私は、相反する性質が同居しているジッつに矛盾だらけの人間です。
二面性というよりもっと複雑なのかも知れません。
グルジェフじゃないけど、複数の自分が”統合された人格”という王座を奪取せんものとひしめき合ってるみたいです。
最もその王座というのはいつも空位のようなのですが…
こないだ、”思慮深い私”と”あまり考えないノーテンキな私”とで、王座決定戦が行われたようですが、これが大モメになりました。
(とにかく考えすぎる方は、時折、強烈なパンチを見舞うものの、考えてばかりで手を出さなかったのが痛かった!)
後者の私が、強引に”これがホントの自分だ!”と言い張って、ベルトを持ち逃げしようとして、会長からクレームがついたのです。
「思考の重圧から解放されているからって、ホントの自分で居られるとでもいうのかね?」と…
概ね、日常で自覚出来る私というのは、この二つに分かれるのですが、確かに自分自身で居られるという感じになるのはどちらでもありません。
真我というか、何がホントの自分かという事は分かりませんが、自分を取り戻したように感じる事は別のところにあります。
そして、そこでは相反する私も統合されるのです。何かの弁証法のように…
総統閣下のような傍若無人な私さえも、その地位をあの無力な子供のような存在に譲らざるを得なくなるのです。
ただ、この私のまんまでは、そういうことにならなくて、あるキッカケでフタが開けられないとそうなりません。
これは、私の同年輩のオッサンには、ほとんど化石となってしまっているように思えます。
少なくとも私は、これが開かれているような年配の人には、滅多にお目にかかりません。
もっとも、誰しも男だったら表に出すのをはばかるでしょうから、そう見えにくいのかもしれません。
なにしろ、男ってーのは、野心が有り、成功をめざし、理屈言ったり、力を誇示し、支配しようとしたり…とにかく強くなくっちゃなりませんからね。(男どもには何時もどっかから”強くなくてはならない!”って脅迫されているでしょう?)
これは絶対的に女性には先天的に恵まれているものです。
これは、キッカケとなるものによって開かれると言いました。
つまりそれは…愛としか言いようのないもののことです。愛、ハートのハタラキです。
私はこれまでの人生で何度か、周囲のどっかからの声に迎合して、その恩恵を見失ってしまったように思った事が有りましたが、まだその泉からは今もコンコンと水が湧き出ています。
私はもう身も心もくたびれていますが、ある面で若いのはこの事に由るのでしょう…(自分で言うか!…笑)
いつもいつもそうなっている訳では無いですが、とにかく都会の喧騒の中に、命のオアシスを見出したように感じます。
それは確かに泉のようにスポット的な有り様なのかも知れません。しかし、泉の存在は地下水が流れていることを伝えているのです。
世の人は言うでしょう…”人間とは、成長した大人とは、男とはこう生きるべき、こうあるべきなんだ”と…
しかし、ずっとそういう自分でない声ばかりに耳を傾け、自分自身で居られるという感性を押し殺したりしてはいませんか?
愛とは無論、異性や親子の間などに限られるものでは有りません。
他愛のないものだろうと愛は愛…肝心な事は本当に心がそこに惹きつけられてしまうかどうかという事、シンプルに愛を感じられるかどうかという事です。
人はゴマカせても、自分の魂はゴマカしようがありません!
”あの泉はとうに枯渇してしまった…”などと言うなかれ!…大雨が降った後など、どっかから地下水がコンコンと染み出てくることも有る…
私は何が自分だか、全くアテにならない人間ですが、これには騙されたって構いません…。
二面性というよりもっと複雑なのかも知れません。
グルジェフじゃないけど、複数の自分が”統合された人格”という王座を奪取せんものとひしめき合ってるみたいです。
最もその王座というのはいつも空位のようなのですが…
こないだ、”思慮深い私”と”あまり考えないノーテンキな私”とで、王座決定戦が行われたようですが、これが大モメになりました。
(とにかく考えすぎる方は、時折、強烈なパンチを見舞うものの、考えてばかりで手を出さなかったのが痛かった!)
後者の私が、強引に”これがホントの自分だ!”と言い張って、ベルトを持ち逃げしようとして、会長からクレームがついたのです。
「思考の重圧から解放されているからって、ホントの自分で居られるとでもいうのかね?」と…
概ね、日常で自覚出来る私というのは、この二つに分かれるのですが、確かに自分自身で居られるという感じになるのはどちらでもありません。
真我というか、何がホントの自分かという事は分かりませんが、自分を取り戻したように感じる事は別のところにあります。
そして、そこでは相反する私も統合されるのです。何かの弁証法のように…
総統閣下のような傍若無人な私さえも、その地位をあの無力な子供のような存在に譲らざるを得なくなるのです。
ただ、この私のまんまでは、そういうことにならなくて、あるキッカケでフタが開けられないとそうなりません。
これは、私の同年輩のオッサンには、ほとんど化石となってしまっているように思えます。
少なくとも私は、これが開かれているような年配の人には、滅多にお目にかかりません。
もっとも、誰しも男だったら表に出すのをはばかるでしょうから、そう見えにくいのかもしれません。
なにしろ、男ってーのは、野心が有り、成功をめざし、理屈言ったり、力を誇示し、支配しようとしたり…とにかく強くなくっちゃなりませんからね。(男どもには何時もどっかから”強くなくてはならない!”って脅迫されているでしょう?)
これは絶対的に女性には先天的に恵まれているものです。
これは、キッカケとなるものによって開かれると言いました。
つまりそれは…愛としか言いようのないもののことです。愛、ハートのハタラキです。
私はこれまでの人生で何度か、周囲のどっかからの声に迎合して、その恩恵を見失ってしまったように思った事が有りましたが、まだその泉からは今もコンコンと水が湧き出ています。
私はもう身も心もくたびれていますが、ある面で若いのはこの事に由るのでしょう…(自分で言うか!…笑)
いつもいつもそうなっている訳では無いですが、とにかく都会の喧騒の中に、命のオアシスを見出したように感じます。
それは確かに泉のようにスポット的な有り様なのかも知れません。しかし、泉の存在は地下水が流れていることを伝えているのです。
世の人は言うでしょう…”人間とは、成長した大人とは、男とはこう生きるべき、こうあるべきなんだ”と…
しかし、ずっとそういう自分でない声ばかりに耳を傾け、自分自身で居られるという感性を押し殺したりしてはいませんか?
愛とは無論、異性や親子の間などに限られるものでは有りません。
他愛のないものだろうと愛は愛…肝心な事は本当に心がそこに惹きつけられてしまうかどうかという事、シンプルに愛を感じられるかどうかという事です。
人はゴマカせても、自分の魂はゴマカしようがありません!
”あの泉はとうに枯渇してしまった…”などと言うなかれ!…大雨が降った後など、どっかから地下水がコンコンと染み出てくることも有る…
私は何が自分だか、全くアテにならない人間ですが、これには騙されたって構いません…。