人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

すべての私の自己実現

2024-01-28 09:32:19 | スピリチュアル
自己認識、自己実現...自己とは何か?...すべての精神的な道は、自己なるものを明らかにすることを抜きには語れないと言っても過言ではありません。
そうでないなら一体何になるというのか!
悟り、覚醒、神我一体...表現は何であれ、このことから離れてはあり得ないことでしょう。
ところが、宗教的狂信、カルト信仰、興味本位のオカルト信仰...これらもそういう道として捉えられていますが、これらに共通して言えることは、自己自身に意識が向けられないということです。
“○○先生はこう言った、それだけが正しい“、“世界は闇の勢力、陰謀結社に支配されている“、“やがて世界人口は半分になる...“、すべて自分に直接関係の無いことばかり、ここにある現実からは浮いた観念ごとばかり...ここにある現実とは則ち、“私はここにある“、ということに他なりません。
しかし、ここにない自分にとって自己とは、多く他者の目を意識した自己、他者に認められたい自己のことであり、何の色もつけられない自己そのものに向けられることはありません。これが自我というものなのです。
そして、いつも正しい自己、高きにある自己、つまりは自己の虚像を他にアッピールしなければならない...それは、ありのままの自分ではありません。
しかしながら、その自分を受け入れられれば、当面ではそれが本当の自己ということになるでしょう。
それはしかし又、思われた自分からは中々そうなれないというのも事実でしょう。
だから、私にはどうしてもそれは、“思いを超えたものに照らされた自己“、という言い方にならざるを得ないのです。
何も虚飾の無い自己そのものを意識してみる...これを普通、“自己を見つめる“とか言うのでしょうが、そうするともう、即座に、自然に自分を超えたものに意識が向いてしまうのです。
超越したものと切り離された自己というものは感じられないのです。
これを神的なものにある自己、現臨にある自己と言ってもいいでしょう。
この感覚をも少し広げてみると、超越したものが現実に切り込んでゆく(これは、主としてベルジャーエフの言い回しを借りてます)ようにも、又自己の内に隠れていたものが、現実に顕わになる(これは主として玉城康四郎先生の言い回し)ようにも感じられます。
要するに、超越と実存は切り離されないということでしょう。
そして、私の思いを超えて、そのものが私を通して何かを実現しようとしているようなのです。
それは何か?...勿論それは分かりません。又言えません。
私一個人からは!...
それは、すべての私がしていることなのだろうから!...




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