goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存との出会い

2022-01-15 10:17:19 | 回想
何度も言っているように、精神的な道においては、意識の在り方というものがきわめて重要なことです。
あれこれと考え巡らしたりするので無しに意識的になる...私の場合それは、同時にそうさせられた、と言ってもいいのですが、これは実存的になると言い換えてもいいでしょう。
昭和54年初春辺りから私の内面に顕著に表れた変化は、このプロセスが進行していたということです。
けっして超能力や超常的現象に与った訳じゃありませんよ。真剣にそれらを追い求めたことは無いにせよ、一時期そういうものに興味を覚えたこともありますが、むしろそれらから距離を置くようになった、と言ってもいいのです。
それらは、私の内面、実存と直接関わるものでないから...そう、それは私の直接性の外にあるものだから...
意識的に在る、実存的に在ることは、直に在ることなのです。自ずとそちらに赴かざるを得ない...何故ならば、そこには思い描いた世界からは与り知れない、愛、平安、リアリティがあるから...それに尽きてしまう...。
そこに赴いてしまうものがあるi...これは自分で書いていて驚嘆させられてしまいますi...それは、探し求めなければ得られないものではないのか?
この直接性とは私が探し求め、しかる後に得る、という二元性が突破されている、ということに他なりません。このことは私自らからは絶対にもたらされるものでは無いi...私を超えたもの、もしくは思われた私以前から在るもの(内在するもの)から来るのですi
それを聖霊と言わんか、現臨と言わんか...このことは小池辰雄先生との出会い、もう少し後で(その小池先生が訳されたという奇縁i)ベルジャーエフとの出会いに負うところが大きかったのです。
その当時は自覚的になっておらず、単なる思想的な共感によるものだ、と思っていた部分もあったのですが、それを全く超えたものであることは今も息づいている、その現臨感覚とも言うべきもので分かるのです。
初めて読んだ小池先生の著書には、随所に"無的実存"とか"終末的実存"といったフレーズが見られます。ベルジャーエフのその本の題名は、「神と人間の実存的弁証法」というものでした。
それを読んだだけで、"実存とは何ぞや?"、ということは、特にそれに触れている訳でも無し、サッパリ分かりません。
しかし、こういうことは言葉を超えて伝わって来ました。彼らは、神に"ついて"、キリストについて、又人間実存について語っているのではないi、神的、霊的実存"から"語っている、ということが...。
だから...実存とは何か?、などのことは知的概念で分かるようなことじゃない、我が神的、霊的実存にあって示されることなのだ、と。
この実存とは、全く思いを超えたものであり、又思われた私以前からあるものである...思われた私からは、私の実存のことなど分かりようがありません。
しかし、このものにあっては、全く自明なことではないかi...思念の果てしない堂々巡りが突破され、"私は在る"実存そのものに落ちてしまうのだから...
そして、このことは翌年春頃、やはりベルジャーエフの「精神と現実」という本の読書体験を通して示されたのでした...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする