人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自力、他力、絶対力

2023-04-15 10:00:33 | 求道、探究
「仏教の他の多くの宗派、さらに原始経典までさかのぼってみますと、自力、他力ということはない」(玉城康四郎)

仏教では自力修行の自力、他力と分けられて捉えられていますが、自力というのは、主に浄土宗の方から、それも同門の一向専心の念仏からズレて、自力による”雑行”に赴いてしまう在り方に対して言われ出したのです。
どうも、念仏を数多く称えなければならないとか、如来を強く念じなければならない、などの念仏行に囚われてしまうことから、そういう傾向が生まれるようです。
ヨガや密教、禅など修行を伴う道は、自力の道ということが当たり前のように理解されているようですが、多くの宗教的回心、悟り体験に与った話に接して、その修行課程そのものがそれらに直結した、という例は、私はほとんど聞いたことがありません。
大体が思いがけないところからそれは”起こる”のであり、けっして”なし得る”ことではない、ということです。
それが言うまでもなく、思いを超えたものに与る、ということなのだから!...
一方で、他力の道では、多く神、如来の力を信じること、信心ということと結びつけられて理解されているようです。
勿論、信じるだけで、そういうものに与るということはありません。信じることが思い、観念である限りは!...だから、観念的信仰では、一向にモノにならず、飽き足らなくなって、断食だとか、何々メソッドとかの雑行に走る向きも出て来るのでしょう。もっとも、そうしたからって、何かが起こるということも無いでしょうが!...
どうもこのように、”自力だ、他力だ!”、と囚われるところには、もっとも肝心なこと、それ無くしては、すべて成り立たなくなるものが欠落してしまうようです。
何度か言っているように、自力という言葉について、それは本来、”おのずからなる力”のことを言い表しているものでしょう。
自力で為すことも、他力依存の観念的信心も超えて、自然(じねん)に生きて、ハタラく神的、如来の力...これを呼び覚ますことが第一義であるはずです。
自力、他力ということと関連付ければ、幾分、内在的に感じられるものが前者、超越的に感じられるものが後者ということは言えるでしょう。
どちらも自己実存と切り離されるものではありません。思いを超えて、それに先立ってあるもの...この意味で自力、他力を超えた絶対力という他はないでしょう。
ここには、禅的な自力行も、念仏の他力信心も超えられ、原始仏教をも超えた、原始の普遍性が顕わになるのではないでしょうか?...

コメント
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