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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

クエーカー❸ 沈黙の礼拝

2015-08-17 20:32:19 | 秘教、その他団体
クエーカーの礼拝会で認知されているものには凡そ次のようなものがあると思われます。
「牧師などによって仕切られるプログラムが存在しない。
一人一人が静黙のうちに神を待ち望み、やがて神の声を聞き、洗礼といった儀式に依らない、聖霊直々の洗礼に預かる…
礼拝中、神から霊感を与えられたものは、立ち上がって神よりのメッセージを述べる(感話)」

あらかじめ言っておかなければならないことは、これらのことはあくまで昔から”言い伝えられていること”を表明しているものだということです。
現実にそのように礼拝会が展開しているかどうかは別の話です。
ある時東京の集会で、初めて参会に来た方から礼拝後こんなこと言われてビックリしたことがあります。
「私には神の声など聞こえてきませんでした…」すかさず私は答えました。
「もし、本当に神の声が聞こえてきたら、貴方の耳を疑った方がいいです。」と…このように外部には”言い伝えられていること”ばかりが膨らんで認知されているようです。
どんなものでもそうですが自分の目で、存在で確かめる事が肝要ですね…。
そんな訳で私は平成13年春、初めてクエーカーの大阪の集会に参じました。その会場は大阪郊外の借家の何か倉庫のような一室でした。
集まる者は4,5人くらいで本当にこじんまりとした集会でした。
古い会員さんから「求めているものは、自分自身で見つけることが大切です」という意味のことを言われましたが、メンバーがそろうと、いつの間にかその沈黙の礼拝が始まったらしいです。
そして「沈黙の祈りというものはどうやってするのですか?」と尋ねると…「やり方というものは有りません。あなたの自由になさったらいいです」
と聞いて、私はすぐ”我が意を得たり!”と感じたものです。
”じゃ、何時も身に覚えているものを導かれるままにやればいいんだな”と…
これ以前に私はK先生という瞑想指導者から”元波動瞑想”というものを伝授してもらったことがあるのですが、その時と同じ感想を持ちました。
この特別なメソッドの無い、ある種の瞑想というか祈りというものは、ずっといつの間にか私に馴染んでいるものなのでした。
ただその瞑想との違いはこの沈黙の祈りは”ロハ”だという事です。
この2年後、私は転職の関係で故郷の東京に帰ることになるのですが、月一回ながらもその二年間は私にとりとても有意義なものでした。
もっとも以前の私だったら、多分続かなかっただろうと思いますが…自分以外のところに霊的なパワーのようなものを求めていましたから…
その集会はもしかして霊的な面で後退しているのかもわからない…でも私は私でただ与えられたものを受け取って、為されるべきものを為せばいいだけなのです。
その集会はチッポケな、心もとないものなのかもわかりません。でもそこから何かが育っていくんじゃなかろうか…それを集まる者と共に見守っていくのも楽しい…私はこれまで幾つか宗教的グループと関わってきましたが、おそらくそんな心境になったのは初めてだと思います。

聖霊の直接的な感応云々という事についてですが、そのような表現がふさわしいのかどうかは別として、他人の経験談というものはほとんど直接には聞いた事が有りません。ただ私は何度か上よりの力に捉えられてしまった事が有ります。本当にそれは”揺さぶられる、震える”ものです。
でもそれはその集会を覆っている何かに感応したという事とは違うと思います。別のところでも起きるものだからです。
よくそういうものは神の霊感によるものなのかどうか分からない…という声も聞きますが、神云々…それは私にも分かりません。
ただ、その訪れは、そうなったら分かります。”ああだろうか、こうだろうか”という思いを超えてやってくるからです。
こういう話については何時も、私は相反するものが去来してきます。
そういう神秘体験みたいなものは、有ろうとなかろうとどっちでもいい…
だが、もしそれが合理的精神の下で否定されたり、もっと悪いことに合理的解釈ですりかえられたら、とても反発を覚えずにいられなくなります。
その反目する思いは東京に帰った後、しばしば駆られたのでした…。









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