしょう。
夜中に、ふとしたところから何か喜びが突き上げて来るような感じを覚え、小雨模様にも関わらず外に出て、街中を当てどなくさまよい歩いたことがありました。
前回も書いたように、この頃はよく意識が高揚することがあり、クンダリーニか何かが急に上昇したのかも分かりません。
その時、確か聖霊を受けられますように、とか霊的な人間になりますように!...などと祈っていたものでした。今の私が当時の私を見たら、何か霊が降りて来てるような霊的な人間のように見えることでしょう?
そして、何か聖霊のバプテスマのような覚醒体験が起こるような予感がしたのですが、しばらくして梅雨が開けた頃、そういう高揚感を伴う霊的な感覚は突如消えてしまったのでした。
しかし数年後、そのように“静まったまま“の状態の中でしたが、思いがけずその覚醒体験と呼んでいいようなことが起こりました。その予感は時間はズレながらも実現したのです。
“これだったんだ!“...それは、頭で思い描いた通りという意味では無く、心の底でずっと感じていたものがどっとその時顕わになったという感じでした。(それも程なく再び静まってしまったのでしたが)
“きっとそういうことがある!“...そのように現実に体験する前から知らされていたようなのです。
こういうこと以外にも、私は人から“あなたは冷たい、人間的な情というものが無い!“と言われたりして、もっと愛を感じられる人間になりたい!、と望んだものでしたが、愛深い人間になったかは別として、まさかこの場で、愛について、人があまり触れない“愛そのもの“についてのことなどを書くような人間になるとは思ってもみませんでした。
つまり、私は見かけはともかく愛を感じられる人間だったのです。でなければそういう望みなど持てるはずが無いでしょう?
そうそう私は、精神的な道、霊性の道について書くような文筆家になりたいと思っていたのでした。
デキたかデキソコナイかは別として、私はペンこそ持ちませんが、もう十年以上もこういうことをやっているのです。ただし、それで生計を立てている訳ではありませんが、まあ満足してますよ。
あなたはどういう自分になりたいですか?、そういう自分を感じることが出来ますか?
感じられるのなら、きっとなれます。いやもう、なっているのではありませんか?
このことを漠然と思っているのでなく、意識してみるのです。というか意識されているから感じることが出来るのです。
あなたがなりたい自分とは、いつかはなれるような特別な人間のことでしょうか?...そのことを職業にしないとダメでしょうか?
私も一時霊的な人間になりたいと望んだ、スピリチュアル.ティーチャーなんかは、なった途端に功名心とか利潤に目が眩んで、スピリチュアルでなくなったりするのが世の常でしょう?
いつかはなれるという境地、待遇のようなものに囚われると、現在進行中のことに気付かなかったりするのです。
理屈抜きであることに惹かれている人は、もうそれを生きている人間ということなのでしょう。
それは、おそらく自分の本心から来るものだから、どうあってもこうあってもそうならざるを得ないのでしょう。
しかし、『心身の神癒』という書籍に出会い、その後、貴殿のブログに辿り着いたことが、私の意識を大きく変えるきっかけとなりました。おかげさまで、偏った宗教観や、神を意識しない瞑想に対して違和感を抱くようになり、自分自身の内面と真摯に向き合えるようになりました。
本日のブログにあった「理屈抜きであることに惹かれている人は、もうそれを生きている人間ということなのでしょう。それは、おそらく自分の本心から来るものだから…」というお言葉に、とても嬉しくなりました。
かつて唯物論者だった私ですが、貴殿の提唱する〈神に意識を向けるだけの瞑想〉に深く惹かれて続けております。日常の中でも、自然と神をお慕いし、意識する時間が増えていることを実感しています。
心から感謝申し上げます。これからも貴殿のブログを楽しみに拝読させていただきます。
「心身の神癒」も神を意識することと自分自身を意識することは、神(真)我として一つにつながっていることをが語られているように感じます。
真摯にご自分に向き合われておられる貴方は本当に尊く思います。
拙ブログの読者に貴方のような方がおられ、続けている甲斐を感じずにおれません。有難うございます。
どうか貴方の天命が全うされますように。