人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いに先立つもの

2024-08-05 09:47:13 | 求道、探究
何度も言っているように、私には特定の修行法というものは身についていないのです。
今から考えると、これは実に簡単な理由からと思えるのですが、これまでの私の歩みの中で、そのことをあまり深く意識されることはありませんでした。
ただ、そういうことにはあまり関心が向かなかった、と感じていただけだったようなのです。
しかし、こうして今書いているだけですぐ分かってきますよ!
それは、始めに、何が最初に意識されるのか、ということに関わってくるのです。
言い換えると、“そのもの無しには何も始まってこないものがある“、ということなのです。
それは何かと言えば、そう、私を超えたもの、神的なもののことに他なりません!
そのものがここに臨めば、どうやって、どういう形で行うか、ということはどうでもよくなってしまうのです。
修行方法とかメソッドというものは、言うまでもなく私が思い、意志的な努力で“行う“ものです。それには、その私を超えた、神的なものにつながるためという目的が見据えられているかもしれません。これは、まあ分かる...ちゃんとまっすぐに意識が向けられているのであれば!...
だけど、多くの場合それは、“私が思い、為すこと“に向けられ、囚われてしまう傾向があると言えるし、それが又、例えば超能力の開発といったことに向けられてしまえば、いよいよ脱線、迷いに陥ることになるでしょう。
私を超えた、神的なものとつながる...思い、為そうとする私からは中々そう意識されないことは当たり前な話ですよね?
だけど、そういう願いはあるのでしょう?、ということはそれは祈りにつながるということです。
漠然と思うことじゃない、それはもっと意識的になることなのです。
そう願う、祈るということには、そのように意識が動くということが感じられないでしょうか?
感じられる人には分かるはずなのです。そのもの無しには何も開かれないものが、そこに開かれてくるということが!
そこでは、どういうやり方とか形、私が為す何かというものは、すべて超えられてしまうのです。
すぐには感じられない、開かれないかもしれません。が...それは当たり前と思う必要はありません。
当たり前だと思っている人は、ハナっから神のことなど信じちゃいないのです。私を、思いを超えたものが、そういうハタラキがあるということなど!
だから、誰かが、あるいは自分が考えたであろう、方法に頼り、囚われるのではありませんか?
何故、自分の思いに先立つものに意識を向け、そのハタラキを待ち望むことが出来ないのだろうか!...それは、思い、為そうとする主我的なものに意識が向けられるか、それを超えたものに向けられるか、という問題に尽きるでしょう!
ここを疎かにすると、この根本から外れ、色々な雑行に迷ったりして、何年も何十年も無駄なことを繰り返すハメになるのです!
私を超えたもの、それは私の命の大本に違いない!...それにつながりたいと願う、祈る...
“私の命の大本である御方よ、どうかあなたの御心のままに導き下さい!“...

昭和53年の今頃、私は入信していた教団を辞めて8か月くらい経ちました。
その頃には、あまり意識はされていませんでしたが、神的な現臨にある状態と言っているものの萌芽は確かに芽生えていたのでした。
そのように、神を待ち望む祈りが自然と身につくことによって!
このことが、ずっとここで、私には特定の修行方法は身についていないが、祈りというものはあった、と言っている所以なのです!...






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